平成心学塾 法則篇 自分の法則を見つけよう #010

法則王ニュートン

デカルトとオカルト

いよいよ本書の最重要人物であるニュートンについてお話したいと思いますが、その前に少しだけ哲学者であるデカルトの話をさせてください。ニュートンを理解するためには、デカルトを知らなければならないからです。

デカルトとニュートンのめざしたものは密接に関わりあっています。村上陽一郎氏によれば、わたしたちが今日「古典力学」の代名詞として「ニュートン力学」と呼んでいるものは、じつは「デカルト的力学のニュートン版」とでもいうべきものだそうです。もっとも、それは当のニュートンが考えていた力学とは同じではありませんでした。

フランス人ルネ・デカルトの人生は、1596年から1650年まで。イギリス人アイザック・ニュートンのそれは、1642年から1727年まで。17世紀の前半をデカルトが活躍し、後半をニュートンが活躍したと考えてよいでしょう。

デカルトというと、近代合理主義の化身のようなイメージがありますが、若い頃は典型的なルネサンスの思想に浸っており、むしろ神秘主義に憧れていたといいます。イギリスで「薔薇十字会」という秘密結社が展開されていました。ヘルメス主義やカバラ主義の影響を受けたオカルト結社でしたが、デカルトはこの思想に共鳴し、入会しようとしていた形跡が見られます。

デカルトは、天体の世界から人間を経て地球にいたる、「神」の被造物のいっさいを論じ尽くす壮大な体系の構築を夢見ていました。あまりにも巨大なプランに挑むデカルトの作戦は、「方法的懐疑」の適用でした。すべてのものを疑って、疑い尽くした末に「我おもう、ゆえに我あり」という有名な言葉が残されたとされています。

彼の方法的懐疑は、「物質」にも適用されました。そして、物質の唯一の特性を空間の中の拡がり、つまり「延長」という概念に到達しました。彼の理論は、物質の外から運動が与えられなければ成り立たなくなり、結果、宇宙の始まりにおいて、神が「物質」と「運動」を用意したのだと信じたのです。

解析幾何学の創始者

デカルトは、世界の素材としての物質を、第一原因である神に帰したのです。また素材だけでは世界は動きませんから、運動というものを考え、これも第一原因である神に帰しました。宇宙の素材である物質は神によって創造され、運動を神によって与えられた。これが、近代合理主義の幕を開いたといわれるデカルトの考えた「法則」でした。村上氏は、著書『宇宙像の変遷』で述べています。

「運動の原因は神以外には考えられない。したがって、宇宙における運動の総量は、神が最初に造って与えただけのものであり、変化しない。部分的な状況は、法則に基づいて少しずつ変化するが、その法則こそ『自然法則』である。その基本は『恒常性』にあると言ってよい。すべての物質は、外的な要因が及ばない限りは、常に同じ状態にあって変化はしない、というのが、『恒常性』である。物質から、その内的な性質と思われるものをすべて剥奪(はくだつ)してしまったのも、物質が、自己の内的な要因によって変化する、という、ルネサンス・新プラトン主義的な宇宙観への否定の契機があったからであろう」

しかもデカルトは、この「恒常性」の原理から思弁的に「静止している物体は、他から原因が加わらない限りは静止し続け、動いている物体はその動きを続けようとする」という「慣性」の原理を導出することに成功します。これは「慣性の法則」として、デカルトの名声を大いに高めました。

もう一つ、彼の名声を高めたものは「デカルト座標系」の提案でした。彼は、三軸によって空間を整理し、空間に構造を与えました。そしてデカルトは、解析幾何学の創始者となったのです。

ガリレオが死に、ニュートンが生まれる

さあ、お待たせしました。いよいよ、「法則ハンター」の真打ちであるニュートンの登場です。

1642年の1月8日に、ガリレオが亡くなっています。奇しくも、その同じ年のクリスマス、12月25日にニュートンが誕生しています。近代科学の巨星が堕ちた年に入れ替わるように新しい星が現れたというのは非常にシンボリックですね。

