第十一講「心学」
第十一講「心学」
日本において共生した神道・仏教・儒教の三宗教は、心学の中で合体を果たした。
心学とは何か。
それは、江戸中期の思想家である石田梅岩にはじまる実践哲学で、「石門(せきもん)心学」とも呼ばれる。
「心学」という言葉は本来、中国の陸象山、王陽明の系統の学問の特色をさすものだった。陸象山とは南宋の学者で、朱熹の理気説の主知主義に反対して唯心論を唱えた。宇宙本体の理は個人の心であるという「心即理」を重視し、心をさぐれば理が見出せると説いたのである。座禅修行をすすめ、明の陽明学に影響を与えた。
陽明学の祖である王陽明は程朱学を批判し、陸象山を高く評価したのである。「程朱」とは、宋の儒学の大物である程_(ていこう)、程頤(ていい)と朱熹の総称で、「宋学」とも呼ばれた彼らの学説が程朱学だ。王陽明は、「聖人の学は心学である」と規定し、学は心を究境原理とし、心の内で完結するものとした。象山の説いた「心即理」を根本命題とし、簡易で手近な実践方法を掲げる心学は、王陽明後も盛んに行われたが、程朱学派からは禅学と批判され、やがて「心学横流」といわれる弊を生じて、間もなく衰えた。しかし、この心学は、儒教、仏教、道教の三宗教の融合を試み、権威道徳からの解放、学問の庶民化などにおける功績は大きかった。
石田梅岩の心学は、この中国の心学と直接の関係はなく、その内容もかなり異なっている。しかし、中国の心学において儒仏道の融合が行われたように、梅岩の心学にも神道、仏教、儒教の三宗教の融合が見られる。
もともと「心学」は、身に践(ふ)み行う実践の学という意味において江戸初期の儒学者の間で珍重された言葉であり、中江藤樹や貝原益軒らも自らの学を「心学」と称していた。しかし梅岩の心学のみが神仏儒の三教思想を取り入れ、人間の本性を探求しようとする人生哲学を打ち立てたのである。また、それを一般の人々に伝えようとしたことも忘れてはならない。梅岩の心学は学問の庶民化という点でも、王陽明と石田梅岩は共通していると言えるだろう。石門心学こそは、近世庶民の生み出した倫理的自覚の学と言えるのである。
石田梅岩の思想は、日本資本主義の源流とされている。江戸時代中期、わが国に資本主義の萌芽が見られた頃、梅岩は京都において商いにおける倫理の重要性を説き続けた。その後、資本主義が発展する過程で、「商い」という営みから倫理が抜けてしまい、金儲けだけが残ってしまった。しかし石門心学の「そろばん勘定」を超える経営哲学は、渋澤栄一、稲盛和夫といった稀有な経営者たちに大きな影響を与えていったのである。
日本資本主義の源流としての梅岩には先達がいた。鈴木正三である。山本七平は、著書『日本資本主義の精神』に次のように書いている。
「日本が世界の中で有数な金持ち国家になっているのは、資源もなく、国が広いわけでもなく、大体経済的にはゼロなのだが、〈ひたすら働いたから〉という理由しかない」
ひたすら働く理由は「勤労の絶対視」と「勤労そのものが美徳であるという考え」からきており、その根本思想を唱え、布教した人物こそ正三なのである。
彼は梅岩よりもおよそ百年前の一五七九年に生まれた三河武士であり、のちに禅僧となった。三河国加茂郡の城主であった鈴木忠兵衛重次の長男として生まれた、家康の関東入国に従って上総国に移った。一六〇〇年、正三はちょうど二二歳だったが、父とともに徳川秀忠軍として信州真田で参戦、二回の大坂の陣にも従軍、のちに三河国加茂郡内において二〇〇石の旗本となった。長男であったが、家督を弟の重成に譲り、一六二〇年、四二歳のときに突如出家して僧侶となった。世間に嫌気がさして、思わず頭髪を剃り落としたという。
出家の前年、儒者が「仏道は世法に背く」と主張したのに対して、正三は処世の心情を示し、「仏法によりてこそ、処世の安きを貫きうる」と、最初の著作である『盲安杖』を著している。五四歳のとき、弟の助力を受を得て石平山恩真寺を建立した。ここを拠点に「石平道人」と号して、江戸・京都・三河各地などに赴いて宗教啓蒙活動を行った。
六四歳のとき、島原の乱が起こった。弟の重成が天草初代代官を務めていた弟の重成を補佐して、キリスト教の影響を取り除くことに活躍した。このとき、『破切支丹』を著して各寺院に納めたが、これはキリスト教の教義を批判して、仏教のすぐれていることを述べたものである。
晩年の正三は江戸市中に住んで思想の伝道に努めたが、一六五五年に七七歳の生涯を閉じた。主として曹洞禅を修めた正三だが、臨済禅の名僧たちとも親交を結び、近世仏教界革新のさきがけとされるほど、その思想は独自性を持っていた。どの宗派や教団にも属さず、自由な立場で当時の教団や僧侶の在り方を鋭く批判しながら、民衆のために実際の生活に役立つ新しい仏教を提唱した。すなわち、出家して仏教に帰依するよりもむしろ在家修行を重視し、日常生活の中において成仏を成し遂げることが必要であると説いたのである。
