一条真也の人生の修め方 『日本経済新聞電子版』連載 35

豊かな人間関係こそ最高の宝物

 米大リーグ・マーリンズのイチロー外野手は、6月15日(日本時間16日)、サンディエゴで行われたパドレス戦で2安打をマークし、ピート・ローズが持つメジャー記録の4256安打を日米通算で上回りました。わたしは、偉業達成後の記者会見で彼が語った言葉にとても感銘を受けました。

 記者会見で、イチロー選手は、「子どもの頃から人に笑われてきたことを常に達成しているという自負がある」と明かしました。小学生の頃、プロ野球選手になる夢を抱き、毎日コツコツ練習を重ねてきましたが、周囲からは「あいつ、プロ野球選手にでもなるのか」と笑われたそうです。それでも愛知・愛工大名電高校で甲子園に出場し、1991年にドラフト4位でオリックスから指名を受けると、94年にプロ野球史上初のシーズン200安打以上を達成するなど一気にスターの座に駆け上がりました。
 2001年に大リーグへ移った時は「首位打者になってみたい」と目標を掲げましたが、周りで真に受ける人は誰もおらず、彼は冷笑を受けました。しかし、そこからメジャー1年目で首位打者を獲得。04年には262安打を放ちシーズン最多安打を84年ぶりに更新と、活躍を続けてきたのです。
 イチロー選手は、大リーグだけで通算4256安打を超える可能性について問われました。すると彼は、「常に人に笑われてきた悔しい歴史が、僕の中にあるので。これからもそれをクリアしていきたいという思いはもちろん、あります」と語りました。それを聞いて、わたしは感動しました。「50歳で現役」という高いハードルにも挑むことを公言しているイチロー選手ですが、もう、その言葉を笑う者はいません。
 「つねに人から笑われる」ような高い目標を掲げ続け、それを次々に達成していく奇跡の人生。彼の生き様には多くの人が勇気を与えられるでしょう。わたしも、「冠婚葬祭屋が本を書いてどうする?」「冠婚葬祭屋が孔子を語ってどうする?」「冠婚葬祭屋にドラッカー理論が実践できるのか?」「大学教授などになれるはずがない」などと、これまで散々笑われてきました。宗教学者の島田裕巳氏の『葬式は、要らない』や『0葬』に対抗して『葬式は必要!』や『永遠葬』を上梓したときも笑われました。現在も、その島田氏との対談本の刊行、あるいは、儀式そのものの必要性を理論武装しようとする次回作『儀式論』の出版などに対して、「そんなことをしてどうする」と笑う人もいます。
 その『儀式論』ですが、そもそも「儀式」の存在意義を明らかにするなど、わたしの手に余る壮大すぎるテーマです。しかし、「俺が書かねば誰が書く!」という気概と使命感で、「これを書き上げたら死んでもいい」という覚悟で書きました。
 もちろん、わたしの人生など、偉大なイチローの人生と比べることなどできないことはよくわかっていますが、わたしも彼と同じ「なにくそ!」「今に見ていろ!」の精神で走り続けたいです。北島三郎の「兄弟仁義」には、「ひとりぐらいはこういう馬鹿が居なきゃ世間の目はさめぬ」という歌詞がありますが、わたしも、そういった心境であります。
 そして、イチロー選手の記者会見で最も胸を打たれたのは、「アメリカに来て16年目。これまでチームメイトとの間にしんどいことも多かったけど、今は最高のチームメイトに恵まれて感謝している」という発言でした。内野安打を含む単打を連発するイチロー選手の野球スタイルは、「チームに貢献していない」「打率狙いのセコい野球」などと酷評されてきました。おそらくはチーム内にもそんな空気があったのでしょう。しかし、42歳にしてようやく彼は「最高の仲間」を手に入れたのです。
 わたしたちが生きる社会において、最大のキーワードは「人間関係」ではないでしょうか。社会とは、つまるところ人間の集まりです。そこでは「人間」よりも「人間関係」が重要な問題になってきます。そもそも「人間」という字が、人は一人では生きてゆけない存在だということを示しています。人と人との間にあるから「人間」なのです。だからこそ、人間関係の問題は一生つきまといます。
 夏目漱石の『草枕』には、「智に働けば角がたつ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とにかく人の世は住みにくい」という言葉が冒頭に出てきますが、これは人間関係の難しさを見事に表現しています。
 フランスの作家サン=テグジュペリは、著書『人間の土地』で「真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係という贅沢だ」と述べました。この言葉は、わたしの信条でもあります。イチロー選手は、お金も名声も手に入れてきました。夢もすべて実現してきました。しかし、彼が最も欲しかった宝物とは「最高の仲間」であり、ついにそれを手に入れたという感動の表れが会見での涙だったのではないでしょうか。