儀式なくして人生なし
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、「無縁社会」および「葬式は、要らない」といった風潮を変えました。
大津波の発生後、しばらく遺体は発見されず、多くの行方不明者がいました。火葬場も壊れて通常の葬儀をあげることができず、現地では土葬が行われました。海の近くにあった墓も津波の濁流に流されました。葬儀ができない、遺体がない、墓がない、遺品がない、そして、気持ちのやり場がない・・・・・・まさに「ない、ない」尽くしの状況は、災害のダメージがいかに甚大であり、かろうじて助かった被災者の方々の心にも大きなダメージが残されたことを示していました。現地では毎日、「人間の尊厳」が問われました。亡くなられた犠牲者の尊厳と、生き残った被災者の尊厳がともに問われ続けたのです。あのとき、葬儀という営みが「人間の尊厳」に直結していることを再認識しました。まさに、大地震は「無縁社会」を崩壊させ、大津波は「葬式は、要らない」という妄言を流し去ったのです。
2016年、わたしは『儀式論』(弘文堂)を上梓しました。合計600ページで函入りの大著です。結婚式にしろ、葬儀にしろ、儀式の意味というものが軽くなっていく現代日本において、かなりの悲壮感をもって書きました。儀式は、地域や民族や国家や宗教を超えて、あらゆる人類が、あらゆる時代において行ってきた文化です。しかし、いま、日本では冠婚葬祭を中心に儀式が軽んじられています。そして、日本という国がドロドロに溶けだしている感があります。
四書五経の『大学』には八条目という思想があります。
「格物 致知 誠意 正心 修身 斉家 治国 平天下」ですが、自己を修めて人として自立した者同士が結婚し、子供を授かり家庭を築きます。国が治まり世界が平和になるかどうかは、「人生を修める」という姿勢にかかっているのです。
かつての日本は、孔子の説いた「礼」を重んじる国でした。しかし、いまの日本人は「礼」を忘れつつあるばかりか、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。
自由気ままに結婚し、子育てもいい加減にやり過ごした挙句、「価値観」の相違を理由に離婚してしまう。そんな日本人が増えているように思えてなりません。
日本人は、結婚式も挙げなくなっています。
「みんなのウェディング」の「ナシ婚」に関する調査2015(有効回答数316)によれば、14年の婚姻件数64万9千組に対し、結婚式件数35万組というデータから、入籍者のおよそ半数が結婚式をしていないことを予想しています。これは、冠婚葬祭に代表される儀式の意味を子どもに教えることが出来なかった結果でしょう。「この親」にして「この子」ありとでも言えばいいでしょうか。「荒れる成人式」が社会問題となって久しいです。毎年のように検挙される「若者ならぬ馬鹿者」が後を絶ちません。成人式で「あれこれやらかす輩」が登場するのは90年代半ば以降、いまの40歳以降の世代です。
結婚式も挙げず、常軌を逸した成人たちを持つ親たちを最後に待っているのは何か。
それは、「直葬」という名の遺体焼却です。
いまや、葬儀さえもがインターネットで手軽に依頼できるという時代となりました。家族以外の参列を拒否する「家族葬」という葬儀形態がかなり普及しています。
この状況から、日本人のモラル・バリアは既に葬儀にはなくなりつつあることは言を待ちません。家族葬であっても宗教者が不在の無宗教が増加しています。
また、通夜も告別式も行わずに火葬場に直行する「直葬」も都市部を中心に広がっています。さらには、遺骨を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで登場しました。
しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は最も「人間尊重」に反します。
とはいえ、日本人の儀式軽視は加速する一方です。「儀式ほど大切なものはない」と確信しているわたしですが、あえて儀式必要論という立場ではなく、「儀式など本当はなくてもいいのではないか」という疑問を抱きながら、儀式について考えようと思い、その立場で『儀式論』を書き進めました。その結果、やはり、わたしは儀式の重要性を改めて思い知ったのです。
わたしは、人間は神話と儀式を必要としていると考えます。
社会と人生が合理性のみになったら、人間の心は悲鳴を上げてしまうでしょう。
結婚式も葬儀も、人類の普遍的文化です。多くの人間が経験する結婚という慶事には結婚式、すべての人間に訪れる死亡という弔事には葬儀という儀式によって、喜怒哀楽の感情を周囲の人々と分かち合います。このような習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われているのです。すごいことですね。
社会学者エミール・デュルケムは、『宗教生活の原初形態』で紹介した本の中で「さまざまな時限を区分して、初めて時間なるものを考察してみることができる」と述べています。これにならい、「儀式を行うことによって、人間は初めて人生を認識できる」と言えないでしょうか。
儀式とは世界における時間の初期設定であり、時間を区切ることです。それは時間を肯定することであり、ひいては人生を肯定することなのです。さまざまな儀式がなければ、人間は時間も人生も認識することはできません。まさに、「儀式なくして人生なし」です。
儀式とは人類の行為の中で最古のものであり、哲学者ウィトゲンシュタインは「人間は儀式的動物である」との言葉を残しています。わたしは、儀式を行うことは人類の本能ではないかと考えます。本能であるならば、人類は未来永劫にわたって結婚式や葬儀を行うことでしょう。
サンレー創立50周年記念に製作した「『天下布礼日記』BLOGシャツ」の背面には「NO CEREMONY NO LIFE」と英文でプリントされています。もちろん、「儀式なくして人生なし」という意味であります。