平成心学塾 法則篇 自分の法則を見つけよう #007

人間は法則を求める動物である

芸術における「法則」

黄金比

これまでいろいろな「法則」について見てきましたが、ここから先は、「法則」というものの正体に迫ってみたいと思います。

まずは、人間がいかに「法則」を求める動物であるかということに改めて感心します。ふつう、「法則」というと自然科学の法則を最初に連想する人が多いと思います。物理学に代表される自然科学は一般に客観的な世界だとされているので、「法則」のイメージにぴったりです。逆に、主観的な世界を扱う芸術などはもっとも「法則」から縁遠い印象がありますね。

ところが、驚くべきことに、芸術の世界にさえも「法則」は存在するのです。

「黄金比」という言葉を聞いたことがないでしょうか。「黄金律」とも呼ばれ、人間が美と調和を感じる、もっとも美しい比率です。数字に表すと、約「1対1・618」ですが、まあ、「1対1・6」あるいは「5対8」と憶えておけばよいでしょう。

この黄金比は、人類がこれまで遺してきたさまざまな建築物や芸術作品に取り入れられてきました。例をあげると、エジプトのギザにあるクフ王のピラミッド、アテネのパルテノン神殿、ミロのヴィーナス、ドミニク・アングルの絵画「泉」などです。世界的ベストセラーになった『ダ・ヴィンチ・コード』の冒頭に登場するレオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」にも黄金比が使われています。

縦横比が黄金比となっている長方形のことを「黄金長方形」といいます。わたしたちの身近なところでは、国旗、名刺、各種のカード、トランプ、タバコのパッケージなどが黄金長方形になっています。

黄金比でデザインされている「IXY」「iポッド」

最近のヒット商品に黄金長方形が多く見られることは、デザインの世界でよく知られています。たとえば、ハイビジョンテレビのモニター、キャノンのデジタルカメラ「IXY」、アップルコンピュータの携帯オーディオプレーヤー「iPod」などなどです。

黄金長方形を使ったデザインの特徴は、「スマート」で「スタイリッシュ」なイメージがあることです。ハイビジョンテレビの画面は、4対3のテレビモニターよりスマートですよね。また、本でいえば新書のサイズが黄金比ですが、文庫よりも洗練された印象があります。

ピラミッドやパルテノン神殿の存在からもわかるように、この魔法のような黄金比に人類が気づいたのは、非常に古いとされています。黄金比は、人類はじめての無理数とも考えられており、紀元前の哲学者ピタゴラスや数学者ユークリッドによって発見されたともいわれています。

無理数というのは、小数点以下にランダムな数字が無限に並ぶ数のことで、円周率などもそうですね。発見当初は「神がつくりあげたこの宇宙に無理数のような永遠に割り切れない数が存在することなど、ありえない」として、ピタゴラス教団は黄金比を極秘事項として封印したとされています。教団の中にヒッパソスという人物がいて、黄金比を外部に漏らしたところ、彼は不敬な行ないの罰で溺死してしまったそうです。

ピタゴラスは「天上の音楽」という言葉に代表されるように音楽についての秘密も知っていたとされ、また総合芸術としての建築についても非常に詳しかったようです。芸術の神秘性を追求した人だったのですね。

さて、黄金比は英語で「ゴールデン・レシオ」ですが、じつは「シルバー・レシオ」というものも存在します。日本では「白銀比」と訳されています。白銀比とは、「1対√2」のことで、簡単には「1対1・4」とおぼえるとよいでしょう。コピーなどに使うA判用紙(A3、A4、A5など)の寸法が代表的です。

ヒットキャラクターは白銀比でできている

白銀比は、「日本の黄金比」という別名があるくらい、伝統的に日本人の美意識に合うとされ、日本で好まれてきました。

白銀比が取り入れられていることで有名なのは、何といっても法隆寺です。五重塔の庇(ひさし)、金堂正面の幅、西院伽藍の回廊など、至るところに「1対√2」の比率を見ることができます。法隆寺を建立したのは聖徳太子とされていますが、その太子と二人の皇子を描いたと伝えられる肖像画にも白銀比が用いられているという説があります。皇子たちの身長を「1」とすると、聖徳太子は「√2」だというのです。

