一条真也の人生の修め方 『日本経済新聞電子版』連載 83

観光は銅像見学から

わたしは観光が大好きだ。

 多くの観光地には、その土地ゆかりの銅像が建立されている。じつは、わたしは三度の飯より銅像が好きなのだ。正確には、銅像の真似をして写真に写ることが好きなのである。
 わたしの本名で公開しているブログには、「銅像に学ぶ」というカテゴリーがあり、各地の銅像と撮影した写真を紹介している。最近訪れた中国では玄奘像と記念撮影した。
 しかし、これは単におふざけでやっていることではない。「銅像」とは偉大なる先人たちの魂が宿った姿であり、そのポーズには何かしらのメッセージが潜んでいる。その偉人と同じポーズをとることで、偉人の志を感じることが大事なのだ。
 これは先人に対する「礼」でもあり、その精神を学ばせていただいている。もともと「学ぶ」という言葉は「真似ぶ」から来ている。銅像の真似をすることには意味があるのだ。
 「観光」とは、もともと四書五経の1つである『易経』の中の「観國之光」という言葉に由来する。
 「國之光」とは、その地域の「より良き文物」や「より良き礼節」と「住み良さ」をさす。すなわち観光とは、日常から離れた異なる景色、風景、街並みなどに対するまなざしなのだ。どんな土地にも、固有の光り輝く魅力がある。観光とは文字通り、その光を観ることにほかならない。
 土地の光を観る精神は、人間の光を観る精神にもつながるように思う。つまり、その人の長所や美点を観るということだ。『論語』には「君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す」という言葉がある。「君子は人の美点を伸ばし、悪い点は出さないようにするものだ。小人はその反対だ」という意味である。
 「温故知新」も『論語』に出てくる言葉だが、わたしは銅像を通して先人の志を学ばせていただいているのだ。プライベートでの旅行はなかなか時間的に難しいが、これからも仕事の出張先で、まだ見ぬ銅像とめぐりあえることを楽しみにしている。