平成心学塾 法則篇 自分の法則を見つけよう #009

法則の追求が科学を生んだ

天動説では法則が生まれない

わたしは、人間が月を見上げたことがきっかけとなって、「法則」というアイデアが生まれたのではないかと述べました。さらに月は「法則」にとって大きな意味を持っています。古代における月は二つの「法則」の境界線とされていたのです。

それは「天動説」と関係があります。わたしたちの住む地球を不動の星として宇宙の中心に据え、その周りを星たちが回るというのが天動説の基本構造ですね。古代ギリシャに発祥し、近代のはじめまで受け継がれてきたことはご存知かと思います。

では、天動説のもう一つ重要な特徴をご存知でしょうか。それは、月を境にして、宇宙をまったく異なる二つの領域に分けていたということです。二つの領域は、「月から上の世界」「月から下の世界」と呼ばれました。それぞれ、天上界、地上界のことです。

二つの領域では、世界を構成する元素に共通性が見られませんでした。天上界はすべてエーテルという元素でできているけれども、わたしたちが住む地上界においては、火、空気、水、土の四元素の組み合わせによって、さまざまな物質がつくられていると考えられていました。

月を境とした天上界と地上界では、運動のあり方も別々で、共通性はありませんでした。天上界の星は自然の営みである等速円運動をするのみですが、地上界では落下と上昇の直線運動が自然に起きました。石が落ちたり、炎や煙があがる現象ですね。そして、石を投げ上げたりして、物体に外から作用が加わると、自然運動からはずれた強制運動が地上界では生じます。でも、天上界ではこうした現象は起こりません。

天動説では、世界を構成する元素から、運動のあり方にいたるまで、宇宙は二元論的に別れてしまいます。その次元を分かつ境界線こそ月だったのです。このような天動説の宇宙観では、「法則」というものは生まれません。物理学者の小山慶太氏は、著書『科学史年表』のプロローグ「自然科学誕生前史」で次のように述べています。

「自然科学の要件は、なによりもまず、ひとえに法則の普遍性の高さである。ところが、宇宙を異質な二つの世界に区分けしてしまうと、はじめから、宇宙全体で普遍的に成り立つ法則を導き出そうとする姿勢そのものが育たないことになる。この意味で、天上界は天上界、地上界は地上界という認識に基づく宇宙観は、そもそも、科学が芽生える土壌として不向きであったわけである。つまり、地球が静止しているとする考え方の正否を超えて、天動説は科学の要件を備えていなかったことになる」

このような天動説の考え方は、古代ギリシャで生まれました。古代ギリシャでは、科学的な「法則」は存在しませんでしたが、それに代わる哲学的な「法則」が次々に生まれていきました。「万物は水である」といったタレスや「万物は流転する」といったヘラクレイトスなども法則ハンターの匂いがしますが、ここではピタゴラス、プラトン、アリストテレスの考えについて、ざっと見てみましょう。

ピタゴラスと秘密教団

「黄金比」のところでも少し触れたピタゴラスは、紀元前六世紀の哲学者です。「ピタゴラスの定理」があまりにも有名なせいか、彼の名は数学と結びつけて語られることがほとんどです。しかし、彼の哲学は宇宙と人間の全体におよぶ神秘的な体系でした。つまり、一貫してマクロコスモスとミクロコスモスとの照応関係を追究した人だったのです。彼は密儀的な教団を組織して、最後は秘密結社のような形でその哲学を伝承していきました。

ピタゴラス派においては、宇宙の秩序は何よりも「数」に求められました。大いなる「知」にいたるためには、「マテマタ」と呼ばれる四つの学問を修めなければならないとされました。その四つの学とは、「数の学」「形の学」「星の学」「調和の学」です。

ピタゴラスは、数にはそれぞれ宇宙的な意味があるとしました。つまり、「一」とは始原、全体、完全である。「二」とは、対立、闘争、展開である。「三」とは、調和、美、秩序である。このように、この宇宙は数の原理に従って美しい秩序を保っていると考えたのです。

「マテマタ」の四つの学は、その後、四つの学問に展開されていきました。すなわち、「数の学」は算術に、「形の学」は幾何学に、「星の学」は天文学に、そして「調和の学」は音楽にです。この四つの学問は、ヨーロッパ中世に、大学における学問の基本とされた「自由七科」のうちの四科となっています。「マテマタ」自体も「マスマティックス」、つまり数学の語源となりました。

四つの学とは、総合的に「法則」というものを抽出する方法だったようです。現在では、音楽などは「法則」とは無関係と思われていますが、ピタゴラス派においては音楽もまた宇宙の「法則」を明らかにするものでした。

彼らは、純粋な「数」としても、幾何学的な「形」としても、天文学の「星」としても、そして音楽のハーモニー、つまり「調和」としても、それぞれに宇宙の数における秩序が現れていると確信していたのです。

