平成心学塾 法則篇 自分の法則を見つけよう #006

歴史や文明にも法則があった

果たして歴史には法則性があるのか?

文明法則史学という学問があるのをご存知ですか。人類の文明史すべてを研究対象とし、古今東西の歴史が示す盛衰パターンの共通性を明らかにしようとする歴史学です。

戦前の日本に、村山節(みさお)という文明史家がいました。彼は、目盛の間隔を一定にとった世界史年表を作成する過程で、さまざまな地域や時代の歴史に共通する二層の盛衰パターンを発見したとされています。1937年頃のことですが、この村山節の発見から文明法則史学はスタートしました。その結果、「文明史には1600年の盛衰周期が存在する」「世界史は800年毎に文明交代期を迎えている」などの法則が発見されたとされています。

古今東西、多くの文明が栄枯盛衰を繰り返す中で、その「法則」を突きとめることは人類の夢でもありました。多くの歴史家や思想家がその夢に挑戦しています。

空想的社会主義者として知られるサン・シモンは、文明の歴史を「有機的な」時期と「危機的な」時期が交互に変化するものと見なしました。

ダーウィンの進化論に多大な影響を受けた社会学者のハーバード・スペンサーは、世界は「統合」と「文化」の中を動くと主張しました。哲学者のヘーゲルは、人間の歴史を、一つの統合形態から分裂の局面を経て、より高いレベルで再統合される、らせん形の発展であると述べました。

もともと歴史について知ることは、その中に隠されている「法則」を読み解くことでもありました。プロイセンの鉄血宰相ビスマルクに「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という有名な言葉があります。西欧の人々は主にローマ帝国の衰亡史などを参考に人間理解をしてきました。日本人は『十八史略』や『三国志』などの中国の歴史書によって人間研究をしてきました。そこには、不易の「法則」を知りたいという願望が込められていたのです。

『十八史略』を読めば、人生の法則がわかる

たとえば、帝王学研究の第一人者として知られた伊藤肇の著書に『十八史略に学ぶ人生の法則』(致知出版社)という本があります。

『十八史略』は、中国史の入門書です。これを書いた曾先之(そうせんし)は、宋の末から元の初めに生きた文人です。つまり、モンゴルに攻められて南宋が滅亡した激動期を生きた人であり、異民族支配に抵抗しながら民族文化の伝統をいかにして伝えるかと非常に苦心しました。その結果、漢民族の歴史をつづった『十八史略』が生まれたのです。

中国では、『史記』や『三国志』や『資治通鑑(しじつがん)』などの史書を読む前には必ず『十八史略』が読まれました。学問の道に入ったばかりの少年たちに、太古から南宋の滅亡に至るまで、数千年の歴史の歩みを簡潔に、しかも面白く読ませることを主眼にしたもので、中国に伝わる正しい歴史、すなわち正史十八の史書のダイジェストが『十八史略』だったのです。

もともと、中国の史書は、ひたすら人間というものを追求しており、したがって『十八史略』も最初から最後まで、人間くさいドラマで埋まっています。その登場人物の数は、じつに4517人。しかも、その4517人の人物が、顔が違っているように、性格も全部違うのです。ですから、これを徹底的に研究すれば人間学というものが自ずから身につくわけです。すなわち、「人生の法則」がわかるのです。

伊藤肇の師は安岡正篤(まさひろ)です。いわずと知れた東洋思想の大家であり、数多くの政治家や実業家の心の師だった人物ですね。彼は、非常に変化の激しい時代を生き抜くために「易」というものを重視していました。彼がよく語ったところによれば、いわゆる俗的な解釈とは違って、易とは変化の理法を説く学問であり、人間世界の偉大な統計的研究に他なりません。