ニュートンが生まれる直前の1640年には、いわゆるピューリタン革命が起こっています。60年には王政復古となり一応の決着をみますが、それまでの20年間はイギリス全土を戦乱に巻き込みました。このピューリタン革命に際して、「新しい知識」を求める学者のグループがオックスフォードを中心に生まれました。彼らは、エリザベス朝時代から、中世的なスコラ学からの解放や大学のカリキュラム改革などを訴えていました。大陸の新プラトン主義が、フランシス・ベーコンやロバート・フラッドらによってイギリスに遅まきながら入ってきたことも影響しています。しかし、この「新しい知識」を求めるグループは王政復古とともにオックスフォードを追われます。彼らはロンドンで再結集して、定期的な会合を持ちますが、後に「ロイヤル・ソサエティ」として1662年に正式に発足します。

このロイヤル・ソサエティの存在が、ニュートンにとって大きな意味を持ってきます。学問の道に入り、ケンブリッジ大学の教授となったニュートンが最初に関心を持ったのは、光についての学問でした。彼は望遠鏡の改良を試みて、反射望遠鏡を発明します。これを講義録と一緒にロイヤル・ソサエティに送ったのです。当時のロイヤル・ソサエティがイギリスの「知」の中心だったからです。しかし、ここにロイヤル・ソサエティの有力メンバーであったロバート・フックとの運命的な対決がスタートするのです。

このフックという人物は、デカルトの影響を受けていました。1666年に、デカルトの「慣性の法則」に基づいて、惑星が太陽の周囲を回転する際に、慣性つまり直線方向に逆らって軌道上に惑星を引き戻す力を「太陽の引力」ではないかと想定しました。そして、その引力は太陽からの距離に反比例するのではないかというアイデアをロイヤル・ソサエティで発表しました。その後、1674年には、すべての天体が引力を持つこと、惑星の軌道運動は太陽の引力の結果であること、その定量的特性はさらなる観察結果を分析しながら定めることなどをまとめた論考を発表しました。

1679年に、自説についてのニュートンの見解を知りたくなったフックは、ニュートンに手紙を送ります。しかし、興味がなかったニュートンは取り合いませんでした。翌1680年に、フックは、引力の定量的特性を逆二乗に定めます。そして再度、ニュートンに手紙で意見を求めますが、またもニュートンは無視しました。

ここにフックとニュートンとの論争が始まります。フックは、ハレー彗星の発見者として有名なエドモンド・ハレーらとこの問題を検討しますが、ハレーがニュートンに会ったとき、ニュートンはすでに「この問題は解決している」と答えました。そこでハレーは、この問題に関するニュートンの見解を書物として刊行するように説得します。ついにハレーの企みは成功し、1687年にニュートンは『プリンキピア』を刊行します。

歴史最大の書物『ピリンキピア』

これが、ものすごい本でした。なにしろ、「歴史最大の書物」とさえ呼ばれたほどでした。この本の眼目は三つあります。

第一に、いわゆる「運動の三法則」を明確にしたことです。とりわけ、狭義の「運動法則」を明らかにしました。デカルトの「慣性の法則」、つまり、外から力を受けない限りは物体は静止か等速直線運動を続けるという「第一法則」を確認した上で、外から力が加わったときに起こる運動の変化は、加えられた方向に、その力に比例した大きさで起こるというのが、その内容です。

第二に、万有引力は距離の二乗に比例するという定式化を行ないました。これは、フックのアイデアのとおりでした。そして第三には、これらを組み合わせた上で、幾何学的手法を用いて、ケプラーの三つの法則が演繹(えんえき)的に導かれることを数学的に示しました。

三つの法則を単純化すると、第一法則は「慣性の法則」、第二法則は「運動の法則」、そして第三法則は「作用反作用の法則」ということになります。

これらは、物理学における最大の業績であるとされ、ニュートンは最大級の賞賛を受けたのです。このようにニュートンの力学の本質は、いわゆる万有引力の定式化と運動法則、とくに運動の第二法則の定式化にあります。しかし、ニュートンは、その二つの法則を物質に適用しようとは考えませんでした。また、この二つの法則の支配する物質の空間の中での振る舞いとして、この世界で起こりうる全現象が記述できるとも考えてはいませんでした。