仮の世界と、真の世界

プラトンの世界観

そのピタゴラス派の影響を受けているとされるのが、もっとも有名な哲学者の一人であるプラトンです。彼は、ピタゴラス派の幾何学者かつ天文学者のアルキュタスなどから学び、数学への関心を深めたといいます。それとともに、ピタゴラス派の「霊魂不滅説」なども学んだとされています。

プラトンの宇宙のとらえ方は独特です。その根本思想は、この現実界は仮の世界であって、イデアの世界という真の世界が別に存在するというものです。さらに、世界は、その根元における「一者」を頂点として成り立っている。「一者」とは、もっとも単純なものであり、あらゆるものがそこから出現していく多様性と統一性であり、「善」であると同時に「完全」でもあるというのです。

「一者」は、全宇宙に偏在しており、自然の事物の一つひとつの中には必ず「一者」が隠されている。人間は、仮の住まいである肉体を去って、魂の目によって宇宙を見るとき、その中に真の秩序としての「コスモス」を見る。このコスモスは人間の魂の中の内的宇宙でもあり、ここにおいてマクロコスモスとミクロコスモスは合一する。

人間の最終目的とは、「一者」への合一に他ならない。それを果たすのは、魂が肉体を去るという「解脱」であり、それとともに魂の「帰還」の旅である。人間は、本来の魂の故郷であるイデア界に「帰還」すべき存在なのである。

このような一見して宗教的とも思えるプラトンの宇宙観、霊魂観は、その後もルネサンスの新プラトン派の人々をはじめ、多くの哲学者たちに多大な影響を与え、その影響は現在にいたるまで続いています。

さて、プラトンの思想のキーワードの一つは「一者」ですが、これは「神」の別名であることがおわかりいただけると思います。プラトンの求めた宇宙の「法則」には「神」が関わっていたのです。そして、このことは彼の弟子であったアリストテレスにおいても同様でした。

ルネサンスの宗教的活力源

アリストテレスといえば、観念的な師のプラトンに比べ、非常に現実的なイメージがあります。ラファエロの「アテナイの学堂」という有名な絵の中央には、上を指さすプラトンと下を指さすアリストテレスが描かれています。天上的なプラトンと地上的なアリストテレスの思想を表現した見事な芸術作品です。

この絵の強い印象もあり、またアリストテレス自身が「科学の父」などと呼ばれていることもあり、アリストテレスの求めた「法則」には「神」など無縁であると思いがちです。

でも、彼の宇宙にも「神」はいたのです。

アリストテレスは、この宇宙に起こるすべての変化や運動の究極的原因であり、しかもそれ自体は他から動かされることなく、他を変化させる存在を前提として、壮大な自然学を構築しました。そして、その存在に「第一動者」という名をつけましたが、「これはまた神でもある」とアリストテレス自身が明言しているのです。

プラトンの「一者」も、アリストテレスの「第一動者」もともに「神」をさしていたのです。ところで、プラトンの哲学はルネサンスにおいて熱狂的な支持を受けました。その最大の立役者は、15世紀のフィレンツェに生まれたマルシリオ・フィチーノという人です。彼は、すべての宗教、すべての時代に共通な「普遍的自然宗教」というべきものを考え、その重要性を力説しました。

ある意味で、フィチーノも哲学的あるいは宗教的「法則」を追求した人だったのです。西洋の二大聖人であるソクラテスとイエス・キリストのイメージを結びつけたのもフィチーノです。彼は、いわゆる新プラトン主義を代表する人物でした。自ら、プラトン・アカデミーの長を務め、プラトンやプロティノスらの著作の翻訳者であり、『プラトン神学』の著者でもありました。フィチーノたちは、プラトン主義や新プラトン主義をキリスト教に統合することに努めました。

フィチーノは、プラトンを過去のさまざまな聖人や賢人と結びつけました。その結果、オルフェウスとヘルメス・トリスメギストスとモーセの弟子である「神のごときプラトン」がルネサンスの宗教的活力の源になったのです。

このことをカトリックおよびプロテスタントの正統なキリスト教徒たちは好ましく思っていませんでした。彼らは、プラトン主義をキリスト教化するならばよいとしても、逆にキリスト教をプラトン主義化してゆく風潮に警告を発します。フィチーノらによるプラトン神学が、ルネサンスにおける魔術思想の誕生と流行を呼び起こしたと考えたのです。実際、占星術や錬金術などのオカルティズムが大流行しました。