『論語』には、「五十もって易を学べば、またもって大過なかるべし」という孔子の言葉が出てきます。50歳になると誰でも人生というものを考える。よほどの横着者か、馬鹿でない限り、何か考える。「俺はこれでいいんだろうか、こんなことで俺の人生というものはいったいどういう意義があり、価値があるのか」と考えない者はいないはずだ。あの孔子ほどの偉大な哲人、聖人が、「五十歳で易を学ぶ」と発言していることは教えられるところ大であるというのです。

中国には「易姓革命」という重要な思想があります。王朝が変わることですね。中国の天子は天命、天の命によって天下を治めます。しかし、歴史の流れの中では不徳の為政者が出てきます。徳のない為政者が出ると、徳を持った別の人が天命を受けて、新しく天下を治める。これが易姓革命です。

この易姓革命によって中国の歴史を見ると、見事に王朝の交代が説明できるのです。有徳の士が天下を取る。しかし、その王朝に不徳の天子が出てくると、易姓革命によって姓が変わらざるをえなくなる。中国の歴史はこういう攻防の繰り返しなのです。

西欧文明は没落している

シュペングラーが見つけた法則

中国のみならず、西欧の歴史も易姓革命と関係がある、と安岡正篤は見ていました。第一次世界大戦後に「西欧の没落」というテーマがヨーロッパで大変な関心を呼びましたが、安岡が易について語るときにいつも触れたのが、オズワルド・シュペングラーとアーノルド・トインビーという二人の歴史家でした。彼らの著作を読むと、よくもこれほど歴史を研究したなというぐらいよく勉強しています。二人は世界の歴史を徹底的に調査し、その研究成果に基づいて、ある「法則」を発見しました。そして、西欧文明は没落の道を辿っているという衝撃的な本を著しました。

シュペングラーは、第一次世界大戦が終わった直後に『西洋の没落』という著書を出しましたが、これがヨーロッパ諸国に大きな衝撃を与えました。何しろ、ヨーロッパの人々は自分たちは世界でもっとも優れた人種である、白人は黄色人種や黒人より偉いと絶対的な優越感を持っていたわけですから、西欧文明が没落するなど考えてもみなかったのです。

西欧の人々には「進歩の観念」というものがあります。そして、その根底にはキリスト教の教義があります。周知のように、キリスト教はその聖典である『旧約聖書』の中に、宇宙と世界の始まりに関する神話的観念を持っています。世界の創造は、文明の創始とまったく同じで、特定の日付を持つ歴史的事件でした。

第一日目には天と地が、二日目には水が、三日目には陸が、四日目には太陽と星が、五日目には鳥と獣と魚が創造されたというように、すべては日付のある出来事なのであり、そうして歴史は未来に向かって直線的に進んでゆく、つまり進歩するものであると信じられていたのです。

そんな「進歩の観念」を持ち、未来はすべて光り輝いていると信じる西欧人たちに、シュペングラーはその文明の危機を伝えたのです。彼は、すべての文明は、生物体と同じように生と死をまぬかれず、西欧文明も死に向かって没落しているのだと警告したのです。

非常な衝撃を受けながらも、西欧人たちは、「生物の法則」をそのまま「文明の法則」として応用したシュペングラーの説を迎え入れたのでした。

トインビーが到達した「文明の法則」

シュペングラーの『西欧の没落』はトインビーを感奮させました。彼は「そうではないのだ。文明は自覚と努力によって救われるのだ」ということを明らかにしたいという悲願を立て、『歴史の研究』という大著を著しました。

彼は、シュメール・アッカド文明、エジプト文明、エーゲ文明、シリア文明、古代ギリシャ文明、イスラム文明、ギリシャ正教文明……といった、20以上もの文明について徹底的に研究しました。そして、文明の発生を静的な状態からダイナミックな活動への移行と見なします。トインビーによれば、この移行は、すでに存在している文明の影響により、あるいは古い世代の文明の崩壊により、自発的に生じるといいます。そして、文明発生時の基本的なパターンを相互作用のパターンと見て、それを「挑戦と反応」と呼びました。自然環境や社会環境からの挑戦によって、社会の創造的反応が起こり、それによって社会は文明への道を歩みはじめるというのです。

