葬式は必要!
いま、日本人の冠婚葬祭、特に葬儀を取り巻く環境が激変しています。
家族葬、密葬から、現在は直葬が非常に増えてきています。その背景には様々な要因があるのでしょうが、1つには、日本社会全体が「無縁社会」になってきているということだと思います。この「無縁社会」は、2010年1月31日にNHKスペシャルで放映されて大変な反響を呼びました。1年間に3万2000人もの人たちが無縁死しているそうです。
もう1つは、島田裕巳氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)という本が非常に売れました。「無縁社会」とともに、このような「葬式不要」の風潮も当時はありました。
しかしながら、葬式が要らないはずがありません!
葬儀は人類が長い時間をかけて大切に守ってきた精神文化です。
「人類の文化は墓場からはじまった」という説があります。じつに7万年も前、旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、ときには、そこに花を捧げていました。死者を特定の場所に葬るという行為は、その死を何らかの意味で記念することに他なりません。しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。ネアンデルタール人が最初に死者に花をたむけた瞬間、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な2つの価値が生み出されたのです。
ネアンデルタール人たちに何が起きたのでしょうか。
アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』のヒトザルたちが遭遇したようなモノリスのようなものが目の前に現われたのでしょうか。何が起こったにせよ、そうした行動を彼らに実現させた想念こそ、原初の宗教を誕生に導いた原動力だったのです。このことを別の言葉で表現するなら、人類は埋葬という行為によって文化を生み、人間性を発見したのです。
人間を定義する考え方として「ホモ・サピエンス」(賢いヒト)や「ホモ・ファーベル」(工作するヒト)などが有名です。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶヒト)、ルーマニアの宗教学者ミルチア・エリアーデは「ホモ・レリギオースス」(宗教的ヒト)を提唱しました。同様の言葉に「ホモ・サケル」(聖なるヒト)もあります。
しかし、人間とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)だと、わたしは思っています。ネアンデルタール人が最初の埋葬をした瞬間、サルが人になったとさえ思っています。
『葬式は、要らない』などという本が世に蔓延しては倫理的にも良くありません。そこで、わたしはカウンターパンチというかアンサーブックとして、『葬式は必要!』(双葉新書)を書き上げたわけです。けっして会社のためでも業界のためでもなく、日本人のために書きました。
あらゆる生命体は必ず死にます。もちろん人間も必ず死にます。
親しい人や愛する人が亡くなることは悲しいことです。でも、決して不幸なことではありません。残された者は、死を現実として受け止め、残された者同士で、新しい人間関係をつくっていかなければなりません。葬式は故人の人となりを確認すると同時に、そのことに気がつく場になりえます。葬式は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現であり、最大の自己表現の場ではないでしょうか。「葬式をしない」という選択は、その意味で自分を表現していないことになります。
「死んだときのことを口にするなど縁起でもない」と、忌み嫌う人もいます。果たしてそうでしょうか。わたしは、葬式を考えることは、いかに今を生きるかを考えることだと思っています。ぜひ、みなさんもご自分の葬義をイメージしてみてください。
そこで、友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像してください。そして、その弔辞の内容を具体的に想像してください。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。
葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像してください。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる・・・・・。
このように、自分の葬儀の場面というのは「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そんな理想の葬式を実現するためには、残りの人生において、あなたはそのように生きざるをえなくなるのです。
つまり、理想の葬式のイメージが「現在の生」にフィードバックしてくるのです。
ちなみに「無縁社会」や「葬式は、要らない」といった妄言は、2011年3月11日に発生した東日本大震災が粉々に砕き、大津波が流し去ってしまった観があります。
遺体も見つからない状況下の被災地で、多くの方々は「普通に葬式をあげられることは、どんなに幸せなことか」と痛感したのです。やはり、葬式は人間の尊厳に関わる厳粛な儀式であり、遺族の心のバランスを保つために必要な文化装置なのです。
なお、この「葬式は必要!」という言葉は、もちろん同名タイトルの拙著『葬式は必要!』で打ち出した言葉です。また、島田氏にお会いして葬式談義を繰り広げたいです。