また、日本の風景画や美人画などにも白銀比はよく見られます。雪舟の「秋冬山水図」や菱川師宣の「見返り美人」などが代表とされています。

さらに驚くべきことに、いまや日本を代表する文化になった観のあるマンガやアニメのキャラクターにも白銀比が使われているという人もいます。多摩大学教授でイラストレーターでもある秋山孝氏によれば、のらくろ、鉄腕アトム、天才バカボンなどの顔を重ねてみると、「目の位置がほとんど同じ」「耳や角、帽子などの突起物がある」などの共通の特徴をあげ、キャラクターたちの全身は白銀長方形にぴったり収まるというのです。デザイナーである木全賢氏は、ハローキティやマイメロディといったサンリオのキャラクターが白銀比にほぼ収まると述べています。

白銀長方形を生み出す日本のノウハウは、折り紙や風呂敷などにも見られます。それぞれ、どんどん折ったり畳んだりすると、自然に白銀比長方形が現れるのです。また、日本の伝統的建築は、城から神社仏閣、民家にいたるまで木造ですが、建築に際しては木材の寸法を正確に測定することが大前提となります。そのための道具が「曲尺(かねじゃく)」です。「サシガネ」とか「カネザシ」などとも呼びますが、普通の直線定規を途中から直角に曲げたような形をしています。この曲尺を使って丸太から角材を取ると、なんと自動的に「√2」が出てくるのです。その秘密は二種類ある曲尺の目盛りにあるのですが、とにかく日本人は古来から、ありとあらゆる方法で自分たちが「美しい」と感じる白銀比を無意識に、あるいは意識的に創造してきたようです。

このように、西欧人にしろ日本人にしろ、「美」にさえも法則を求めてきたわけです。本当に、人間って面白いですね。

なぜ、人間は法則を求めるのか?

なぜ、人間は法則を求めるのでしょうか。その理由は、おそらく言語というものを人間が持ったことにあるのではないかと、わたしは考えています。そして、この章では「芸術」についてのエピソードからはじめましたが、「法則」の正体は芸術にも、そして哲学や宗教にも深く関わっていると思っています。

わたしは、『ハートフル・ソサエティ』において、21世紀は「心の時代」となると思われるが、さらに具体的にいうと「心の時代」とは「哲学・芸術・宗教の時代」であると述べました。

では、哲学・芸術・宗教の三者にはどのような関係があるのでしょうか。「法則」の正体にもつながってゆくので、それを少しご説明したいと思います。

そもそも哲学とは何でしょうか。また、芸術とは、宗教とは何か。

簡単にいうならば、それらは人間が言語を持ち、それを操り、意識を発生させ、抽象的思考を持つようになったことと引き換えに得たものです。わたしたちが知っているような話し言葉の誕生が、人類の先史時代を特徴づける一つの出来事だったことに疑問の余地はありません。あるいは、それこそが実際に先史時代を特徴づけた決定的な出来事だったのかもしれません。

言語を身につけた人類は、自然界に新たな世界をつくり出すことができました。つまり、内省的な意識の世界と、他者とともにつくりあげて共有する世界、わたしたちが「文化」と呼ぶものです。ハワイの言語学者デリック・ビッカートンは、「言語こそが、人間以外のあらゆる生物を拘束する直接体験という監獄を打ちこわし、時間や空間に縛られない無限の自由へとわれわれを解き放ったのである」と述べています。

人間は言葉というものを所有することによって、現実の世界で見聞したり体験したことのない、もしくは現実の世界には存在しない抽象的イメージを、それぞれの意識のなかに形づくることができるのです。そして、そのイメージを具現化するために自らの肉体を用いて自然を操作することができます。

