平成心学塾 法則篇 自分の法則を見つけよう #005

経済も社会も法則で動く

得体の知れない経済をとらえるための法則

さまざまな「法則」を紹介してきましたが、世の中にはまだまだ多くの「法則」が存在します。もちろん、物理学をはじめとした自然科学こそは「法則」の宝庫ですが、わたしたちの住むこの世界には自然科学以外の「法則」が至るところに潜んでいます。

まずは経済の分野から見てみましょう。

経済学の法則として有名なものに、「グレシャムの法則」があります。一般には「悪貨は良貨を駆逐する」で知られていますが、これは内容の要約です。16世紀のイギリス国王財政顧問を務めたトーマス・グレシャムが、エリザベス女王に対して「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事を、19世紀のイギリスの経済学者ヘンリー・マクロードが『政治経済学の諸要素』という著者で紹介し、この法則を「グレシャムの法則」と命名したのです。

「セイの法則」というものもあります。これは「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される経済学の法則です。ここでは、あらゆる経済活動が物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行なわれるということを前提にしています。そして、供給が増えて供給超過になっても、結果として需要と供給は一致するというのです。なぜなら、供給超過になっても必ず価格が下がるため、需要が増えるからです。それゆえ、「セイの法則」に従えば、需要を増やすには供給を増やせばよいということになり、需要の合計としての「国富」を増やす方法も同じなのです。

「国富」といえば、アダム・スミスの『国富論』が有名ですね。正しくは『諸国民の富』と訳すべきですが、スミスこそは経済学への道を人類に用意した巨人とされています。

経済学という学問はもともと「法則」を追及する志向が強い学問です。得体の知れない経済というものを人間がとらえるためには当然といってよいでしょうが、かのニュートンが「万有引力の法則」を発見した直後から本格的な発展を遂げたという点が大きいと思います。

ニュートンによって物理学的世界の秩序が見事に解明されたように、人間の世界、つまり人間社会の秩序を根拠づけようという欲求が高まったわけです。そして、かのアダム・スミスが登場し、人間社会の土台である経済が「見えざる手」に支配されると考えたのです。「セイの法則」のセイは、スミスの後に登場しました。セイの後にはリカードが出ました。

物理学に憧れた経済学

経済学は、スミス、セイ、リカードの三人によって形成されたとされています。この三人は「経済法則」の探求者であったと述べたのは哲学者のヘーゲルです。ヘーゲルによれば、この三人が研究とした経済とは「欲望の体系」に他ならないといいます。「欲望の体系」としての経済が市民社会の根底をなすのです。

市民社会では無数の個人がそれぞれ勝手なやり方で自分たちの欲望を満足させようとして経済行為を営みます。そして、彼らの欲望がいかにして充足されるかどうかは偶然に基づくけれども、この雑然とした偶然からは自ずから必然性が生まれるというのです。この必然性、すなわち「経済法則」を発見することこそ経済学の課題であると、ヘーゲルは考えたのです。

このように経済学は、法則発見の大先輩である物理学に憧れながら、一貫して「経済法則」を求めてきました。もちろん、物理学ほどの成果を得てはいませんが。もっとも、最近では、エコノフィジックス(経済物理学)という分野もあります。物理学の方法論を経済学に応用して「経済法則」を発見しようという試みです。

といっても、経済物理学によってわかるのは、株価や為替変動の大局的な規則性です。明日の株価や値上がりする株の銘柄がわかるわけではありません。そんなことがわかったら、経済物理学者はみんな大金持ちになってしまいますね。

でも、儲け話はわからなくても、彼らは大きな野心を抱いています。さまざまな経済指標を分析して、経済の自律機能、国の金融政策、企業の収益戦略、消費者の心理などについての「法則」があると考え、それを発見しようとしているのです。経済物理学はこれからの新しい学問だといえますが、可能性を持った楽しみな分野だと思います。

人口法則からいえば、貧困をなくすことは無理!?

さて、経済は人間社会の土台をなすものですが、その人間社会そのものの「法則」を発見しようとした人物もいました。ここでは三人の大物と、彼らの主著である3冊のあまりにも有名な本を紹介したいと思います。その三人とは、マルサス、ダーウィン、マルクスで、3冊の本とは『人口論』『種の起源』『資本論』です。

最初に登場するのは、イギリスの政治経済学者トマス・マルサスです。彼が生きた時代は、産業革命の進行と重なります。独立の小生産者が没落し、囲い込み運動によって小農民が窮乏し、さらには穀物価格の急騰によって貧民が激増していた頃でした。

マルサスは、1798年に匿名で刊行した『人口論』で、食糧が人間の生存にとって不可欠であること、そして、両性間の情欲は必然的なものであって将来も変わりがないこと、という二つの前提を置きます。

