自分の幸福な葬儀をイメージする
あらゆる生命体は必ず死にます。もちろん人間も必ず死にます。親しい人や愛する人が亡くなることは悲しいことです。でも決して不幸なことではありません。残された者は、死を現実として受け止め、残された者同士で、新しい人間関係をつくっていかなければなりません。葬儀は故人の「人となり」を確認すると同時に、そのことに気づく場になりえます。葬儀は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現の場であり、最大の自己表現の場ではないでしょうか。
2015年11月30日、「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」で知られる漫画家・水木しげる氏が93歳で亡くなられました。故人は著書『水木サンの幸福論』(角川文庫)の中で、次のような「幸福の七カ条」を紹介しています。
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。
水木サンの作品をこよなく愛してきたわたしは、第八条として、次の文章を加えたいと思います。「自分の幸福な葬儀をイメージする」です。
『論語』には「未だ生を知らず」という言葉が登場します。弟子の子路から死について問われた孔子は「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と答えました。簡単にいえば、「生もわからないのに、どうして死がわかろうか」という意味で、孔子が60代の言葉です。
だんだん歳をとり、老いて、いずれは死を迎える。これは人間にとって当たり前のことです。ただそうわかっていても、自分の死を考えると「怖い」とか「嫌だ」という感情が湧いてくるのがふつうです。これを何とか克服するために生まれたのが宗教であったように思えます。
最近、わたしは「終活」をテーマにした講演をよく頼まれます。わたし自身は、「人生の終(しま)い方の活動」としての「終活」よりも、この連載タイトルにもあるように、前向きな「人生の修め方の活動」としての「修活」という言葉を使うようにしています。そんな講演会でよくお話しするのが、「講演を聴いておられるみなさん自身の旅立ちのセレモニー、すなわち葬儀についての具体的な希望をイメージして下さい」ということです。
自分の葬儀について考えるなんて、複雑な思いをされる方もいるかもしれません。しかし、自分の葬儀を具体的にイメージすることは、残りの人生を幸せに生きていくうえで絶大な効果を発揮します。「死んだときのことを口にするのは、バチがあたる」と、忌み嫌う人もいます。果たしてそうでしょうか。わたしは自分の葬儀を考えることは、いかに今を生きるかを考えることだと思っています。
ぜひ、みなさんもご自分の葬義をイメージしてみて下さい。そこで、友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像してください。そして、その弔辞の内容を具体的に想像してください。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像してください。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれるシーンを頭の中に描いて下さい。
いかがですか、自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そんな理想の葬式を実現するためには、残りの人生において、あなたはそのように生きざるをえなくなるのです。
日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と言われます。でも、こんなおかしな話はありません。わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。亡くなった人はすべて「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。そんな馬鹿な話はありません。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼ばないようにしています。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来必ず不幸になるからです。
死はけっして不幸な出来事ではありません。それは人生を卒業するということであり、葬儀とは「人生の卒業式」にすぎないのです。さあ、あなたも自分の幸福な葬儀をイメージすることによって、「美しく人生を修める」準備を進めてみませんか?