まさしく、その能力を発揮することが文明でした。それによって人間はこの自然の上に、田や畑や建造物などの人工的世界を建設し、地球上もっとも繁栄する生物となったのです。

抽象的なイメージ形成力を持ち、自然を操作する力を持ち、自らの生存力を高めてきた人間ですが、その反面で言語を持ったことにより大きな不安を背負うことにもなりました。

人間はもともと宇宙や自然の一部であると自己認識していました。しかし、意識を持ったことで、自分がこの宇宙で分離され、孤立した存在であることを知り、意識の中に不安を宿してしまったのです。実存主義の哲学者たちは、それを「分離の不安」と呼びます。しかし、不安を抱えたままでは人間は生きにくいので、それを除去する努力をせざるを得ませんでした。この営みこそが文化の原点であり、それは大きく哲学・芸術・宗教と分類することができます。

法則とは幻想である?

「分離の不安」が言語を宿すことによって生じたのであれば、その言語を操る理性や知性からもう一度「感性」のレベルに状態を戻し、不安を昇華させようとする営み、それが芸術ではないでしょうか。

さらに、麻薬を麻薬で制するがごとくに、言語で悩みが生じたのであれば、それを十分に使いこなすことによって真理を求めようとしたのが哲学でした。

そして宗教とは、その教義の解読とともに、祈り、瞑想、座禅などの行為を通して絶対者、神、仏、ブラフマンといったこの世の創造者であり支配者であろうと人間が考える超越的存在に帰依(きえ)し、悟ろうとしたり、心の安らぎを得ようとする営みでした。

さて、「心の安らぎ」を得るためには、重要な問題が一つあります。それは「死の恐怖」です。この問題を考える前に、精神分析の世界で有名な岸田秀氏の「唯幻論」の考えを見てみたいと思います。フロイト理論に大きな影響を受けた岸田氏は、人間は本能の壊(こわ)れた動物であり、本能に代わる行動指針として「自我」をつくったのだと主張します。

自我は人間にとって必要不可欠なものであり、人格構造の根本でもあります。しかし、自我というものは、いわば生物学的生命から浮き上がっている人為的なつくり物、まことに珍奇な幻想であって、根拠のないものだと岸田氏は述べます。

つまり、人間は壊れた本能の代わりに「幻想」を必要とするというのが「唯幻論」の核心なのですね。これは、人間が言語とともに「分離の不安」を得たというのと基本的には同じことだと思います。また、ここで「法則」と「幻想」をイコールで結びつけて結論づけてしまうこともできないことはありません。でも、それでは本書がここで終わってしまいますし、まだまだ「法則」の正体についての謎はいろいろと残っているので、あえて「法則とは幻想である」と断言することはやめます。

動物には死の恐怖がない

さて、岸田氏は「死の恐怖」について非常に興味深いことを『一神教vs多神教』(新書館)という本で次のように語っています。

「動物の個体の生命というのは同種の動物の他の個体の生命とつながっているわけです。種全体の一部ですから。だから、動物には死の恐怖はないと思います」

わたしは「死」についての関心が深く、いつも「死」について考えているのですが、この発言にはハッとさせられました。たしかにそうだと思います。

象でも鹿でも犬でも何でもよいですが、動物は人間のように「分離の不安」を宿していません。あるのは、より大きな生物種に属しているという意識です。ですから、個体が死ぬときも、その生物種が存続すればそれでよしという部分があり、人間が「自分が死ぬのは、宇宙が終わるのと同じ」と感じるような死の恐怖は感じないのでしょう。そう、人間が「分離の不安」とともに得たものこそ「死の恐怖」だったのです。

そして、もう一つ得たものがあります。「自我」です。なんだか難しい感じがしますが、自我とは要するに「わたしは誰か」と考える心だと思ってください。岸田氏は続けて語ります。

「人間の自我というのは自分だけのもので、しかも他から切り離されていて孤立していて独自なものですから、人間の個体が死に、自我が滅びるということは、他の何ものによっても埋め合わせできない絶対的な喪失です。だから、人間だけに死の恐怖があるのだと思います」