第二の前提から、人口は制限されなければ幾何級数的に増加することになりますが、食糧は算術級数的にしか増加しません。この二つのアンバランスな力は、第一の前提によって均衡されなければなりません。つまり、食糧を得ることが困難となるために、人口の制限が強く、かつ絶えず行なわれるのです。これがマルサスが発見した「法則」です。

この法則には、いかなる生物も従います。人間もまた、いかに理性の力を働かせようとも、この法則からまぬがれることはできないのです。この法則の作用する結果として、動植物は種子の浪費、病気、早死などによってその増加を制限されますし、人間の場合は貧困によって制限されます。

つまり、既存の過剰人口は、貧困による過度の労働、幼児の栄養不足、病気などによって減少します。これを「積極的制限」といいます。また、家族を扶養することが困難なために結婚をさしひかえ、子どもを生まないことによって減少することもあります。これを「予防的制限」といいます。

ですから、マルサスの言葉を使えば、「貧困は絶対的にこの人口法則の必然的な結果」だというわけです。貧困とは自然の法則の結果であり、社会制度の改革によってなくすことなど不可能だというわけですね。

動物の、動物による、動物のための「コンテスト」

進化論

このマルサスが発見した「法則」に大いなるインスピレーションを授かったのが、チャールズ・ダーウィンです。ビーグル号の航海後、いわゆる進化論の考え方をあたためていたダーウィンは、新しいアイデアを求めて、さまざまな本を乱読していました。そのとき、たまたま単なる気晴らしから手に取ったのが、マルサスの『人口論』でした。一読したダーウィンは、人口増加はたやすく食糧供給を上回りかねないが、食糧や居住空間をめぐる競争が人口を絶えず抑制しているというマルサス説を知りました。

ダーウィンは、この考え方が自然界にも当てはまるものだと即座に理解しました。自然界では生存できる以上の数の動物が生まれていますが、それらは成長に必要な食物や空間をめぐって絶えず競争しているのではないかと思いついたのです。

だとしたら、水不足に強いもの、体毛が密に生えているなど、競争におけるさまざまな有利な条件を備えた動物や植物の個体のほうが、備えていない個体よりも長生きして、たくさんの子孫を残せるのではないか、そして結果として、そのような適応を備えているかどうかが、どの個体がその種の次世代の代表になれるかを決定づけているのではないか。ダーウィンは、このように考えたのです。

また彼は、変異によって生存に差ができるメカニズムを理解しました。役に立つ特徴を備えた個体は、平均した場合、生き残って繁殖し、その特徴を次世代に伝えやすいことに気づいたのです。「わずかな違いが存亡を決する」ことを悟ったダーウィンは、「それはコンテストのようなものだ」と述べています。

ダーウィンは、マルサスの「生存制限説」から重要なヒントを受けて「自然淘汰説」を着想しました。二人の研究は大いに関係していたのですね。競争こそが有利な特徴の普及を促進していたわけです。なぜなら、環境に適応した生物個体ほど、生き延びやすく、繁殖しやすいからです。1869年に『種の起源』を刊行して世界中を騒然とさせたダーウィンですが、その晩年には「マルサスの『人口論』によって、使える理論が見つかった」と語ったそうです。

このように『人口論』によって生まれたといってもよい『種の起源』ですが、それ自体もまた『資本論』という本が誕生するきっかけをつくりました。ドイツのカール・マルクスによって一八六七年に刊行された『資本論』こそは、『聖書』に次いで世界中で読まれたという正真正銘の大ベストセラーです。

ダーウィンの心からの賞讃者

マルクスは大の読書家でした。ロンドンでの生活は困窮をきわめましたが、すべてのエネルギーを経済学につぎこんでゆき、朝の9時から夜の7時まで大英博物館に座って、経済学の文献を読むことに没頭したそうです。20世紀を代表する経済学者シュンペーターは、そんなマルクスについて「飽くことを知らぬ読書家、疲れを知らぬ努力家、読むに値する文献で彼の目にふれなかったものはほとんどなく、読めば必ずこれを消化した」と述べています。

彼の得た該博な知識は、あくまでも経済学に向かって求心的に方向づけられていましたが、そんな中で、1860年代には当時の話題の書であった『種の起源』を何度も読んだそうです。その後、マルクスは刊行された『資本論』をダーウィンに贈呈しました。その本には、「心からの賞賛者として」とマルクスが書き込んでいます。

