平成心学塾 法則篇 自分の法則を見つけよう #012

キリスト教と無限なる欲望

「求めよ、さらば与えられん」

「引き寄せの法則」の正体とは、ニューソートから生まれた錬金術でした。この現代の錬金術は、「金持ちになりたい」「仕事で成功したい」「異性にモテたい」といったように、さまざまな願望の実現術です。つまり、人間の持つ欲望というものを肯定し、それをさらに強調しているのですね。

ここで、わたしは「求めよ、さらば与えられん」というキリスト教を象徴する言葉を連想してしまいます。そして、ニューソートがキリスト教プロテスタントから生まれていることを思い出します。

もしかして、キリスト教と「欲望」は何か関係があるのでしょうか。そして、それは本書のテーマである「法則」と何か関係があるのでしょうか。

わたしは、大いにあると思います。順を追ってご説明しましょう。

「唯幻論」を提唱している岸田秀氏によれば、人間は本能の壊れた動物であり、本能に代わる行動指針として自我をつくりました。自我が混沌とした世界をまとめなければならないというとき、自己対世界ということでまとめることが自然です。岸田氏は、『一神教vs多神教』で次のように述べます。

「自己意識が強ければ強いほど、世界は一個の他者として向き合ってきます。世界は、自己の意思を挫くか助けるかというかたちで、つまり他者の意志として感じられてくるでしょう。それを、神に助けられたとか、神に見捨てられたとか感じることは自然です。とすれば、本能が壊れ、それを埋め合わせるものとして自我が発生した段階で、神という概念もまた潜在的に発生することになるんじゃないでしょうか」

そこで、自我を支える神は一人なのか、たくさんいるのかという問題になってきます。一神教と多神教の分かれ目ですね。これについて、欧米の人々は一人の強い神を必要としました。そして、彼らは強い自我を持ったのです。岸田氏は述べます。

「要するに、強い自我とは強い神に支えられている自我です。ヨーロッパの近代的個人の自我は、日本人には強い自我と見えたのですが、それは、一神教の強い神を背負っていたからです。そういう意味では一神教と強い自我というのは対応していますよね」

そして、不安なり恐怖なりが強いほど、自我も強くなって、人間は強い自我を必要とし、自我を強くするためには強い神が必要となるというのです。厳しい自然環境に囲まれていた場合、世界があたかも自分に敵対しているように思えてきます。それは耐えがたい不安であり、つねに人間は世界と一体だと思いたいものです。でも、自我があるかぎりは世界と一体になれません。自我というのは、人間が生きていくために必要不可欠でありながら、必要悪でもある。自我のためにいろいろと厄介なこともあるわけで、死の恐怖というのはその最たるものでしょう。自我がなければ、死の恐怖など味わわなくても済むわけです。

そして、ここが大切なポイントですが、人間は自我を持つと、本能に基づいて行動する代わりに、自我の快楽とか利益とかを基準にして行動するようになるそうです。そうなると、無用に他者と対立してしまいます。

もちろん動物だって喧嘩はしますが、それは本能の範囲内です。しかし、人間の自我は幻想なので、何を手に入れようとも、現実の満足というのはありえません。つまり、欲望は無限なのです。

自然に従う文化と逆らう文化

欲望とは何かというと、それは現状否定そのものだと、わたしは思います。今ここにある現状に満足していないから、「~が欲しい」「~がしたい」と思うわけです。現状に満足して幸福を感じていれば、飽くなき欲望など起こりようがありません。

そして、現状とは自然のことでもあります。

一神教と多神教の違いを考える上で、おそらく自然に対する考え方が、欧米人と日本人では相反していることが重要な点であると、わたしは思います。欧米人は厳しい環境に囲まれているので、自然を対立するもの、征服する対象と見ますが、日本人は自然を生きる恵みを与えてくれるものとして見ました。そして、自然に感謝し、畏敬の念を抱き、これと調和して暮らしてきました。

そのため宗教にしても、彼らは排他的で独裁的な征服の思想を持つキリスト教のような一神教になります。対する日本は、自然に逆らわず自然の中に神を見て畏敬の念を抱き、自然と一体になろうとする寛容な思想の神ながらの道、多神教の神道になります。

