令和こころ通信 『西日本新聞』連載 第01回

新元号に寄せる想い

 今月1日から「令和」の時代が始まった。正直言って、まだ違和感があるものの、新元号には可憐な響きとイメージがある。

 すでに有名になったが、新元号「令和」は、万葉集「梅花の歌三十二首」の序文「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」が出典である。

 記者会見に臨んだ安倍晋三首相は「令和は人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味です」と述べた。

 この「令和」、史上初の日本古典に基づいた元号と言う意味で、大変画期的であると思う。国際社会の中で「日本らしさ」が求められる昨今、その原点ともいえる『万葉集』から引かれたことは、喜ばしい。

 私は、「令和」が梅の花を詠んだ和歌に由来することに感銘を受けた。発表された4月1日の日本列島は桜の開花で賑わっていたが、この時期に梅の花に由来する元号が発表されたことは興味深いと思った。

 梅の花を見ると、いつも、わが座右の書である『論語』を連想する。孔子をこよなくリスペクトするわたしは、日本・中国・韓国をはじめとした東アジア諸国の人々の心には孔子の「礼」の精神が流れていると信じている。ところが、いま、日中韓の国際関係は良くない。日韓は良くないどころか、最悪である。3カ国の国民は究極の平和思想としての「礼」を思い起こす必要があると痛感する。それには、お互いの違いだけでなく、共通点にも注目する必要がある。

 そこで重要な役割を果たすのが梅の花である。日中韓の人々はいずれも梅の花を愛する。日本では桜、韓国ではむくげ、中国では牡丹が国花または最も人気のある花だが、日中韓で共通して尊ばれる花こそ梅なのだ。

 この意味は非常に大きい。それぞれの国花というナンバーワンに注目するだけでなく、梅というナンバー2に着目してはどうだろうか。そこから東アジアの平和の糸口が見えないものだろうかと考えてしまう。

 梅は寒い冬の日にいち早く香りの高い清楚な花を咲かせる。哲学者の梅原猛氏によれば、梅とは、まさに気高い人間の象徴であるという。日本人も中国人も韓国人も、いたずらにいがみ合わず、偏見を持たず、梅のように気高い人間を目指すべきではないだろうか。

 わたしは梅原氏を敬愛しており、膨大な氏の著作のほとんどを読んだが、惜しくも氏は今年の1月に逝去された。

「令和」という元号そのものが梅原氏の遺言のような気がしてならない。令和の時代を梅のように気高く生きたいものだ。