月を見上げて、死を想う
秋は月が美しく、各地で月見の会が開かれる。先日、わたしは八幡西区にあるサンレーグランドホテルで開催された「隣人祭り・秋の観月会」に参加したのだが、そこでは恒例の「月への送魂」も行われた。
「月への送魂」とは、夜空に浮かぶ月をめがけ、故人の魂をレーザー(霊座)光線に乗せて送るという「月と死のセレモニー」である。その日の夜空は月が厚い雲に隠れてハラハラしたが、なんとか儀式の時間には姿を見せてくれた。300人を超える人々が夜空のスペクタクルに魅了された。
それにしても、なぜ月に魂を送るのか。じつは、わたしは月こそは「あの世」ではないかと思っているのだ。地球上の全人類の慰霊塔を月面に建てるプランを温めたりもしている。
なぜ、月が「あの世」なのか。多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と密接に関わっている。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然であろう。
世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きており、死後への幸福なロマンを持っていた。その象徴が月なのである。
「葬式仏教」といわれるほど、日本人の葬儀やお墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せないが、月と仏教の関係もまた非常に深い。
「お釈迦さま」ことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったという。ミャンマーをはじめとした東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行う。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるかもしれない。
仏教のみならず、神道にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっている。
地球人類にとって普遍的な信仰の対象といえば、太陽と月である。つねに不変の太陽は神の生命の象徴であり、満ち欠けによって死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴なのである。
「葬」という字には草かんむりがあるように、草の下、つまり地中に死者を埋めるという意味がある。「葬」にはいつでも地獄を連想させる「地下へのまなざし」がまとわりついているのだ。一方、「送」は天国に魂を送るという「天上へのまなざし」へと人々を自然に誘う。
「月への送魂」によって、葬儀は「送儀」となり、お葬式は「お送式」、葬祭は「送祭」となる。そして「死」は「詩」に変わる。
秋の夜長、みなさんも、ぜひ月を見上げて、死を想ってみてはいかがだろうか。