禅僧であった正三は、当然ながら仏教の修行に坐禅を重んじたが、同時に念仏もすすめ、「禅よし、念仏よし」の立場を取った。また正三の職業倫理観は「仏法と渡世の術は同じで、各々の職分の中に仏法を見出せ。一鍬一鍬に、南無阿弥陀仏を唱えて耕作すれば、必ず仏果に至る」の教えに代表されるが、この思想こそが日本の近代勤労精神の先駆とされるのである。
宇宙の基本は「一仏」とするというのが、正三の基本的思想である。一仏は眼に見えないが、人間をはじめ草木などすべてのものには仏性があり、この仏性は天然の秩序と人間の内心の秩序と同じである。貪る、怒り、愚痴という「三毒」が人間にはあるが、これは人間が社会生活を営む摩擦より生じ、人間の仏性を破壊するという。仏性を破壊から守るために仏行が大事なのである。
仏の修行をする暇のない民衆は、いかにして成仏するか。正三は、「農業即仏行」と説く。わざわざ寺で参禅しなくとも、農業を一心不乱に行うことが仏行になり、農作業に励めば励むほど欲も怒りも愚痴も消えてしまって、仏性通りに生きることができ、成仏できるというのである。
正三は、こんな仕事はつまらないと思ってやっていると賎業に堕してしまうと戒めた。何事も成仏のための仏の修行と信じ、ひたすら働きに働くことが、「仕事即仏行」「仕事集中即成仏」への道であると示した。
商人についても、「商人は世の人を自由にする」と語った。商人には、必要なものを必要なときに調達する使命があるという意味である。正三が生きた江戸初期においては、商人資本の蓄積も小さく、商人の役割とは生活物資の輸送が主だったのである。また商人道について、利を得ることは認めながらも、商人の守るべき倫理に関して厳しくいさめた。商人というものは人生の浮き沈みが激しいため、あらゆる神仏に祈願して家業の繁栄と守護を祈るが、何よりも大事なことは、蓄財に走らず修行の構えで行くことであるとし、それが安心立命、成仏できる道だと諭したのである。
このような鈴木正三の思想をふまえて、石田梅岩が登場した。梅岩は、丹波国桑田郡の農家の次男に生まれた。本家は付近の三村の小領主であったが、一一歳のとき、京都の商家に丁稚奉公に出た。不運にも奉公先が傾いたので一時帰郷、家業の農業に従事したのち、一三歳のときに再度、京都の呉服屋に再就職した。二度目の奉公という再就職者のハンディと内向的性格が重なって、いつも懐に書物がある一風変わった勤め人であったという。
正規の学問を学んだわけではないが、大変な読書家だった梅岩は、はじめは神道にのめり込んだ。伝道精神に燃え、たとえ市中で講演してでも、人に道を説き聞かせたいと思ったほどであるという。さまざまな人物の講義を聞き歩いていたが、たまたま小栗了雲(おぐりりょううん)という先達に巡り合い、悩んでいた「人の人たる道」の求道に光明を見出して、悟りの境地に達したとされている。
四五歳のとき、京都に家を構え、私塾を開いた。「心学とは心を学ぶ学問なり」を根本思想に「石門心学」を創設し、布教活動を始めた。月謝は一切取らず、門の入口には「特別の紹介者は不要、すべて自由に、無料で聴講できる」という張り紙を出していた。梅岩の著書は『都鄙(とひ)問答』『倹約斉家論』『莫妄想』の三冊だけだが、弟子たちは増え続け、大坂に分校場を出した。後年、弟子の手島堵庵のときにさらに大きくなって江戸に進出、「参前舎」を創設して、石門心学の名を天下に広めた。
梅岩が亡くなったのは六〇歳、つまり彼の社会的布教活動はわずか一五年の期間であった。その短い間に、学閥も門閥もない一介の商家の番頭上がりにすぎなかった梅岩が、日本人の職業倫理思想の根幹ともいうべき石門心学を構築したのである。
石門心学には四つの特色がある。
第一に、近世において道徳的に卑しめられていた農工商の庶民に対し、道の実践においては武士と変わらず、かえがたい人間性を内に含んだ尊敬されるべき一個の「人間」であると説いたヒューマニズムの主張である。この立場から「われもまた人なり」という誇りと責任の上に、あらゆる生活設計を自ら立てさせようとし、正直も勤勉も倹約もその他すべての道徳がこの基盤の上に盛り上がってくるようにしたのである。
第二に、商取引や耕作に限らず、家業という家業のすべてが、一人一人の生計の手段として考えられるだけでなく、そうした働きそのものが社会生活をつくるものとして、四民の役割と存在意義を明らかにした点である。