マルクスの盟友であるエンゲルスは、「ダーウィンが有機界の発展法則を発見したように、マルクスは人間の歴史の発展法則を発見した」と述べています。

自然を、自然そのものを通して説明すること、これこそダーウィンが行なったことでした。それは、そのまま唯物論であると同時に、自然科学の基本的な立場でもありました。ダーウィンによって生物学は真に科学として自立させられたともいえますが、自身が史的唯物論を展開したマルクスにとって、この点が賞賛に値する点だったのでしょう。

しかし、マルクスは、ダーウィンのマルサス理論についての解釈の仕方には批判的でした。エンゲルスへの手紙で、マルクスは、「ダーウィンを読んで、面白いことに気づきました。ダーウィンはマルサスの理論を植物と動物に適用するといっています。しかし、マルサス理論は、植物や動物に適用されたものではなく、あくまでも幾何級数的に増加するという植物や動物との対比で人間にだけ適用された理論なのです」と記しています。

マルサスに対しても、彼の『人口論』は「人類に対する侮辱」であるとまでいって、その反動性をマルクスは猛烈に攻撃しました。

市民社会を解剖してみると…

では、マルクス自身の理論を簡単に説明します。一定の社会においては、生産関係は生産力に対応して形成されます。社会の生産力に対応する「生産諸関係の総体」は、その上に法律的および政治的な上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的な諸形態が照応する現実的な土台を形成します。歴史の存在構造をこのようにとらえるのが「史的唯物論」の立場なのですね。

「現実的な土台」、すなわち生産諸関係こそ「経済」の別名であり、それを解き明かすものである経済学が大きな意味を持って浮かび上がってきます。ヘーゲルも「市民社会」というものに注目しましたが、批判的であったにせよヘーゲルから多大な影響を受けたマルクスも、経済学を「市民社会の解剖学」としてとらえました。

『資本論』は、社会というものを資本の世界として描きました。つまり、この社会を徹底的に労働の世界として描いたということです。

労働とは何か。それは、商品の使用価値の創造に関係する具体的・有用的な性格と、商品の価値をつくる抽象的・人間的な性格との二面性の統一物です。前者は生産力、後者は生産関係の側面といえます。よって、労働の生産物としての商品には、「価値」と「使用価値」という二つの要因が含まれています。

この商品の二つの要因を軸として展開される価値形態論から、「一般的等価形態」としての貨幣が導き出されます。そして、ここが重要ですが、貨幣が一定の「法則」に従って、より多くの貨幣となって還流するメカニズムのもとに置かれるとき、それがまさに「資本」となるのです。ですから、資本とは自己増殖する価値額であり、価値がいかにして増殖するかの根拠を説明するものが「剰余価値論」というものです。

マルクスが予言した資本主義の将来

価値論と剰余価値論を土台として、マルクスはさらに資本の蓄積や再生産のメカニズムを解明しました。それだけではありません。『資本論』は、資本主義社会の構造を分析するだけではなく、さらにその発展の「法則」についても鋭い究明を行ないます。マルクスによれば、資本主義は特殊歴史的な生産様式であり、発生、発展、没落の過程を内包するからです。

マルクスは、市民社会の歴史的傾向として注目すべき三つの指摘を行ないました。

第一には、資本主義の発展は住民の大多数をプロレタリア化すると同時に、ブルジョワジーは相互の競争を通して少数となり、少数の大ブルジョワジーが独占化の傾向を示すこと。

第二に、生産力の発展の結果、技術の向上による設備投資の増大や賃金部分の相対的低下などにより、平均利潤率が低下するという傾向を持つこと。

第三に、資本主義は景気循環を伴うが、周期的な経済恐慌は次第に深刻化し、拡大するという傾向を持っていることです。

このようにマルクスは、市民社会ないし資本主義の構造を分析しました。その分析こそは社会の「法則」をついに解き明かすものであると多くの人々が考え、「共産主義」という巨大な思想運動および社会運動を巻き起こしていきます。

マルサスもダーウィンもマルクスも、それぞれの学問の分野は違っていたにせよ、三人とも「法則」の発見に情熱を燃やした「知の巨人」でした。彼らの発見した「法則」や「理論」は、イデオロギーの世界においてさまざまに利用されてきました。

とくにダーウィンは、「自然淘汰」「適者生存」という自説が、弱者を切り捨てる「優生思想」などに悪用されることを非常に怖れていました。彼の本質は、純粋な知的好奇心に突き動かされた「法則ハンター」ではなかったかと思います。

そして、「法則ハンター」としてのバトンをダーウィンから受け継いだマルクスは、盟友のエンゲルスとともに「共産主義」という科学的社会主義を生み出しました。

エンゲルスは、著書『空想から科学』で「商品生産の法則」というものを述べています。それは、「生産者から独立して、生産者の意志に反して、盲目的に作用する自然法則として自己を貫徹する」というものです。マルクスと同じく、エンゲルスも「法則ハンター」でした。彼らの社会主義は、ひたすら「科学的」であることをめざしましたが、それゆえに自然科学における「法則」に相当するものを求め続けてきたのです。