一般に「ニュートン力学」とされているものが、ニュートンの考えていたこととは無関係だというのは、まさにそのことなのです。村上氏によれば、「ニュートン力学」の正体とは、『プリンキピア』を受け継いだ18世紀の人々、とくにフランスの数理的な哲学者たちのつくり上げた理論体系であるといいます。そして、その頂点には啓蒙主義者として知られるラプラスがいました。

ラプラスを筆頭とする啓蒙主義者たちは、すべての知識に構造的に食い込んでいるキリスト教的な解釈を、意図的にすべて剥ぎ取ってしまうという作業を行ないました。彼らは、17世紀までの西欧的な知識体系をすべて一度解体しました。それから、自分たちに必要と思われるものを取捨選択して、「知」の再編成を試みたのです。フランス人である彼らはデカルトを非常に好んだため、「ニュートン力学」というよりは「デカルト的力学のニュートン版」ができあがったわけです。

パラダイムの転換

現在では、「ニュートン力学」が「古典力学」と同じ意味になっています。それは、「ニュートン力学」は20世紀になって、二つの理論的衝撃を受けたからです。すなわち、量子力学と相対性理論です。量子力学は、原子以下の対象については、ニュートン力学の法則が当てはまらないことを明らかにしました。また相対性理論は、光の速度に近い高速の世界において、ニュートン力学の法則が当てはまらないことを明らかにしたのです。

偉大なニュートン力学の法則に適用限界があることがわかり、物理学は大きなパラダイム転換を迎えました。「パラダイム」というのは一時代における支配的な物の見方です。とくに、天動説や地動説に代表されるような、科学上の問題を取り扱う前提となるべき、時代に共通の体系的な考え方をさします。よく「デカルト・ニュートン的パラダイムの終焉」などと呼ばれるのは、このことです。そこで、量子力学と相対性理論が出現する以前の、ニュートン力学だけで問題を解明できる領域を「古典力学」と呼び、その後の量子力学と相対性理論を含める領域を「現代力学」と呼ぶようになったのです。

しかし、当のニュートン自身は、『プリンキピア』で示した二つの法則のみで、あらゆる問題が解明できると考えていたとは思えません。ある意味で、ニュートンは後世の人々から利用されたのだといえるでしょう。

そもそも、ニュートンの思想からキリスト教的要素を取り除くなど、とんでもないことでした。なぜなら、ニュートンは敬虔なキリスト教徒であり、聖書解釈学者でもあったからです。彼は宗教に関する多くの手稿を残しています。

最後の魔術師・ニュートン

さらには、ニュートンは錬金術にも手を染めていたとされています。20世紀に入ってニュートンが残した膨大な手稿のほとんどがオークションにかけられました。その約半分を落札したのが有名な経済学者であるメイナード・ケインズでした。入手した手稿に目を通したケインズは、そのかなりの部分が錬金術に関するノートであることを知り、仰天します。ニュートンは長期にわたって、錬金術の文献を読み耽り、自身も実験を手がけていたのです。

ケインズは後に「人間ニュートン」と題する論文を書きますが、その中で、「ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなく、最後の魔術師である」という有名な言葉を残しています。なお、1979年にニュートンの遺髪を化学分析したところ、錬金術の試薬として知られる水銀が多量に検出されました。

まさに「最後の魔術師」というケインズの言葉はふさわしかったわけですが、それでもやはりニュートンは「最初の物理学者」でした。彼の登場により、人類は初めて、宇宙全体に適用できる普遍的な「法則」を手にしたのですから。天動説が支配していた時代は、「月から上の世界」と「月から下の世界」、天上界と地上界はあらゆる面で異なる領域でした。そこでは、運動法則も例外ではなく、両世界に共通の法則は存在しなかったのです。これに対し、「万有引力の法則」と「運動の法則」をもって、リンゴの落下から惑星の公転までを統一して理論的に記述したのが『プリンキピア』という奇跡の書でした。

