仏教に近づく現代物理学
しかし、インドのヒンドゥー教では、この「わたし」とは一つの幻であり、その正体はマーヤーと呼ばれるベールであると教えます。悟りの境地とは、このベールを取り払い、自分が本当は宇宙の一部であると認識することにあるといいます。この考え方は、ヒンドウー教や仏教といったインド思想に共通のものですが、西洋でも哲学者のバートランド・ラッセルなどは同じことを著書『幸福論』で述べています。
さらには、「わたし」という幻は、現代の脳科学にも通じる問題でもあります。「ニューヨークタイムズ」紙の科学ライターにサンドラ・ブレイクスリーという人がいます。彼は、ヒンドゥー教の伝統の中で育った脳科学者ヴィラナヤール・ラマチャンドランとの共著『脳のなかの幽霊』で、「幻肢」という病態について語っています。
かのデカルトも言及していることで知られる幻肢とは、戦争や事故などの外傷のために失った手足が今でもそこにあると感じることです。ときには、痒(かゆ)くなったり、激しく痛んだりします。患者に意識があるうちは、痛みは絶対に止められない難治性だそうです。
これを治すには、「幻肢の切断手術」をしなければなりません。どうするのでしょうか。鏡を使って、患者の失った手足をまるで復活したかのように見せかけるのです。一種のバーチャル・リアリティですね。手や足が正常に見えることによって、幻肢感覚の発生を抑えます。そして、難治性の痛みを消し、ついには幻肢そのものを消すのです。なぜ、そのようなことが可能なのでしょうか。ブレイクスリーによれば、それは幻肢発生のメカニズムにからんでいます。脳内にある身体イメージが切断後に誤って再編成され、幻肢が生じます。それをバーチャル・リアリティによって、もう一度再編成させれば、幻肢は消えるというのです。
つまり幻肢とは、本当は「ない」ものを「ある」と思い込む自己欺瞞(ぎまん)の一種なのです。ブレイクスリーは、幻肢と同じように「自己」も一種の自己欺瞞であると主張します。そして、その自己欺瞞を解放することは「自分は観察者ではなく、じつは永遠に盛衰を繰り返す宇宙の事象の一部であると悟る」ことだと述べるのです。
この「悟り」とは、わたしたち日本人にとっては、なじみの深いものです。なぜなら、「禅」の悟りそのものだからです。いうまでもなく、禅宗は仏教の一派であり、結局は仏教、ヒンドゥー教、それらの母体となったバラモン教、さらには古代インドのウパニシャッド哲学までを含んだ壮大な東洋思想の源流に還ってゆきます。これらはいずれも「自我」および「欲望」を否定する思想ですが、やはり、その代表は仏教ではないでしょうか。
紀元前五世紀のインド、青年ゴータマ・シッダールタは、菩提樹の下に座し、座禅によって大悟成道(たいごじょうどう)したといいます。すなわち、悟りを開いたのです。死神と悪魔が一体となった「マーラ」と呼ばれる霊的存在が彼を襲いましたが、夜明けにはマーラを打ち破り、四つの真理である「四諦(したい)」を得て、めざめた者としての「仏陀(ブッダ)」になりました。
四つの真理とは何でしょうか。
第一の真理は、苦という真理、すなわち「苦諦(くたい)」です。宇宙には一つとして常なるものはないのに、わたしたちは常ならんと欲して執着し、ここに苦しみが生まれるということです。
第二の真理は、集まる真理、すなわち「集諦(じったい)」です。すべてのものに不変の実体はなく、原因と条件によって仮の姿を現し、ものとして集合しているということです。
第三の真理は、滅した真理、すなわち「滅諦(めったい)」です。欲望を捨て去ることによって、苦が消滅し、心のやすらぎが訪れるということです。
そして第四の真理は、そこに至るための方法の真理、すなわち「道諦(どうたい)」です。この四つをあわせて、「苦・集・滅・道」の「四諦説」といいます。
これに似たものに「四法印(しほういん)」というものがあります。「一切皆苦(いっさいかいく)」「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(しょほうむが)」「涅槃寂静(ねはんじゃくせい)」といったよく知られた四つの仏教的コンセプトであり、根底にはブッダの教えの根幹ともいうべき「縁起」の思想があります。