さてフィチーノは、プラトンにおける「一者」の存在をキリスト教の「神」の創造と重ね合わせようとしました。そこで彼は、「一者」をそのまま「神」とイコールとせず、あくまで創造主である「神」の最高の被造物ととらえました。おそらく、「一者」を「神」とイコールであると認めてしまえば、正統なキリスト教徒たちが黙っていない。それどころか、フィチーノの生命にも危険がおよぶと思ったのではないでしょうか。

そして、フィチーノは、新プラトン主義的に「一者」と天地創造とを読み重ねるとき、その「一者」とは「光」であり、より具体的には「太陽」であると示したのです。その太陽こそは、何にもまして、熱や光や愛を激しく「流出」する存在です。ここに、太陽は「神」そのものではなくても、「神」にもっとも近い神聖な存在となったのです。

宇宙の眼、宇宙の心、宇宙の支配者

そのフィチーノの「太陽論」に影響を受けたのが、1473年にポーランドで生まれたニコラウス・コペルニクスでした。コペルニクスは、学生時代にフィチーノの「太陽論」に接しましたが、これこそ、宇宙の不動の中心とは地球ではなくて太陽であるという「地動説」の考えに達した最初のきっかけでした。

コペルニクスの『天球の回転について』には、次のように書かれています。

「宇宙の中心に太陽が静止している。この美しい殿堂のなかで、この光り輝くものを、あらゆる場所に光を送ることにできる中心という場所以外のどこに置くことができよう。これを宇宙の眼と呼び、宇宙の心と呼び、宇宙の支配者と呼ぶ人びとがいるが、それは当然である」

このような太陽観を持っていれば、宇宙における太陽の位置は中心しかありえません。新プラトン主義では世界を司る宇宙全体の霊を「世界霊」と呼びましたが、まさに太陽こそは目に見える世界霊であったのです。

コペルニクスは、もう一つ、新プラトン主義の影響を受けました。それは、宇宙の「数的秩序」という考え方でした。そう、新プラトン主義の中に流れていたピタゴラス派の思想です。コペルニクスはなんといっても、二世紀にプトレマイオスが大成させた「天動説」を約十二世紀後に打ち破った人物ですが、彼はしっかりプトレマイオスの研究をしていました。プトレマイオスの主著『アルマゲスト』における「天動説」は非常に精度の高いものではあるが、現象を正確に記述しようとするあまり、技巧的で、小手先の数学的な辻褄(つじつま)合わせではないかという疑問を、コペルニクスは抱いたようです。あれほど複雑な数学的技巧をあれこれと凝らさなければならないほど、宇宙は奇妙な姿をしているのだろうか。宇宙は、もっとシンプルで大らかな数学的合理性のもとにあるのではないか。コペルニクスは、新プラトン主義の「数的秩序」に触れて、そう考えたのでした。ルネサンスに起こったフィチーノらの新プラトン主義が、コペルニクスに「地動説」の大いなるヒントを与えたのでした。

ケプラーの三つの法則

そのコペルニクスの熱狂的な支持者の一人が、1571年にドイツに生まれたヨハネス・ケプラーです。彼は、熱狂的なコペルニクス主義者でした。その彼がグラーツで数学の講義をしているとき、突如として霊感を得ました。「ケプラーの第0法則」として知られるものです。

正多面体というものをご存知かと思います。正4面体、正6面体、正8面体、正12面体、正20面体の五種類があります。プラトンの時代から、正多面体は5種類に限られるとされており、それゆえ5種類の多面体は「プラトン立体」とも呼ばれます。ところで、惑星の数は、水星、金星、地球、火星、木星、土星の六個であるというのがコペルニクス説でした。この一見して無関係な「5」と「6」という数比に、ケプラーは神の合理性を見たといいます。しかし、科学的には「法則」とは呼べないものでした。

ルター派プロテスタントであったケプラーは、新教徒狩りでグラーツを追われ、1600年にルードルフ二世が治めるプラハに移ります。そこの観測台で火星についてのデータを入手したケプラーは、それを基礎にして、有名なケプラーの「第一法則」および、「第二法則」を提案しました。ルードルフ二世の死去により、プラハからリンツに移ったケプラーは、一六一九年に「第三法則」を発表します。ここに、ケプラーの三つの「法則」が揃います。その内容は次のとおりです。

「第一法則
惑星の軌道は、太陽を一焦点とする楕円である」
「第二法則
惑星と太陽を結ぶ動径が単位時間内に掃く面積は一定である」
「第三法則
惑星と太陽の平均距離の三乗と公転周期の二乗との比は、
どの惑星でも一定となる」
惑星の運動に関する三つの「法則」の提案者として、ケプラーは「最初の科学的天文学者」と呼ばれています。彼の示した「法則」は現代の科学の立場からも認められているのです。また、ケプラーの「第三法則」は「調和法則」とも呼ばれます。『宇宙の調和』という著書で発表したからです。この本は、ピタゴラスからプラトンの伝統に沿って、宇宙の数的秩序を強調し、キリスト教における神の創造論と結びつけたものでした。