自然に対して、西洋では高い姿勢、傲慢な態度で立ち向かうのに、日本では低い姿勢、謙虚な態度で受け入れる。彼らは、たとえば石を見ればすぐ彫刻したり、規格統一して並べたりして人間の偉大さを誇ります。日本では、石を河原から拾ってきたままの姿で庭に置き、重く安定した姿の石庭を楽しみます。

また、彼らは水を見れば引力に逆らって噴水を上げたがりますが、日本庭園では、水は上から下へと泉水や滝を造って、自然のあるがままの姿を楽しみます。日本庭園は大自然を縮小してそのまま移したものですが、西洋では人工的な直線や円を描いて幾何学的な庭園をつくる。このように日本が「自然に従う文化」なら、西洋は「自然に逆らう文化」と呼べるかもしれません。

パレスチナやアラビアの苛酷な自然風土の中では、自然に対決し、自然を征服しようとする唯一絶対神を必要として一神教を生む。これに対して自然の温和な日本では、自然順応、調和、共生の多神教が生まれる。一神教が排他独善の不寛容な神、妬みの神になるのに対して、多神教は誰をも受け容れる、きわめて寛容な慈愛の神々となるのです。

「戦争エンジン」としての一神教の暴走

史上、ヨーロッパ世界を混乱させ、人々を不幸に陥れた戦争は、すべて宗教に由来するといえます。十字軍戦争がまさにその代表ですが、いつ果てるとも知らぬ世界最長の百年戦争も三十年戦争も、七年戦争も、旧教と新教の紛争のユグノー戦争も、みな宗教戦争です。その後も十字軍以来の敵であるイスラム教国を相手取り、数回にわたる中東戦争、湾岸戦争、イラク戦争と「戦争エンジン」としての一神教の暴走はとどまるところを知りません。

ヨーロッパの大衆は戦争の犠牲を受け続けただけではありません。「異端審問」や「魔女狩り」などでいかに多くの人々が宗教の名において悲惨な目に遭わされたことか。

また、ナチスによるユダヤ人の虐殺は20世紀の愚行として歴史に名を残しますが、これもさかのぼれば十字軍によるユダヤ人殺しに行き着きます。バチカンがナチスを黙認していたことは、よく知られています。ユダヤ人が全滅すれば、キリスト教の敵であるユダヤ教が消滅するからです。

さらには、広島・長崎への原爆投下の根底にも、かつてコルテスやピサロが南米大陸を血に染めた殺戮(さつりく)行為と同じ「神は異教徒の殺戮を許し給う」という十字軍的精神、一神教的思想があったことは明白です。

人間を幸せにするはずの宗教が、逆に人間を不幸に落としめたという意味で、世界史における一神教としてのキリスト教の大罪を人類は絶対に忘れてはなりません。そして、その根底には、強い神のもとにある強い自我と強い欲望がありました。

そして、「法則」です。「法則」とは何か。それは、いつでも、どこででも、一定の条件のもとに成立するところの普遍的かつ必然的関係です。そして、それを完璧な形で追求できるものは、数学による理論の構築、そして実験、すなわち、科学のみです。科学こそは最大の「法則追求システム」であり、科学者たちは「法則ハンター」であったわけです。

なぜ、イスラム教において近代科学が成立しなかったのか

その科学そのものも、キリスト教という一神教の帰結であったことは現在では常識となっています。同じ一神教でも、興味深いことにイスラム教においては科学は発達しませんでした。中世においては、ヨーロッパはまさに暗黒時代で、文明のあらゆる面においてイスラム世界のほうが進歩していました。ところが、近代になって科学を発達させたキリスト教ヨーロッパに大きく遅れをとったことは歴史の事実です。その理由は何でしょうか。

まず、一神教とは唯一絶対神を信仰するという点を確認しましょう。わたしは『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』という本を書きましたが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は三大一神教とされます。でも、その三つの宗教は、じつは同じ神を信仰する三姉妹のような存在なのです。「ヤハウェ」と「ゴッド」と「アッラー」は同じ唯一絶対神をさすのです。

