一条真也の供養論 『終活WEBソナエ』連載 第38回

黙祷するということ

 わたしは、よく黙祷をする。特に、8月は6日の「広島原爆の日」、9日の「長崎原爆の日」、12日の「日航機墜落事故の日」、そして15日の「終戦の日」と、3日おきに日本人にとって大切な「死者を想う日」が訪れ、そのたびに黙祷した。
 
 黙祷とは何か。まず、それは死者に対する礼である。生者は、黙祷によって死者を尊重していることを表現する。宗教儀式のようでもあるが、特定の宗教には限定されない。このため、特定の宗教や宗派に依存しない儀式の際には、参加者それぞれの信仰に関係なく祈るという様式において用いられることが多い。
 次に、黙祷とは死者の存在を再確認することである。生者と死者の関係を考えた人物に、神秘哲学者のルドルフ・シュタイナーがいる。彼は人智学という学問の創始者として知られているが、よく「人智学を学ぶ意味は、死者との結びつきを持つためだ」と語ったそうだ。死者と生者との関係は密接であり、それをいいかげんにするということは、わたしたちがこの世に生きることの意味をも否定することになりかねないというのである。
 
 さらに、黙祷とは目を閉じる行為である。わたしは、このことからサン=テグジュぺリの『星の王子さま』に出てくる「本当に大切なことは目には見えない」という言葉を連想する。この言葉には、愛、思いやり、まごころ、信頼・・・この世には、目に見えなくても存在する大切なものがたくさんあり、逆に本当に大切なものは目に見えないのだという解釈がある。
 また、このフレーズは哲学者プラトンのいう「イデア」のことではないかという意見もある。イデアとは、わたしたちが目で見ている現実の世界の向こう側にある理想の世界のことだ。プラトンは、イデアの世界こそ真実の世界であり、わたしたちが見ている現実の世界はイデアの影にすぎないと考えた。
 「本当に大切なこと」という言葉はフランス語では「エッサンシエル」、英語だと「エッセンシャル」で、つまり、「本質的なもの」という意味になる。それを踏まえると、目には見えない大切なものとは、すなわちイデアのことかもしれない。更にいえば、目では見えないけれども、魂でなら見ることができる。黙祷とは、魂でイデアを見るための技法という可能性もあろう。
 
 8月7日、東京五輪が閉幕した。その前日の6日が「広島原爆の日」だった。IOCは開会式以外での黙祷などのセレモニーをしないと決定したが、閉会式のラストに出演した女優の大竹しのぶさんは、自身のインスタグラムに「世界中の人が来ている今だから、一緒に黙祷出来たら良かったのになあ。世界中の人が被爆国である日本にいるのだから」と記した。
 人類が犯した最大の罪のひとつのために、テレビを通じて世界中の人々が同時に黙祷するチャンスが失われたことは残念である。