本能だけで生きていれば、死ぬことを怖れずにすんだのに、本能が壊れて自我を持ってしまったがゆえに、人間の心には「死の恐怖」が棲みついてしまったわけですね。

さらに岸田氏は、「死の恐怖というのは耐え難い恐怖ですから、人間は、その恐怖を鎮めるために、実は自我というのは切り離されていないんだ、神につながっているんだ、という信仰を必要としているのです。それが宗教になったんだと思います」と語っています。

同書では、岸田氏の話を聞いた評論家の三浦雅士氏が、「人間は壊れた本能に代替するために自我を持つほかなかったとすれば、もうその段階ですでに、世界もまた何らかの意志を持つ主体として見えてくる、世界のさまざまなものが意志を持っているように見えてくるということになりますね」と発言しています。それに対して岸田氏は、それがアニミズムの世界であると答えています。樹木とか魚とか万物に霊魂が宿っているというアニミズムは、精神分析的にいえば「自己投影」だというのです。自我を持ったがゆえに、人間は世界をそのように見るというわけです。

森林の宗教と、砂漠の宗教

よく、多神教は「森林の宗教」であり、一神教は「砂漠の宗教」であるといわれます。これは、自我や「神」という観念の誕生にも大いに関係があるようです。森があって、水があって、木の実なんかがたくさん実っていれば、自然の恵みに対して、「水の神様」とか「木の神様」とか、とかく多神教の方向にいきやすいでしょう。日本の八百万の神々など、まさにその典型ですね。岸田氏はいいます。

「恵み深い自然の中に自我が溶け込むというのは、慈母の腕の中で眠るようなもので、まさに安心立命の境地、無我の境地です。しかし、敵対的な世界、何もない砂漠に自我を埋没させる気になれませんよね。それこそ、自己喪失の恐怖です。見渡すかぎり自分に恵みを与えてくれるものは見あたらないのですから、そこへ吸い込まれないように踏ん張って、自分が頼れるものは目に見えない天上にあるんだという考えに縋(すが)って自我を堅持していなければ、無に転落してしまいます」

このように自我は「神」の観念さえも生みました。哲学・芸術・宗教は同根であり、人間が言語を操って抽象的イメージを形成し、文明を築いていく代償として「分離の不安」、つまり「自我」を宿したことへのリアクションなのかもしれません。

世界にはわけのわからないことがたくさんあります。雨にしろ雷にしろ台風にしろ、さまざまな自然現象があります。自然現象以外にも、貧困とか病気とか死とか、人間の理解を超えた現象も多い。古代人たちがそれらのことをなんとか理解し、なんとか世界に関わっていこうとすることは当然でしょう。

きっと古代人たちは、そこに「法則」を見たのではないでしょうか。不可解な現象をなんとか理解し、納得し、心を安らかにするために「法則」を求め続けてきたのではないでしょうか。心に自我を宿した瞬間、「法則」を求めるスイッチが作動したのです。

「法則」のことを英語で「ロー(law)」といいます。ハーバード・ロースクールで知られるように、「法律」も「ロー」です。語源を見ると、「ロー」とは「置かれたもの」を意味します。

では、誰が置いたのか。当然ながら、西洋では創造主としての神だと考えられました。つまり、「法則」とか「法律」というものは自然の中に存在する秩序であり、自然そのものをつくった神によってそこに置かれたのであると考えられたわけです。

神によって置かれた法則を「発見」したのか。それとも、人間の自我が「創造」したのか、そこは大いに意見の分かれるところでしょうが、いずれにしても人間が「法則」を求める動物であることだけは間違いないと思います。

オランダの文化史家であるヨハン・ホイジンガは人間のことを「ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)」と呼びましたが、わたしは人間を「ホモ・ローデンス(法則を求めるヒト)」と呼びたいと思います。

本当に、人間って面白いですね。