一般に、この宇宙は唯一絶対神が支配しているはずだから、その支配の「法則」を知りたいというところから近代科学が出発したとされています。ニュートンの「万有引力の法則」に代表されるように、近代科学とは、世界を統一した原理でとらえるという考え方です。そして、その考え方は一神教的な物の見方でなければ成立しないのです。

すると、なぜキリスト教と同じ一神教であるイスラム教においては近代科学が成立しなかったのか。それは、キリスト教世界とイスラム教世界の成立の仕方の違いに理由がありました。ずばり、キリスト教世界は自ら好んで唯一絶対神を受け入れたわけではありませんでしたが、イスラム世界は自らの意志で受け入れたという大きな違いがあったのです。

ギリシャ神話や北欧神話、ケルト神話を持ち出すまでもなく、ヨーロッパはもともと多くの神々をいただく多神教の文化でした。それを世界帝国をめざすローマが、一神教としてのキリスト教を押しつけたという経緯があります。本当は望んでもいないのに唯一絶対神を押しつけられたことは、ヨーロッパの人々の心に多大なストレスを与えました。その結果、占星術とか錬金術とか魔術といったオカルティズムが流行したのです。魔女にしたって、ヨーロッパの人々の多神教に対する無意識のノスタルジーのようなものでした。

しかし、ムハンマドが砂漠で開いた宗教に基づくイスラム教世界は、別に誰かから押しつけられたわけでもなく、最初からアッラーを信仰しました。何事も「インシャラー(すべてはアッラーの思し召し)」と唱えればよい世界であり、雨が降るのも、夜空に月が出るのも、リンゴが木から落ちるのも、すべてはアッラーの思し召しなのです。そこに「法則」を見つけようなどという発想自体が存在しなかったのです。

デカルトが自らの思想を「方法的懐疑」と表現したのは言い得て妙で、懐疑的精神がなければ、「法則」を突き止めようなどという気も起こりませんし、科学も発展しないわけです。そして、神に対する疑いを抱いた者は、頼みもしないのに自分たちを支配する神という独裁者に憎悪を感じ、それを殺そうと考えます。つまり、神殺しですね。岸田氏も、「近代ヨーロッパ人が、全知全能の唯一絶対神が支配している宇宙の法則を知りたいと思ったのは、神を殺して、その全知全能性を奪い取り、神に代わって人間が全知全能になり、宇宙の法則をわがものにして、宇宙を支配したかったからですよ」と語っています。

ヨーロッパ人にとってのキリスト教とは外部から無理やり押しつけられたものだったため、それに対する反発としてそのような欲望を持つことになったわけですね。潜在的にヨーロッパの人々にはそのような欲望があったから、キリスト教においては神が殺され、聖と俗が分離し、革命が起こり、近代科学が発達したのです。ヨーロッパ人の心の中に潜む神への潜在的な疑いは、次第に唯一絶対神を確かめたいという衝動になり、さらには神の全知全能性をわがものにしたいという欲が出てきます。さらに岸田氏は述べます。

「神の全知全能性を奪い取ってわがものにした近代ヨーロッパ人は、誇大妄想的になり、神が支配する宇宙の原理、すなわち永遠の真理を探究し始めます。そのとき、彼は、神を信じるがゆえに神がどのような原理で宇宙を支配しているかを知りたいのだと言い訳しますが、これは明らかに自己欺瞞の嘘です。神を信じているのなら、宇宙の支配など神に任せておけばいいのです。彼は、神の宇宙支配の原理を盗んで、自分がその原理を使って宇宙を支配したかったのです。ヨーロッパの近代自然科学はこのようにして成立したのだと思います」

人間は本能が壊れた代わりに、「自我」を持ちました。哲学・芸術・宗教は、すべて人間の自我の産物でしょう。そして、ユダヤ・キリスト・イスラムの一神教は、自我がつくった最大の作品かもしれません。

欲望の永久運動

とくに、キリスト教は自我を肥大化させてきました。マックス・ウエーバーが明らかにしたように、プロテスタンティズムは資本主義の精神を生みました。また、プロテスタンティズムはニューソートを生み、これが現在の成功哲学につながっています。ここに、「富を得る」「成功する」「出世する」ことを実現する一連の「引き寄せの法則」が誕生していくのです。