リンゴが木から落ちるのは、すべて物体に重力があるからである。それでは、なぜ月は落ちてこないのか。それは、月は「慣性の法則」にしたがって地球と月を結ぶ距離を半径とする円周の切線の方向に飛び去るはずなのに、地球とのあいだに引力が働いているため、この引力と均衡する点において地球の周囲を回転するからである。このことを、ニュートンは明らかにしたのでした。

もっとも、ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て、「万有引力の法則」を発見したというエピソードは、事実かどうかはっきりしていません。初めてこのエピソードを紹介したのは科学者のロバート・グリーンです。一七二七年に発表したグリーンの著書で「万有引力の法則」に触れ、「この有名な考えはリンゴから生まれたといわれている」と書いています。

また、ニュートンの主治医だったステュークリーの書いた『ニュートン伝』には、目の前にリンゴが落ちたとき、ニュートンが「なぜ、リンゴは必ず地球の中心へと向かうのか」との疑問を抱いたという記述があります。

数学者のガウスや哲学者のヘーゲルといった大物たちは、このエピソードを単なる伝説だとして否定しています。いずれにしても、その真偽のいかんにかかわらず、リンゴはニュートンのシンボル的存在になりました。わたしが客員教授を務めている北陸大学のシンボル・キャラクターがちょうどニュートンですが、そのイラストの手にはリンゴがしっかりと握られています。天上の月と地上のリンゴによって、人類はついに、「万有引力の法則」にたどり着いたのです。

なぜ、ケインズはニュートンの手稿を求めたのか?

このニュートンが発見した「法則」によって、物理的世界というものが整然とした秩序を持っていることが、地上界のみならず宇宙全体にわたって解明されました。それまでも、宇宙には調和があり、何らかの秩序を持っていることは知られていましたが、その個々の部分を結びつけているものの正体がとうとう明らかになったのです。史上初めて、天上界と地上界の運動が、同じ法則のもとに統合されたのです。ニュートンは、人類をアリストテレス以来の質的な自然観から解放しました。ガリレオおよびデカルトにはじまる量的な自然観がここに確立したのでした。

おそらく月をながめて「法則」というアイデアを得たであろう人類が、その歴史において、月の引力について考えた結果、「万有引力の法則」を発見したニュートンという天才を生み、ついに「月から上の世界」と「月から下の世界」を結びつけました。そのすべてに月が関わっているところが非常に興味深いですが、ニュートンの偉業は、いくら賞賛しても賞賛しきれるものではありません。

彼の「法則」発見にかける情熱にはすさまじいものがありました。その情熱が彼を錬金術にまで向かわせたのではないでしょうか。考えてみれば、錬金術もまた宇宙の「法則」を求める営みでした。わたしには、生来の「法則ハンター」であったニュートンが科学的法則の発見だけではあきたらず、錬金術や聖書研究などの科学以外の方法も駆使して、ありとあらゆる手段で宇宙の法則を知ろうとしていたように思えます。まさに、ニュートンこそは人類史上最大の「法則ハンター」、すなわち「法則王」でした。

ところで、なぜ、経済学者であるケインズはニュートンの手稿を求めたのでしょうか。その明確な理由をケインズ自身は語っていませんが、わたしはなんとなくわかる気がします。

かつて、生水を飲むときには「気象庁、気象庁」と唱えて飲むとあたらないとされました。現在では「経済学、経済学」と唱えるとよいというアメリカのジョークがあるそうです。天候も経済も複雑系に属する分野です。それゆえ、線形(リニア)な世界とは違って、初期条件が設定できたら未来予測が確実にできるわけではありません。

あいまいな経済学の世界に、ケインズは個々の人間のミクロな活動を集計することによって、完全雇用を持続させるための新しい理論を打ち出しました。有名な『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著わしたケインズは、「近代経済学の父」と呼ばれますが、つまるところ彼は、「法則」とは本来無縁である経済学に「法則」を求めた人でした。そんな彼が「法則」そのもののシンボルであるニュートンにただならぬ興味を抱いたことは、わたしにはきわめて自然なことに思えるのです。

「法則」を強く求めたケインズの心は、「法則王ニュートン」に引き寄せられたのかもしれません。