「人間分子の関係、網目の法則」とは

ちなみにマルクスやエンゲルスが追求した「法則」についての最良の入門書が日本人によって書かれたことをご存知ですか。

吉野源三郎という人物がいます。岩波新書の発刊にたずさわった編集者にして作家ですが、彼が1937年に『君たちはどう生きるか』という本を書いています。当初は「日本小国民文庫」の一冊として出版されましたが、現在では岩波文庫に入っています。最近、さまざまな場面でこの本が取り上げられる機会が多いように思いますが、とにかく多くの日本人が愛読した大変なベストセラーであり、今でも読まれているロングセラーです。

この『君たちはどう生きるか』は、題名通り「人生いかに生きるべきか」と青少年に問う感動的な内容ですが、じつはこの本、自然法則から人生法則まで、ありとあらゆる「法則」へのまなざしに満ちた法則本なのです。

主人公は「コペル君」というあだ名で呼ばれる中学二年生の少年です。もちろん、そのあだ名は、天動説に対して地動説を主張したコペルニクスに由来しています。このコペル君の個人的な体験を素材に、「おじさんのノート」というかたちで、読者に社会に対する認識の仕方や倫理観などを語りかける内容です。なんと、図解入りでニュートンが発見した「万有引力の法則」についてもわかりやすく解説されています。

さて、コペル君は銀座のデパートの屋上から地上の人々の動きを眺めながら、身ぶるいしたことがあります。そして、「びっしりと大地を埋めつくしてつづいている小さな屋根、その数え切れない屋根の下に、みんな何人かの人間が生きている!」と思います。

それは、当たり前のことでありながら、あらためて思いかえすと、コペル君は恐ろしいような気がするのでした。コペル君の下に、しかもコペル君の見えないところに、コペル君の知らない無数の人々が生きているのです。そして、彼らは何かをしているのです。その不思議さを、コペル君はデパートの屋上で思い知ったのです。

その後、コペル君は一つの発見をします。自分が赤ちゃんの頃に飲んでいた「オーストラリア製」と印された粉ミルクの缶を手にして、コペル君は牛の世話をした現地の牧場の人をはじめ、いかに多くの人々の営みが関係しているかを実感します。コペル君は次のように思います。

「僕は、粉ミルクが、オーストラリアから、赤ん坊の僕のところまで、とてもとても長いリレーをやって来たのだと思いました。工場や汽車や汽船を作った人までいれると、何千人だか、何万人だか知れない、たくさんの人が、僕につながっているんだと思いました」

それからコペル君は、電灯、時計、机、畳といった部屋の中にあるものを次から次に考えてみます。すると、どれもがオーストラリアの缶ミルクと同じで、とても数えきれないほど大勢の人間が、後ろにつながっていることに気づきます。あたかもそれは、一人ひとりの人間が分子として存在し、しかも、相互に編み目のように結びつきあっているようでした。かくして、コペル君はそれを「人間分子の関係、編み目の法則」と名づけるのです。

大発見をおじさんに手紙で伝えたコペル君は、「人間分子の関係、編み目の法則」よりももっと良い名があったら教えてほしいと書き添えます。それに対して、おじさんは、「人間分子の関係、編み目の法則」とは、経済学や社会学でいう「生産関係」と同じであることを示すのです。

岩波文庫版の巻末には、「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想~吉野さんの霊にささげる」という丸山真男の小文が掲載されています。丸山真男といえば岩波文化人の代表とも呼ばれた有名な政治学者であり、もっともマルクス主義を理解している日本人の一人とされた人物です。

さて、コペル君が缶ミルクから「人間分子の関係、編み目の法則」を発見し、おじさんがその足りないところを補いながら、それを「生産関係」の説明にまで持ってゆくところに読み進んで、丸山真男は思わず唸(うな)ったそうです。そして、「これはまさしく『資本論入門』ではないか」と思ったといいます。

丸山真男は、『君たちはどう生きるか』を読んだとき、すでに東大生であり、『資本論』についてのそれなりの知識を持っていました。おそらく、その理解の深さは相当なレベルであったでしょう。その彼をして、中学生の懸命の発見を出発点として「商品生産の法則」へと読者を導いてゆく筆致の鮮やかさに唖然としたというのです。

マルクスやエンゲルスが追求した「法則」について知りたい方は、『資本論』にチャレンジする前に、ぜひ『君たちはどう生きるか』を読まれることをおすすめします。