一条真也の供養論 『終活WEBソナエ』連載 第37回

孝があれば人は死なない

 7月7日の「七夕」の日、わたしは大阪で、心から尊敬する師と対談させていただく機会に恵まれた。師のお名前は、加地伸行先生という。
 加地先生は1936年、大阪生まれ。京都大学文学部卒業。専攻は中国哲学史。大阪大学名誉教授。わが国における儒教研究の第一人者である。加地先生はまた、『論語』とともに儒教の重要経典である『孝経』を訳されたことでも有名である。日本人の葬儀には儒教の影響が大きいが、その根底には「孝」の思想がある。
「孝」とは何か。あらゆる人には祖先および子孫というものがあるが、祖先とは過去であり、子孫とは未来である。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表わされる。すなわち、親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点である。だから、子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもあるのだ。
 
 孔子が開いた儒教は、次の3つのことを人間の「つとめ」として打ち出した。1つ目は、祖先祭祀をすること。仏教でいえば、先祖供養をすることだ。2つ目は、家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと。3つ目は、子孫一族が続くこと。そして、この3つの「つとめ」を合わせたものこそが「孝」なのである。決して、一般にイメージされがちな「親への絶対服従」という意味ではない。
 
 「孝」があれば、人は死なないということになる。それは、こういうことだ。死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転して「生命の連続」という観念を生み出した。亡くなった先祖の供養をすること、つまり祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することである。また、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになる。さらには、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになるのである。
 だとすると、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになる。わたしたちは個体としての生物ではなく1つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけである。
 「遺体」とは「死体」という意味ではない。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺(のこ)した体」というのが、「遺体」の本当の意味だ。すなわち遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのである。あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのだ。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのである。