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幼老院

 「危機の時代」と言われて久しいですが、その「危機」を大きくとらえれば、「環境問題」と「世界平和」の2つの危機であると言えるでしょう。
どちらも人類の生存の危機を含んでいます。そしてそれは、人類のみならず、他の生命種までも絶滅に巻き込んでしまう深くて大きな危機だと言えます。
宗教哲学者の鎌田東二氏は、著書『翁童論』(新曜社)などを通じて、その危機をさらに具体的に子どもと老人の生命と文化の危機、すなわち翁童存在の危機ととらえ、問題提起をしてきました。その問題とは、第1に「子どもは単に子どもなのか」という問いです。その答えは、子どもは単に子どもであるばかりではなく、その内に老人を内包しているというものでした。
鎌田氏は、その答えを神話や民族儀礼などの伝承文化を考察するところから引き出そうとしました。原始社会から近代に至るまで、いや、近代社会にあっても沖縄やアイヌや世界各地の民族社会では、子どもはおじいさんやおばあさんの生まれ変わりと信じられてきました。子どもは祖父母の生まれ変わりという観念は、古い民族社会で根強く残されてきました。
沖縄には「ファーカンダ」という方言があります。
「孫」と「祖父母」をセットでとらえる呼称です。これは、親子、兄弟という密接な人間関係を表わすものと同様、子どもとお年寄りの密接度の重要性を唱えているものと考えられます。超高齢化社会に向けて、増え続けるお年寄りたち。逆に減り続け、街から姿が消えつつある子どもたち。その両者を「ファーカンダ」という言葉がつなげているのです。「ファーカンダ」は「ファー(葉)」と「カンダ(蔓)」の合成語とされますが、それは、葉と蔓との関係のように、切っても切れない生命の連続性を示していると言えるでしょう。
わたしは、1992年に上梓した『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)において「幼老院」なるプランを提唱しました。それは、老人ホームあるいは養老院のような「老人施設」と幼稚園あるいは保育園のような「児童施設」を同じ施設内か同じ敷地内につくるプランでした。老人と子どもは相互補完的な関係にあるとされますが、おじいちゃん子やおばあちゃん子が多いように、もともと老人と子どもは「セックス」や「労働」といった生産的行為から自由な遊戯的存在同士だから相性がよいのです。
老人と子どもがドッキングすれば、高齢者は老人性痴呆症の進行を早める高齢者だけの集団生活よりも張りが出てくるし、生きがいも持つことができるでしょう。
また子どもにしても、仕事や社交に忙しい父親や母親が教えてくれないさまざまな知識や人生の知恵を老人から学ぶことができるのではないかと訴えたわけです。
今日、児童施設と老人施設を合体させようとする動きが各所に見られます。
それはとても望ましい試みであり、わが年来の主張とも一致します。
しかし、そのハード面の整備だけでは足りません。ソフト面の開発と活用が緊急の課題となっていると思います。そうでなければ、生命と文化の連続性と活力が生まれてこないのです。
例えば、高齢者が折り紙を子どもたちとともに折ることや、縄のない方、昔の遊戯、昔話、体験談などを、子どもたちに興味を持たせるような工夫と取り合わせで推進していくこと。
老人の知恵と生きがいを役割と生きがいをうまく演出し、実現することによって、子どもたちに「人は老いるほど豊かになる」ということを実感させるのです。子どもと老人の波長の共鳴度を高めることによって、社会にはハーモニーがもたらされるのです。「幼老院」というキーワードが象徴する世代間の文化伝承のお手伝いができるのは、わたしたち冠婚葬祭業を置いては他にないと確信しています。

一条真也
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