令和こころ通信 『西日本新聞』連載 第10回

「終活」から「修活」へ

 このたび、わたしが監修した『修活読本』(現代書林)が刊行された。「人生のすばらしい修め方のすすめ」というサブタイトルがついている。

 いま、人生は100年時代を迎えたという。厚生労働省の「平成29年簡易生命表の概況」によると、現在60歳の平均余命は男性23.72歳、女性で28.97歳。「平均余命」とは、平均的にあと何年生きられるかを示したものだ。60歳にこの余命年数を足せば寿命がわかるわけで、男性もついに80歳を超え、女性は90歳に迫ろうとしている。「人生100年時代」が、けっしてオーバーな表現でないことがおわかりいただけるだろう。

 そんな中で、「終活」という言葉が高齢者にとって重要なテーマになっている。多くの犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことも大きな原因とされている。

 いま、多くの高齢者の方々が、生前から葬儀やお墓の準備をされている。また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただいた。いつの間にか、わたしは「終活」の専門家のように見られるようになり、関連書も数冊書いた。

 終活とは、「終末活動」を縮めた言葉である。つまり、端的にいうなら「人生の最期をいかにしめくくるか」ということで、人生の後半戦の過ごし方を示した言葉ではない。

 しかし、わたしは「いかに残りの人生を豊かに過ごすか」こそ大切であると思っている。そこで、人生の修め方という意味で「終末活動」ではなく「修生活動」、「終活」ではなく「修活」という言葉を提案している。

 よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」であるという見方ができる。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活だからである。そして、人生の集大成としての「修生活動」があるわけだ。

 かつての日本人は、「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉に象徴される「修める」ということの意味を知っていた。これは一種の覚悟である。いま、多くの日本人はこの「修める」覚悟を忘れてしまったように思えてならない。

 そもそも、老いない人間、死なない人間はいない。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかならない。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするように思う。

 残りの人生を美しくするヒントがたくさんの『修活読本』を、ぜひご一読、ご活用ください。