「引き寄せの法則」は、キリスト教や近代科学がそうであったように、一種のグローバル・スタンダードなのかもしれません。現在のグローバル・スタンダードとされているものは、じつは「アメリカン・スタンダード」にすぎないのですが、「引き寄せの法則」もアメリカ生まれです。

それは資本主義の落とし子という側面を持っています。多くの人々の強い願望によって、「引き寄せの法則」が作動し、ルイ・ヴィトンのバッグが、シャネルのスーツが、メルセデス・ベンツが、アメリカン・エクスプレスのプラチナカードが、どんどん引き寄せられていきます。

しかし、欲望には限りがありません。欲しいモノを入手したら、さらに高級品が欲しくなり、目標の収入が得られれば、さらなる高収入を望むはずです。それは、「引き寄せの法則」を作動させることによって、自我が肥大化し、欲望が最大レベルになっているからなのです。キリスト教は「求めよ、さらば与えられん」と説きますが、一回だけ求めたら、それで終わりというわけにはいきません。求めたものが与えられたら、また求める。それも得られたら、また求める。そこには、欲望の永久運動あるいは無限地獄とでもいうべき繰り返しが待っています。そんな無限地獄に落ち込んだ人間が幸福であるはずはありません。

子どもを不幸にする方法

キリスト教文化にどっぷりと浸かったヨーロッパ人の中にも、不幸の本質が欲望にあることを見抜いた人物もいました。かのジャン=ジャック・ルソーもその一人です。ルソーには不朽の教育論として知られる『エミール』という著書があります。教育についての考え方のみならず、ルソーが自らの哲学・宗教・道徳・社会観のいっさいを盛り込んだ大著ですが、その中には、あまりにも有名な次の言葉が出てきます。

「子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ」(今野一雄訳)

ルソーはいいます。子どもの欲望はたえず大きくなってゆく。彼らは、まず父親が持っているステッキが、次には時計が欲しいという。そして、飛んでいる鳥、光っている星が欲しいといい、ついには見るものはなんでも欲しくなる。

人間というものは、自分の力でなんとかなるものはすべて自分のものだと考えるものであり、その意味でまさに、「求めよ、さらば与えられん」なのです。人間の欲望とともに、それを満足させる手段を大きくしていけば、人はみなあらゆるものの支配者になる。だから、「ほしいといえばなんでも手に入る子どもは、自分を宇宙の所有者と考えるようになる」とルソーは警告するのです。宇宙の所有者と考える者が求めるものは、いうまでもなく、宇宙の「法則」です。ルソーは、限りなき欲望の追求が「法則」の追求へと至ることを見抜いていたのでした。

どんなに子どもが欲しがっても、そのすべてを親は与えてやれません。ステッキや時計を与えることはできても、夜空の星は与えてあげられないのです。遅かれ早かれ、やがては親の無力のために、どうしても拒絶しなければならなくなるのです。すると、そういう拒絶に慣れていない子どもは、欲しいものが手に入らないことより、拒絶されたことをいっそうつらく考えます。

欲しいものを次々に与えられ続け、自らを宇宙の支配者と考えるようになった子どもは、あらゆる人間を自分の奴隷とみなします。そして自分は、命令しさえすれば、なんでもできると信じるのです。最後に相手が自分の欲求を断らなければならなくなると、子どもはその拒絶を奴隷の反逆行為と考えます。子どもはあらゆる人のうちに悪意を認め、すべての人に憎しみを持ちます。道理のわからない子どもは、いくら大人が機嫌をとっても受けつけず、あらゆる反対に対して腹を立てるのです。ルソーは次のように述べます。

「そんなふうに、怒りに支配され、このうえなく激しい情念にさいなまれている子どもが幸福であるなどとどうして考えられよう。そんな子が幸福だとは、とんでもない。それは専制君主だ。だれよりもいやしい奴隷であるとともに、だれよりもみじめな人間だ」

これは、もちろん子どもだけの問題ではありません。「求めよ、さらば与えられん」と信じて、あらゆるものを強い欲望によって「引き寄せ」ようとする人間すべての問題なのです。

