儀式なくして人生なし
3月3日は桃の節句、「雛祭り」である。わたしは、弟との2人兄弟なので、子どもの頃は雛祭りには無縁のはずだった。しかし、わが実家には大量の雛人形があった。母が無類の雛人形好きで、コレクションしていたからだ。毎年3月になると、人形たちが家中に飾られた。
わたしには2人の娘がおり、わが家では妻が広島の実家から持参してきた雛人形が飾られてきた。妻は姉との2人姉妹で、ずっとこの人形で桃の節句を祝ってきたという。
現在では2人の娘は東京で暮らしている。それでも、雛祭りの季節になると、自然と娘たちの将来に思いを馳せてしまう。親として彼女たちの幸せを祈らずにいられない。
この「雛祭り」の起源は3世紀前後の古代中国の風習だといわれる。季節の変わり目に災いをもたらす邪気を祓うため、3月最初の巳の日(=上巳)に禊を行っていたようだ。この風習が遣唐使によってわが国に伝えられ、天皇の安泰を願う祓の行事となり、平安時代には宮中行事となったという。
雛祭りの「ひな」は「雛(ひいな)」であり、小さくかわいらしいものを指す。一方で、人の厄を身代わりする男女一対の紙人形が「ひな人形」の原型とされ、室町期に川へ流すものから飾るものに変化していった。そして幕末の頃には官女やお囃子も加わり、現在の「雛飾り」へと発展したのである。
雛祭りは、いわゆる「年中行事」であり、広い意味での儀式である。人間は儀式という「かたち」によって不安定な「こころ」を安定させ、幸せになれるように思う。その意味で、儀式とは人間が幸福になるためのテクノロジーである。
さらに、儀式の果たす主な役割について考えてみたい。それは、まず「時間を生み出すこと」にある。日本における儀式あるいは儀礼は、「冠婚葬祭」(人生儀礼)と「年中行事」の2種類に大別できるが、これらは「時間を生み出す」役割を持っていたと言える。さらに「時間を生み出す」という儀式の役割は「時間を楽しむ」や「時間を愛でる」にも通じる。
日本には「春夏秋冬」の四季がある。わたしは、冠婚葬祭は「人生の四季」だと考えている。七五三や成人式、長寿祝いといった儀式は人生の季節であり、人生の駅である。
セレモニーも、シーズンも、ステーションも、結局は切れ目のない流れに句読点を打つことにほかならない。わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生を認識しているのかもしれない。それはそのまま、人生を肯定することにもつながる。「儀式なくして人生なし」と言えよう。