令和こころ通信 『西日本新聞』連載 第03回

この世は「有縁社会」

 先月19日、わが母校である小倉高の同窓会総会が開催された。第105回で、会場は母校の体育館である。

 わたしは高校34期なのだが、その席に着くと、なつかしい顔がそろっていた。同級生たちと昔の思い出話をしたり、近況を報告したりしていると、あっという間に時間が過ぎていく。

 いつも思うのは、高校の同級生ほど気の合う存在はないということ。なぜなら、出身地が同じ、年齢が同じ、加えて学力もしくはIQもだいたい同じくらい(?)ということで、三拍子がそろっているからである。

 この日は先輩や後輩、そして同級生たちが千人以上も参集した。職業もさまざまで、会社の経営者もいれば、お医者さんも弁護士さんもいる。お坊さんや芸術家の先生もいる。

 日頃からお世話になっている顔見知りの方にばったり会って、母校が同じだと初めて知ることもしばしばである。多くの方々とお話ししていると、「ああ、良いご縁に恵まれたなあ」と痛感する。

 同窓会総会の最後には、校歌を全員で合唱するが、いつも胸が熱くなる。母校の校歌を歌うとき、わたしは「学縁」というものを強く感じる。

 その翌日は、わたしの結婚記念日であった。それも結婚30周年の日である。そう、わたしたち夫婦は平成元年5月20日に結婚式を挙げた。わたしが26歳になったばかりで、大学の後輩の妻は22歳であった。

 わたしのような気が短くて欠点だらけの人間に30年も連れ添ってくれた妻には、ただただ感謝するばかりである。

 人は、いろんな偶然のもとに人と出会うが、「浜の真砂」という言葉があるように、数えきれないほどの結婚可能な相手の中からたった一人と結ばれるとは、何たる縁だろうか!

 ちなみに、わたしの両親も今年で結婚60周年を迎えたが、すべての結婚は奇跡であるように思えてならない。

 2010年、NHKの番組がきっかけとなり、「無縁社会」という言葉が流行した。この年は『葬式は、要らない』という本がベストセラーになるなど、日本人の血縁、地縁が希薄化していることを多くの人々が思い知ったようである。

 しかし、そもそも「無縁社会」という言葉は日本語としておかしい。なぜなら、「社会」とは「関係性のある人々のネットワーク」だからである。仏教的に言えば、「縁ある衆生の集まり」という意味なのだ。

「社会」というのは、最初から「有縁」なのである。そして、目に見えない「縁」なるものを可視化してくれるのが同窓会であり、結婚式や葬儀、すなわち冠婚葬祭ではないだろうか。