トインビーいわく、最初の挑戦にうまく反応し、それが文化的な「はずみ」を発生させると、文明は成長を続けていきます。文化的な「はずみ」とは、社会を平衡状態から不均衡な状態へと動かすものです。また、その不均衡そのものが新たな挑戦となります。

こうして、最初の挑戦と反応のパターンが以後の成長の各局面で繰り返し起こる。そして、そのつど、新たな創造的調整を必要とする不均衡が生まれる。

これが、歴史を研究し尽くしたトインビーが到達した「文明の法則」でした。このとき、トインビーの目を開かせ、希望と信念を与えたのが、東洋の易学でした。易を知るに及んで彼は、人類の歴史というものは過去に20いくつの文明が興っては滅びる没落史であるという悲観主義から解脱したといいます。

古代中国人たちは、この世の現象はすべて「陰」と「陽」という二つの極のパワー間のダイナミックな相互作用から生まれると考えていました。これも一種の「法則」といえますが、それが「易」の思想に発展したのです。

これに似た思想を古代ギリシャの自然哲学者エンペドクレスも持っていました。彼は、この世の変化は「愛」と「憎しみ」という、二つのパワーの衰退と隆盛から生まれると唱えたのです。

統計学的研究としての易

さて、「易」というものは、民族がきわめて長い歳月を通じて得た統計学的研究とその解説といえるでしょう。

「易」という文字には大きく三つの意味があります。その第一の意味は「変わる」ということ。変化してやまないということです。

しかし、変わるということは、その根本に変わらないものがあって初めて変わるのです。その変わる、変化してやまないというそのものを「化」といいます。自然と人生は大いなる化である、これを「大化」という。大化の改新というのは、この思想に基づくのです。

また、「化」の根底は不変でなければなりません。不変がなければ変化という意識が生じないわけです。そこで易の第二の意味は不易、つまり「不変」の原理です。この原則に基づいて変わる、変化を自覚し意識することです。人間の知恵が発達するにつれて、変化のうちに不変の真理や法則を探求し、それに基づいて変化を意識的、積極的に参じていきます。つまり、超人間的というか、無意識的変化にとどめないで、変化を考察し、変化の原則に従って自ら変化していくという意味が出てくるのです。

そこで易の第三の意味は、創造的進化の原理に基づいて変化してやまない中に、変化の原理や原則を探求し、それに基づいて、人間が意識的、自主的、積極的に変化していくことです。これは「化成」と呼ばれ、人間が創造主となって運命を創造していくことです。

このように易とは、大いなる「法則の科学」でもあることがおわかりいただけるでしょうか。わたしは、『孔子とドラッカー』(三五館)という本で、「易」について以上のような見解を書きました。また同書では、ピーター・ドラッカーを人類史上最高の「経営通」と表現しましたが、そのドラッカーは社会生態学者でもあり、独自の見方で歴史と文明についての「法則」を求めました。

世界が「歴史の境界」を超えるとき

ドラッカーによれば、西洋の歴史では、数百年に一度、際立った転換が行なわれるといいます。世界は、「歴史の境界」を越えるのです。そして社会は、数十年をかけて、次の新しい時代のために身繕(みづくろ)いします。世界観を変え、価値観を変えます。社会構造を変え、政治構造を変えます。技術や芸術を変え、機関を変えます。やがて50年後には、新しい世界が生まれるというのです。

このような転換は、13世紀にも見られました。当時のヨーロッパ社会は、ほとんど一夜にして都市中心社会となりました。ギルド(同業組合)が新しい社会勢力として登場し、遠距離貿易が復活しました。新しい建築としてゴシック様式が、新しい画派としてシエナ派が興りました。宗教、学問、精神の担い手として、新しい都市型の修道会たるドミニコ会やフランシスコ会が登場しました。そして数十年後には、ダンテが「ヨーロッパ」文学を生み、言語はラテン語から地方言語へと重心を移したのです。

