令和こころ通信 『西日本新聞』連載 第07回

小倉に落ちるはずの原爆

 8月6日は「広島原爆の日」である。9日の「長崎原爆の日」、12日の御巣鷹山の日航機墜落事故の日、15日の「終戦の日」というふうに、8月は3日置きに続けて日本人にとって忘れられない日が訪れる。

 そして、それはまさに日本人にとって最も大規模な先祖供養の季節である「お盆」の時期とも重なる。まさに8月は「死者を想う季節」と言える。

 特に、「長崎原爆の日」は、わたしにとって一年でも最も重要な日である。わたしは小倉に生まれ、今も小倉に住んでいる。そして、日々、生きていることの不思議さを思う。なぜなら、広島に続いて長崎に落とされた原爆は、本当は小倉に落とされるはずだったからである。

 74年前、原爆が予定通りに小倉に投下されていたら、どうなっていただろうか。

 広島に投下された原爆では、約14万人の方々が亡くなられたが、当時の小倉・八幡を中心とする北九州都市圏(人口約80万人)は広島・呉都市圏よりも人口が密集していたために、広島を上回る数の犠牲者が出たと推測されている。

 また、当時、わたしの母は小倉の中心部に住んでいた。よって原爆が投下されていた場合、確実に母の生命はなく、当然ながらわたしはこの世に生を受けていなかったのである。

 その事実を知ってから、わたしは「なぜ、自分は生を受けたのか」「なぜ、いま生きているのか」「自分は何をすべきか」について考えるようになった。

 まさに、長崎原爆は、わたしにとって「他人事」ではない「自分事」なのである。わたしも含めて、小倉の人々は、長崎原爆の犠牲者の方々を絶対に忘れてはならないと思う。

 しかし、悲しいことに、その重大な事実を知らない小倉の人々も多かった。そこで「長崎原爆の日」の当日、わが社では毎年、「昭和20年8月9日 小倉に落ちるはずだった原爆。」というキャッチコピーで新聞各紙に「鎮魂」のメッセージ広告を掲載している。近年、ようやく北九州でも歴史上の事実が知れ渡ってきたように思う。

 毎年その日には、小倉にあるサンレー本社の総合朝礼で、わたしが社員のみなさんに長崎原爆の話をし、最後に全員で犠牲者への黙祷を捧げる。「長崎の身代わり悲し忘るるな小倉に落つるはずの原爆」という歌を詠んだこともある。

 家族葬に直葬と、現在の日本では葬儀の簡略化が進んでいる。別に豪華な葬儀をあげる必要はないにせよ、わたしには、死者が軽んじられているような気がしてならない。

 しかし、生者は死者に支えられて生きていることを忘れてはならないと思う。わたしは、常に「死者のまなざし」を感じながら生きていきたい。