ホモ・フューネラル
人間を定義する考え方として「ホモ・サピエンス」(賢い人間)や「ホモ・ファーベル」(作る人間)などが有名です。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人間)、ルーマニアの宗教学者ミルチア・エリアーデは「ホモ・レリギオースス」(宗教的人間)を提唱しました。
しかし私は、人間の本質とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)だと確信します。すでに10万年以上も前に旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、時にはそこに花を捧げていたといいます。死者を特定の場所に葬る行為は、その死を何らかの意味で記念することに他なりません。しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。つまり死はこの時点で、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な二つの価値を生み出したのです。
ネアンデルタール人に何が起きたのか。「2001年宇宙の旅」のヒトザルたちが遭遇したようなモノリスが眼前に現れたのでしょうか。何が起こったにせよ、そうした行動を実現させた想念こそ、原初の宗教を誕生に導いた原動力でした。そして、王の葬礼から相撲や競馬やオリンピックといったさまざまな遊びが生まれた史実からもわかるように、遊びもまた、葬儀から誕生したものであると言えます。人類は埋葬という行為によって文化を生み、人間性を発見したわけです。
ヒトと人間は違います。ヒトは生物学上の種にすぎませんが、人間は社会的存在です。ある意味で、ヒトはその生涯を終え、自らの葬儀を多くの他人に弔ってもらうことによって初めて人間となることができるのかもしれません。葬儀とは、人間の存在理由に関わる重大な行為なのです。