その200年後、次の転換が、1455年のグーテンベルクによる植字印刷や印刷本の発明と、1517年のルターによる宗教改革のあいだの60年間に起こりました。

この時期にはまた、1470年から1500年にかけてフィレンツェとヴェネツィアにおいて絶頂期を迎えたルネサンスの隆盛があり、古代の再発見がありました。さらには、ヨーロッパ人によるアメリカの発見があり、ローマ軍団以降初の常備軍としてのスペイン歩兵軍団の創設があり、解剖学をはじめとする科学的探究の再発見があり、西洋におけるアラビア数字の普及がありました。

次の転換期は1776年にはじまりました。すなわちアメリカの独立があり、ジェームズ・ワットが蒸気機関を完成し、アダム・スミスが『国富論』を書いた年です。その転換期は、40年後のワーテルローの戦いで終わり、この40年間に産業革命が起こり、資本主義と共産主義が現れ、近代のすべての「主義」が生まれたと、ドラッカーは述べています。1809年には、初の近代的大学としてベルリン大学がつくられるとともに、普通教育がはじまりました。ユダヤ人が解放され、1815年にはロスチャイルド家が王侯の影を薄くするほどの大きな力を持つ存在となりました。結果としてこの40年は、ヨーロッパに新しい文明を生み出したのです。

それから200年後の今日、再び転換のときがやってきました。今回の転換は西洋の社会や歴史に限定されてはいません。それどころか、もはや「西洋」の歴史も、「西洋」の文明も存在しえないということこそ、根本的な変化の一つであるとドラッカーは述べています。もはや存在するものは、西洋化されてはいますが、あくまでも、世界の歴史と世界の文明なのです。

では、次に社会を根底から変える発明や出来事とは何でしょうか。世界初のコンピュータであるENIACが完成したのは1946年ですが、その50年後、インターネットが世界中に普及しました。いまから50年前には何が起こったかを考えれば、次なる社会が見えてくるはずです。

第四の社会革命へ

以上、社会生態学者ドラッカーが提唱した文明法則としての「ドラッカーの法則」と、わたしは呼んでいます。ちなみに、ドラッカーは死の数年前に『ネクスト・ソサエティ』(上田淳生訳、ダイヤモンド社)という未来社会についての本を出しました。それを読んだわたしは、非常に感銘しました。そして、そのアンサーブックとして『ハートフル・ソサエティ』(三五館)という本を書いたことがあります。

その「まえがき」で、わたしは、人類はこれまで、農業化・工業化・情報化という三度の大きな社会変革を経験してきたことに触れました。それらの変革はそれぞれ、農業革命・産業革命・情報革命と呼ばれます。第三の情報革命とは、情報処理と情報通信の分野での科学技術の飛躍が引き金となったもので、変革のスピードはインターネットの登場によってさらに加速する一方です。

わたしたちの直接の祖先をクロマニョン人など後期石器時代に狩猟中心の生活をしていた人類とすれば、狩猟採集社会は数万年という単位で農業社会に移行したことになります。

産業革命が起こって、農業社会は数千年という単位で工業社会に転換しました。

さらに、コンピュータや通信の発達により、工業社会は数百年という単位で20世紀の中頃に情報社会へ転進しました。

数万年、数千年、数百年と、それぞれの社会革命ごとに持続する期間が一桁ずつ短縮しているわけです。当然ながら、次は数十年になるはず。現在、すでに数十年を経過した情報社会が第四の社会革命を迎えようとしていると考えることは、きわめて自然でしょう。

そして、その第四の社会とは人間の「心」というものが最大の価値を持つ「心の社会」であると、わたしは考えたのです。現在は、「心の社会」に向けて進みつつある、いわば「ハート化社会」なのではないかというのが自説ですが、よく考えてみたら、これも歴史や文明や社会についての自分なりの「法則」のようなものかもしれません。