「一切皆苦」とは、人生の正体が「苦」であることに他ならないが、注意するべきは、ここでいう「苦」とは感覚上や心理上の「苦しみ」をいうのではなく、すべてこの世のものは有限であり、相対的であるということ。
「諸行無常」とは、花はやがて散り、人はやがて死ぬという人生の真実を知ることです。それは、すべてのものは原因(因)と条件(縁)とによってこの世に現れる(生起)からです。すなわちこの「因縁生起」を略したものが「縁起」です。縁起こそは、森羅万象すべての性格であり、そこには何ら永続すべき実体性などないのです。これを「諸法無我」といいます。
この宇宙の理というべきものをわきまえず、欲望に苦しめられるのは「我執」です。我執をなくせば、煩悩の消え去った静かな涅槃境地が得られます。これを「涅槃寂静」といいます。
以上の四つの教えは「四法印」として、仏教を他の宗教と区別する基本となり、古来から各宗派を超え、仏教の根本教説として尊重されてきました。その他にも、仏教の重要な思想で、「法則」を考えるヒントになりそうなものが「中道」や「空」です。
「中道」は孔子やアリストテレスが説いた「中庸」にも通じる考えで、「極端なことをしない」といった意味です。「いい加減」と表現してもよいでしょう。
また「空」は、「からっぽ」とか「無」ということではなく、平たくいえば、「こだわるな」という意味です。
よく「空」と「無」は混同されます。中国でも老荘思想における「無」と「空」は同じ意味だとされ、老子がインドに行ってブッダとなったという説まで唱えられました。しかし、「無」というのは「有」に対立する概念であるのに対し、「空」は有無を超越した概念なのです。
すなわち、「空」は「有」でもなければ「無」でもなく、同時に「有」であり「無」でもあります。また、「有」と「無」以外のものでもある。形式論理学から見ればまったくありえないこの「空」の論理こそ、仏教の最重要論理なのです。
仏教は、キリスト教やイスラム教と並んで「世界の三大宗教」とされています。しかし、宗教としては非常にユニークな思想体系を持っています。キリスト教やイスラム教をはじめとして多くの宗教は、あらゆる事象を「神の意志」として解釈します。ニュートンが木からリンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見するのも、ガンで死ぬのも、宝くじが当選するのも、すべて「神の思し召し」によるものなのです。
しかし、仏教は違います。すべては「縁起」によるものなのです。それは、何らかの原因による結果の一つにすぎないのです。まさにこの点が、仏教が宗教よりも哲学であり、さらには科学に近いとされるゆえんなのです。
実際に、仏教と現代物理学の共通性を指摘する人がたくさんいます。極微(ごくみ)という最少物質の大きさは素粒子にほぼ等しいとされています。それ以下の単位は「空」しかありません。ですから、「空」をエネルギーととらえると、もう物理学そのものなのです。
ニューサイエンスの旗手となった物理学者のフリッチョフ・カプラは、大ベストセラーになった著書『タオ自然学』(吉福伸逸+田中三彦+島田裕巳+中山直子訳、工作舎)で次のように述べています。
「物理学者は、素粒子の世界を研究するとき、空間と時間の統合を考えに入れながら、粒子を静的にではなく、エネルギー、活動、過程などと関連させて、ダイナミックにみる。東洋の神秘思想家は高い意識の次元に入ると、空間と時間の相互浸透をマクロなレベルで意識する。その結果、物理学者の素粒子の概念ときわめて似た見方でマクロな物体を観察する。これはとくに仏教で顕著である。ブッダの重要な教えの一つは『諸行無常』であった。これは、仏教がものごとに対してダイナミックな見方をしていることを、はっきりと示すものにほかならない」
E=m×c2
Eとはエネルギーであり、mとは質量、そしてc2とは光速度です。これは、質量がエネルギーになるということを意味します。アインシュタイン以前は、物質が消えてなくなることありえませんでした。物理学が「質量保存の法則」にしたがっていたからです。
