一条真也の人生の修め方 『日本経済新聞電子版』連載 28

桜を見ながら、人生の修め方を想う

日本各地で桜の開花宣言が相次ぎ、花見のシーズンとなりました。わたしは桜を見るたびに、わが人生の終わりをイメージし、その修め方について想(おも)いを馳せます。日本人は「限りある生命」のシンボルである桜を愛(め)でてきました。日本人がいかに桜好きかは、毎年のように桜に関する歌が発表されて、それがヒットすることからもわかります。

平安時代より以前は、日本で単に「花」といえば、梅をさしました。平安以後は桜です。最初は「貴族の花」また「都市の花」であった桜ですが、武士が台頭し、地方農民が生産力を拡大させてくるにしたがって、しだいに「庶民の花」としての性格を帯びてきます。

よく「花は桜木、人は武士」という言葉が使われますが、これは江戸中期の歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」に用いられてから流行するようになりました。

国学者の本居宣長は桜を日本人の「こころ」そのものとしてとらえ、「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」という和歌を詠んでいます。桜を見て、「ああ美しいなあ」と感嘆の声をあげること、難しい理屈抜きで桜の美しさに感動すること、これが本当の日本精神だというのです。

日本において、「ハナ」という言葉はものの先触れをあらわしました。咲く花は神意、つまり神々の「こころ」のあらわれでした。日本人はまことに豊かな花の文化を持っています。しかも、それは音楽・絵画・染色・工芸・・・・・・その他の幅広いジャンルにわたっていますが、何といっても和歌を忘れることはできないでしょう。

日本人は古代から、花を愛でてきました。そして、その心を多くの和歌に詠んできたのです。最古の文学作品である『古事記』にも、さまざまな和歌が出てきます。『万葉集』にも、桜の花とか、なでしことか、いろんな花を髪にさす歌がたくさんあります。『万葉集』といえば、数々の歌集の中でもことに多くの花々を詠んでいます。もちろん歌の数が多いこともその理由の一つでしょうが、何よりも万葉びとの歌が生活に密接に結びついていたからでしょう。この頃の人々にとって人間と自然の区別はなく、もろもろの存在は言葉によって表現されたときに初めて存在しました。言霊(ことだま)信仰と呼ばれるものです。

『万葉集』以後も、『古今和歌集』『新古今和歌集』をはじめ、多くの歌集で日本人は自らの心を花に託して歌を詠んできました。なぜかというと、花は「いのち」のシンボルそのものだからです。日本は農業国であり、もともと「葦(あし)の国」と呼ばれたように、植物とは深く関わってきました。冬に枯死していた大地を復活させるのは、桜の花をはじめとした春の花々です。古代の日本人は、花の活霊(いきりょう)が大地の復活をうながすと信じました。この農業国を支配する王は、花の活霊を妻とし、大地の復活を祝福し、秋の実りを祈願する祭礼の司祭となりました。この国の王は、何よりも花祭という「まつりごと」を司(つかさど)ることに任務がありました。政治を「まつりごと」というのは、そのためです。

日本人は、月と花に大きな関心を寄せてきました。月も花も、その変化がはっきりと目に見えるかたちであらわれることから、自然の中でも、時間の流れを強く感じさせるものです。このような時間性ゆえに人間の「生」のシンボルとなったわけですが、特に日本においては桜が「生」のシンボルとなりました。桜ほど見事に咲いて、見事に散る花はないからです。そこから、日本独自の美意識も生まれました。

もちろん、日本においては満開の桜だけが賛美されてきたわけではありません。『徒然草』第137段には、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という一文が出てきます。最高潮のときではなく、むしろ散りゆく花にはかなさの美としての「あはれ」を見いだしたのです。

そして、月と桜を誰よりも愛した日本人こそ、西行でした。彼が詠んだ歌の中でも、次の歌はとくに有名です。

「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」

「歌聖」とまで呼ばれた西行は、この歌に詠んだとおりの状況で、入寂したという伝説が残っています。結局、月も桜も、その美しさ、はかなさは限りなく「死」を連想させるのです。月は欠けるから美しく、桜は散るから美しく、そして人は死ぬから美しいのかもしれません。

「散る桜残る桜も散る桜」

良寛の辞世とされる句ですが、海軍特別攻撃隊いわゆる神風特攻隊員が遺書に引用したことで有名になりました。「人生のはかなさ」を見事にとらえた素晴らしい句です。明日無事である保証は誰にもありません。人生を豊かに深めていくためには「老いる覚悟」もさることながら、桜花を愛でながら「死ぬ覚悟」を持つことが大事なのかもしれません。

散りゆく桜の花びらを眺めていると、死が怖くなくなっている自分の存在に気づきます。あなたも、満開の桜を見ながら、ご自身の人生の修め方を想われてはいかがでしょうか。