永遠葬
日本仏教の特徴の1つに、年忌法要があります。初七日から百ヶ日の忌日法要、一周忌から五十回忌までの年忌法要です。五十回忌で「弔い上げ」を行った場合、それで供養が終わりというわけではありません。故人が死後50年も経過すれば、配偶者や子どもたちも生存している可能性は低いと言えます。そこで、死後50年経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、人間に代わってホトケが供養してくれるといいます。つまり、「弔い上げ」を境に、供養する主体が人間から仏に移るわけで、供養そのものは永遠に続くわけです。まさに、永遠葬です。
有限の存在である「人」は無限のエネルギーとしての「仏」に転換されるのです。これが「成仏」です。あとは「エネルギー保存の法則」に従って、永遠に存在し続けるのです。
つまり、人は葬儀によって永遠に生きられるのです。
葬儀とは、「死」のセレモニーではなく「不死」のセレモニーなのです。
ちなみに、「儀式とは永遠性の獲得である」という言葉があります。この名言を残したのは、「20世紀最高の宗教学者」と呼ばれたミルチア・エリアーデです。エリアーデは、著書『永遠回帰の神話』堀一郎訳(未来社)において、「永遠」の概念は「時間の再生」と深く関わっていると述べています。古代人たちは「時間の再生」という概念をどうやって得たのでしょうか? エリアーデは、月信仰が「時間の再生」に気づかせたとして、以下のように述べます。
「単純文化人にとって、時間の再生は連続して成就される――すなわち『年』の合間のうちにもまた――ということは、古代的な、そして普遍的な月に関する信仰から証明される。月は死すべき被造物の最初のものであるが、また再生する最初のものでもある。私は別の論文で、死と復活、豊饒と再生、加入式等々に関する最初のまとまりのある教説が組織づけられるのに、月の神話が重要であることを論じた。ここでは月が事実、時間を『はかる』のに役立ち、月の面が――太陽年の久しい以前に、しかもさらに具体的に――時間の単位(月)をあらわすのであるから、月は同時に『永遠の回帰』をあらわすのだ、ということを想起すれば十分である」
月は「永遠回帰」のシンボルなのです。この月の思想は、1991年に上梓した、『ロマンティック・デス~月と死のセレモニー』(国書刊行会)の内容に多大な影響を与えました。
いま、「0葬」というものが話題になっています。
通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるのが「0葬」です。
わたしは、葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じています。故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれます。もし葬儀が行われなければ、配偶者や子ども、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きるでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。
「0葬」という考え方は、宗教学者の島田裕巳氏が書いた『0葬』(集英社)によって広まりました。大ベストセラー『永遠の0』を意識するわけではありませんが、相手が「0」ならば、わたしは「永遠」で勝負したい。そこで、わたしは『永遠葬』(現代書林)を上梓しました。もともと、「0」とは古代インドで生まれた概念です。古代インドでは「∞」という概念も生み出しました。この「∞」こそは「無限」であり「永遠」です。
紀元前400年から西暦200年頃にかけてのインド数学では、厖大な数の概念を扱っていたジャイナ教の学者たちが早くから無限に関心を持ちました。
無限には、一方向の無限、二方向の無限、平面の無限、あらゆる方向の無限、永遠に無限の5種類があるとしました。これにより、ジャイナ教徒の数学者は現在でいうところの集合論や超限数の概念を研究していたのです。
わたしは「0」というのは「無」のことであり、「永遠の0」は「空」を意味すると考えています。そして、わたしは「永遠」を考えるときには数学上の概念だけでとらえるのは間違っていると思いました。「永遠」は神話あるいは儀式という発想からとらえる必要があるのではないでしょうか。人類にとって、神話も儀式も不可欠であることは言うまでもありません。
サンレーグループでは、日本人の「海」「山」「星」「月」という他界観に対応した「海洋葬」「樹木葬」「天空葬」「月面葬」の四大葬送イノベーションを提唱しています。
海は永遠であり、山は永遠であり、星は永遠であり、月は永遠です。
すなわち、四大葬送イノベーションとは四大「永遠葬」でもあるのです。