俳句
五七五で表現される俳句は、その小さな形式の中に大きな宇宙を持っています。そして「花鳥風月」に代表されるように自然をエンターテインメントとして詠むことによって、人間の存在を自然との関わり合いにおいて再認識することができます。さらにその俳句の特徴として「季題」と呼ばれる季節の言葉を入れるという決まりが、日本固有の文化や情緒を表現する大きな役割を果たしているのです。
万葉集にはじまる長歌、短歌などの流れから生まれた連歌が俳諧の連句として確立し、やがてその頭にある発句が独立して、現代の俳句という形式が生まれました。作家の橋本治氏によれば、短歌というのは基本的に贈ったり贈られたりするグリーティング・カードであるといいます。短歌は、貴族という儀式や様式の中に所属する社交芸術であり、それが流通する社会がなければ成立しません。つまり、御殿というものがなくなった世界では流通しにくいのです。短歌が五七五七七で俳句が五七五という、七七の部分を切って捨てたということは非常に象徴的なことであり、要するに家が狭くなったら十四字分が邪魔になるということです。御殿やお城というところはあくまでも短歌が要求されるような礼式の世界で、俳句というのはそもそも、そういう本式からの逃避であり、リラックスだと言えます。俳句は、あくまで「私的な述懐」なのです。
ある意味で貧乏の気楽さにも通じる俳句とは、徹底して自由な心の遊びです。そして何より私がすごいと思っているのは、俳句をつくるのに何も道具がいらないことです。筆もいらない、紙もいらない。あるに越したことはないが、別になくても頭の中だけでいくらでも俳句はつくれる。たとえ、刑務所の中でも、拉致される途中の工作船や車のトランクの中でさえも俳句をつくることは可能なのです!そう考えてみると、俳句とは最も軽やかで自由な遊びのように思えてきます。これに勝るのは、もはや瞑想ぐらいでしょう。
「老い」から「死」までのグランドライフに俳句は潤いを与えてくれます。日本人なら、辞世の句の一つも残して旅立って行きたいものです。