コペルニクスと同じく、新プラトン主義に影響されていたケプラーは、星が人間の霊魂のあり方を支配するという占星術を信じていましたし、「数」を神が宇宙に隠し込んだサインであると考えていました。彼の「第0法則」の「5対6」や「第三法則」の「3対2」といった数比がそれを示しています。そうして彼は、天文学、算術、幾何学、そして音楽という大学の「四科」を一挙に結びつけようとしました。

さらには、フィチーノやコペルニクスと同じく、太陽を宇宙の中心であるととらえ、惑星は太陽から「流出」される運動力によって動かされていると考えました。天動説の世界では、天体はいかなるものも、それ自体の本性によって等速円運動を行なうものとされていました。「月より上の世界」では、他者から力を受けて、強制的に運動が起こるということはありえませんでした。「月より下の世界」でのみ、そのような強制的な運動が起こるとされていたのです。

ケプラーが考えた「動かす霊」としての太陽が、この伝統的な宇宙像を覆しました。面白いことに、月にまつわる迷信を太陽の光が照らし出したのです。そして、ケプラーの「動かす太陽」というアイデアは、天体同士のあいだに力の働きを考えるという画期的なものでした。このアイデアが、結果的に、ニュートンが天体間の引力としての「万有引力」を発見する大きなヒントになったといわれています。

そして、本格的にニュートンの登場を用意した人物こそ、ガリレオ・ガリレイでした。

ガリレオが打ち砕いた宇宙観

1564年にイタリアに生まれたガリレオは、コペルニクスの地動説を支持しました。そして、彼は望遠鏡の開発により、月面の調査を行ないました。その結果、「月が実は神聖な天上界の一員ではなく、地球と同じ岩石だらけのもう一つの地球にすぎなかった」ことを発見したのです。

ガリレオは、ケプラーと同様に、古代ギリシャ以来の「月より上の世界」と「月より下の世界」を二つの領域に分けるという宇宙観を打ち砕きました。そこから二つの領域には同じ「法則」が働いているという結論までは、もうすぐでした。そのポイントは、物体の落下現象にあったのです。ガリレオは、落下現象に初めて実験のメスを入れました。

ここで、実験についてひと言。科学とは、何よりも「法則」を発見するためのものです。そして、その科学の研究方法が二つあります。一つは、数学による理論の構築です。これは、古来から存在しました。もう一つが、実験です。実験とは「法則」を抽出する方法に他なりません。16世紀以前は、実験によって自然を検証するという姿勢が定着していませんでした。よって、実験からもたらされる実証性や普遍性についての認識が芽生えませんでした。ゆえに、16世紀以前には、科学は存在しなかったのです。実験の有用性が注目されるまでにかかった時間の長さには驚きますが、逆にいえば、17世紀以降の爆発的な科学の発展の原動力の秘密も、実験の普及にあったのです。

そして、その最大の功労者がガリレオでした。彼は、滑らかな斜面に金属球を転がす工夫をすることによって、「物体の落下距離は落下時間の二乗に比例する」という定量的な関数関係を導き出しました。

落下速度をゆるやかにし、時間を測定しやすくするために、斜面を利用しました。また、摩擦や空気抵抗などの要因をできるだけ取り除くために、金属球と滑らかな斜面を組み合わせました。こんな工夫など、つまらないことのように思われるかもしれません。しかし、このガリレオの工夫により、人類史上初めて、正しい「落体の法則」が導き出されたのです。

小山慶太氏は次のように述べています。

「アリストテレス流にただ、自然を丸ごと、あるがままに眺めていたのでは、いつまでたっても、法則はその姿を現しはしない。ガリレオのように、そこに積極的に介入する強引さがあって初めて、自然は科学となりえたのである。一部の例外はあろうが、おおむね17世紀に入るまで、自然に対するこうした積極的な姿勢は生まれてこなかった」

自然に対するガリレオの積極性が、実験という新しい方法論を生んだのです。そして、その有用性が広く人々に知らされたことによって、科学は発展し、それ以後、数々の「法則」たちが自然から抽出されていったのです。

いわゆる「科学革命」を用意して、「法則」の時代の扉を開いた人物こそガリレオでした。

このように、天動説から地動説へという大いなるパラダイム・シフトによって、「科学革命」が起こりました。ついに、科学が誕生したのです。そして、17世紀からは多くの「法則」たちが歴史に登場してきます。

ピタゴラスからプラトン、フィチーノ、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ……偉大な「法則ハンター」たちのリレーによって、人類はいよいよ「法則の時代」を迎えたのです。そして、その次には人類史上最大の「法則王」としてのニュートンが出番を待っていました。