しかし、アインシュタインの式によれば、物質は雲散霧消してエネルギーに変化することになるのです。すなわち、物質とは生成消滅するものなのです。
これこそ、あまりにも有名な「相対性理論」です。もっとも、アインシュタインのノーベル物理学賞受賞は相対性理論によるものではありませんでした。その受賞理由は、当時の物理学が軽視したエネルギー量子説を基礎とした「光電効果の法則」の発見でした。アインシュタインは、ニュートン以来の超大物「法則ハンター」だったのです。
そしてアインシュタインは『ザ・シークレット』に「引き寄せの法則」の実践者として紹介されていますが、じつは「引き寄せの法則」を否定していました。彼は「神が一人一人の人間の意思に注意を払っているというのは、子どもっぽい発想」だと考えていたそうです。そして、「求めよ、さらば与えられん」という言葉に対しても懐疑的でした。1936年には、「科学者は祈るのですか?」という子どもからの質問に対して、次のように述べています。
「科学的調査は、この世に起こることはすべて自然の法則によって決定されるという考えに基づいています。そこには、人間の行動も含まれます。つまり、科学者というのはさまざまな出来事が祈り、すなわち超常的な存在に向けられた願望に左右されるとは信じないものなのです」
アインシュタインは、これまで隠されていた物質の本性を初めて人類に明かしました。永遠不滅の物質など存在しないのです。これは、まさに「諸行無常」そのものです。
考えてみれば、わたしの目の前にあるコーヒーカップもパソコンも、一見、物質として見えます。しかし、それはたまたま素粒子がカップやパソコンの形を成すように集まって、そのように構成しているだけなのです。カップを床に叩きつければ、粉砕されて小さな陶片になってしまいますし、パソコンだってハンマーか何かで壊せば、プラスチックその他の破片と化すはずです。
かくいうこの「わたし」だって、同じです。たまたま今は、一人の人間として、成人男子として存在していますが、死亡して荼毘(だび)に付されてしまえば、灰になってしまいます。それを外で撒かれれば、「千の風になって」どこかに飛んで行ってしまいます。そのとき、かつては「わたし」という人間を構成していた素粒子たちは今度は灰を構成するわけです。
すなわち、こういうことです。「コーヒーカップ」も「パソコン」も「わたし」も物質ではなく、出来事なのです。すべて物質と思われていたものは、じつはたまたま素粒子たちが何かの目的で集ったイベントにすぎないのです。
すべての「非虚構」は崩れ去って、すべては「虚構」と化すというのです。
そのことを示しているのが、仏教でもっとも有名な経典である「般若心経」です。ここに、「色即是空、空即是色」という文句が出てきます。「色」を「モノ」、「空」を「コト」と読み替えてみれば、すべてのものは単独では存在できず、森羅万象はつながっていることがわかります。現代物理学の到達点は、宇宙の本質がモノではなくコトであることを示しましたが、それははるか2500年前にブッダが人類に与えたメッセージでもあったのです。
仏教は、宗教と科学との接点に位置するものかもしれません。かつて、日本の心理学者・河合隼雄は、宗教と科学の接点を考える上において、ユングが提唱した「シンクロニシティ」に注目する必要があると述べました。シンクロニシティとは、「意味のある偶然の一致」のことで、「共時性」とも訳されます。誰かのことを考えていたら、ちょうどその本人から電話がかかってきたといったことは多くの人が経験していることと思います。
わたしも、よくシンクロニシティを経験します。一番多いのは、何かの問題を考えていて、その答えがどうしてもわからないとき。たまたま訪れた古書店で最初に目がとまった本の中にその答えがあったとか、書斎で積み上げたあった本が崩れ落ち、その中の一冊を取り上げたところ、そのものずばりの内容だったことなど、しばしばです。イギリスの作家コリン・ウイルソンも同じような経験をよくするそうです。