キリスト教にとっての恐るべき批判者

ルソーは人間の不幸というものが欲望から生まれるという真理をよく理解していました。さらに彼は、キリスト教そのものの中に欲望を育てるメカニズムがあることを鋭く突いたのです。実際、ルソーはキリスト教にとって恐るべき批判者となりました。

『エミール』の第四編は「サヴォィの助任司祭の信仰告白」という長いエピソードの形になっていますが、そこにルソーは自らの哲学および宗教についての思想を詳しく述べています。すなわち、デカルト的な懐疑から出発して、まずは認識論を展開し、それから唯物論無神論の不条理を論じます。そして、理性ではなく直接的な感情によって、自然の光景と人間の内部に神を認めたルソーは、すべての人に与えられた良心の掟(おきて)を高く掲げるのです。

こうした信念を明らかにするのみならず、ルソーは当時のキリスト教会の権威を否定するに至ります。彼は、自著である『エミール』の中で堂々と、啓示、奇跡、『聖書』の権威、そして教会の権威を激しい語調で否定したのでした。当然ながら、権力者たちにとっては「神を恐れぬ反逆」と受け取られ、パリの高等法院は出版後まもなく『エミール』を禁書とし、著者ルソーに対して逮捕状を発しました。

こうしてルソーはスイスに亡命し、長い漂白生活のスタートを切りますが、このときからヨーロッパの哲学は、古代ギリシャ以来の大きな動きを見せはじめます。

『エミール』の大の愛読者で、それこそ寝食を忘れて読みふけった人物こそ、ドイツの哲学者カントでした。カントは、時計のように規則正しい日々の散歩さえおろそかにするほど、『エミール』の美しい文章やその内容に魅せられたといいます。カントは自身の哲学の要(かなめ)である道徳論を構想し、自然科学の法則と同じように普遍性と必然性をもった道徳法則を追求しました。誰にでも通用し、いつでも通用するというカント流の心の法則は、現在では「実践理性の法則」と呼ばれています。

そして、カントの影響を非常に受け、その哲学を批判的に継承したのが近代哲学最大の巨人といわれるヘーゲルでした。彼もまた、「弁証法」によってダイナミックに歴史法則を追求した人でした。それは、ちょうど古代ギリシャにおいて、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった三つの大きな山が連なったように、ルソー、カント、ヘーゲルという近代の大きな山が連なっていったのです。面白いことに、二つの山脈をなす三人の思想内容はそれぞれ対応し、相似形となっている観があります。ヨーロッパの歴史に最大の影響を与えたキリスト教は性悪説に基づきますが、ソクラテスとルソーはともに性善説に立脚します。プラトンとカントはともに観念論を確立し、アリストテレスとヘーゲルはともに壮大な哲学体系を構築しました。

哲学の第二山脈が生まれるきっかけとなったスイッチャーこそ、ソクラテス以来の性善説をヨーロッパに復活させたルソーであり、1762年に彼が書いた『エミール』でした。同じ年に、ルソーの主著ともいえる『社会契約論』も書かれています。この本も、『エミール』に劣らずラディカルな本で、後のフランス革命を呼び起こしたとされています。

さらに、歴史や伝統を否定して個人を重視するという社会契約説はマルクスやヒトラーにも影響を与えました。いわば、ルソーの政治思想は社会主義やナチズムなどの社会改良思想の源流にもなっているのです。教育論の大家というと何か穏健なイメージがありますが、ルソーは猛毒をはらんだ思想家なのです。キリスト教会が彼を非常に危険視したのも、ある意味では正しかったのかもしれません。

ルソーは、最晩年に書いた『告白』で知られるように、少年時代に強姦未遂で逮捕されたり、知的障害者の女性に性的虐待を加えて妊娠させたあげく次々に捨てたりしています。おそらく彼自身がものすごく欲望が強く、その暴走を抑えることができない人間だったのでしょう。

だから、人間の欲望が不幸の源であることを、ルソーは誰よりもよく知っていたのかもしれません。いずれにせよ、キリスト教と無限なる欲望が密接に関わっていることを、ルソーは人類の前に初めて明らかにしたのです。