この宇宙は偶然の一致がバンバン起こるほど、わかりやすくて、単純な世界なのでしょうか。いや、そうではありません。「複雑系」という言葉を聞いたことがあると思います。「法則」の問題とも大いに関係があります。
しかし、それらはすべて古典力学のカバーする範囲であり、確率が入り込む余地のない決定論で解決がつくと思われてきました。そして、いずれ高性能のコンピュータさえ開発されれば天気予報は外れなくなると期待されていたのです。
ところが、高速で高容量のコンピュータが開発された後も、天気予報の的中率は100パーセントにはほど遠く、いまでも外れ続けています。雨の予想も「降水確率」で表現されている現状です。これは、なぜか。
この世界とは「カオス」だからです。ギリシャ語で「混沌」を意味する言葉で、その反対が「秩序」を意味する「コスモス」です。「法則」が宇宙の「秩序」を明らかにするものならば、「法則」にとってこれほど天敵はいません。
カオスが生じるのは、その系がさまざまな要素が多重に入り混じって構成されているからです。要素一つひとつの効果はわかるのですが、それらが組み合わさって起こる物理過程が複雑すぎるのです。だから、結果が予想できません。一般に「複雑系」と呼ばれるのは、このような系です。
「複雑系」を特徴づけるものに、有名な「バタフライ効果」があります。池内紀氏が『物理学と神』で次のように、よく整理して、わかりやすく説明してくれています。
「蝶がひと舞いすると、たとえ小さいとはいえ空気の流れが生じるから、偶然のゆらぎが空気に与えられることになる。通常なら、そのゆらぎは空気の粘性のためになんの痕跡も残さず消えてしまう。しかし、ある種の条件が満たされているとき、この空気の小さな流れによって周辺に風が引き起こされることもあるだろう。さらに、この風が周囲の日照条件や気圧配置によって、いっそう強い風に発達するかもしれない。ときには、その風自体が原因となって気圧配置を変化させ、突風が吹きまくるようになる可能性もあるだろう。この突風が摩天楼を吹き倒すようなハリケーンに成長することも否定できない、というわけである。これはけっしてホラ話ではない。非線形作用は、条件さえ整えば、蝶のひと舞いがハリケーンにまで発達しうる物理過程を現実に引き起こしうるのだ。複雑系と呼ぶ所以である」
「共時性」や「複雑系」のメカニズムは、もちろんまだ解明されていません。それを推測することすら、わたしには無理ですが、「共時性」や「複雑系」が、関係性の問題であることだけはわかります。何の関係性かというと、観測者と観測対象の関係性です。
ここで、「間主観性」という新しい考え方が登場します。これは、一見バラバラな主観同士の「変換」法則のことです。「間主観性」は、「モノ」という単独で存在する概念ではなく、「コト」という関係性のネットワークの総体としての概念なのです。
「共時性」や「複雑系」のメカニズムも、「モノからコトへ」の視点で、いつの日か解明できるような気がします。そして、そこでも鍵となるのは仏教ではないかと、わたしは思います。やはり、現代物理学は仏教に近づいているのかもしれません。
仏教に限らず、宗教や神話が量子力学的な世界観と似ていることは多くの人々が気づいています。しかし、竹内薫氏にいわせれば、当たり前の話だそうです。なぜなら、目の前に拡がる世界の構造を写し取る人間の脳の精度が変わってきただけのことだというのです。竹内氏は、著書『世界が変わる物理学』で述べています。
「人類の祖先が宇宙の構造を粗く写し取った結果が神話として残り、その後、何千年かを経て、社会や文化の複雑なネットワークでつながれた人類の脳が、相対性理論や量子論や量子重力理論というかたちで宇宙の構造をより精密に写し取れるようになったのではないでしょうか」
それにしても、2500年前に世界を精密に写し取る高性能デジタルカメラを開発したブッダという人は本当にすごいと思います。そして、数々の「法(ダルマ)」を発見して、人類に説いたブッダは、ニュートンと並んで人類史を代表するスーパーヘビー級の「法則王」といえるかもしれません。