たとえば、商人が商品の取引をして利益を得ることに対して批判があるが、梅岩は言う。商売の利益は、武士の俸禄に等しく、正統な利を得るのが商人の道である。これを詐欺というなら売買はできず、買う人は物に事欠いて、売る人は生活していけないもし商人がみな農工を業とするなら、金銭を流通させる者がいなくなり、世の人々はみな困ってしまう。士農工商の四民、いずれが欠けても、天下というものは成り立たない。商人の売買は天下のためなのだ。商人の利益は武士の俸禄、工人の作料、農民の年貢米を納めた残りの取り分とまったく変わらないのである。
第三に、心学思想の普及にともない、教化の方法として「道話」という平易で興味深い形式や、施印というポスター形式による方法を採用したりして、一般庶民の社会教化に大きな影響を与え、さらに寺小屋教育にも積極的に関わったことである。
第四に、単なる説教普及だけではなく、各地の教諭所や人足寄場(よせば)での教導、飢饉に際しての施米などの救助活動、あるいは丙午(ひのえうま)などの迷信に対する積極的な啓蒙運動などに見られるように、社会の現実に対応した実践運動を展開したことだ。
梅岩が直接、正三の思想に影響されたという記録は残っていないが、石門心学の後継者となった手島堵庵(てじまとあん)にこんなエピソードがある。堵庵は晩年、正三の著書『盲安杖』を熱い想いで手にした。そこに説かれている教えは、まさにわが師である梅岩先生の教えに一致するものだと感激した堵庵は、安永七年の重版に自ら署名入りで序文を寄稿したのである。そこには、「この書物は人の進むべき正しい道を示すために、心の目が曇っている人を助けて、安らかな暮らしに導くための杖になろうという意味で『盲安杖』という題名がつけられたのであろう」と書かれている。鈴木正三と石田梅岩という二人の思想家をつなぐ存在として、梅岩の高弟である手島堵庵がいたわけである。
では、梅岩はどのような世界観に基づき、どのような実践哲学を説いたのであろうか。基本的には、その世界観は正三と同じであった。もっとも山本七平によれば、梅岩だけでなく、江戸時代の多くの思想家も基本的には同じであるという。しかし、その発想、すなわち宇宙の秩序と内心の秩序と社会の秩序は一致しているし、また一致させなければならないという発想は、梅岩の場合はむしろ朱子学から来ている。正三は仏教的、梅岩は儒教的な表現になるが、表現が違うだけで、世界観の基本は同じなのである。
正三は、宇宙の基本を「一仏」としたが、その徳用を「月」「内心の仏」「医王」とした。梅岩においては、宇宙の基本は「善」であり、三つの徳用は「天」「性(本性)」「薬」となる。この場合の「善」は、善悪の「善」というよりむしろ「宇宙的秩序」の意味である。これが「天」すなわち宇宙の秩序に表れ、同時に人間の本性であるという意味では、いわゆる「性善説」を連想するが、これもまた、決して俗にいう「性善説」ではない。また「医王」が「薬」になっているのは、「医(いや)してください」と願う宗教的な対象ではなく、薬のように処方して使うべき対象だということである。この点では、梅岩には正三のような宗教性はない。
山本七平は言う。両者の間には、宗教改革期の思想家と啓蒙主義時代の思想家との違いに似たものがあるであろう。正三にとって、宇宙は「一仏」という人格神的対象であり、癒してくれるのも「医王」という救済者的対象だが、梅岩においては、これが「天」と「薬」という非人格的なもの、いわば理神論的対象に変化し、薬を使うという主体性はむしろ人間の側にある。正三より非宗教的で、市民思想的な道徳律へと変化していると言えるだろう。
もちろん正三にも、仏教の経典が薬という発想はあった。しかし、それは医王が使ってくれるべきものである。梅岩の場合は、自らが処方して使うべきものであり、この点で彼は自身をも「医師」の位置に置いているのである。
そして梅岩は、孔子・孟子・老子・荘子・仏教経典から日本の古典まで、自由自在に使ってまったく差し支えないと考えていた。彼にとっては、「役に立つものが真理」なのであり、ある意味で完全なプラグマティズムと言える。梅岩にとって、思想は薬と同じだったのである!
したがって問題となるのは、彼が何を引用したかではなく、どのような目的で、いわば何を癒やそうとしてそれを使ったのかということにある。だから梅岩が、原典の文脈を無視し、自らの説を述べるために間違って引用していても、彼の思想を知るという点では、はじめから問題にならないのである。これについて、山本七平は『日本資本主義の精神』に次のように書いている。
「これは、宗教・思想の方法論化だが、さらに彼は、宗教を思想流布の手段とも見た。その意味では、彼にとって、神儒仏の三教が併存することは、いっこうに差し支えはなく、この三教を彼は、金、銀、銭の通貨の並行流通にたとえている。とすれば、七五三は神社で、結婚は教会で、葬式はお寺で、でいっこうに差し支えないことになる。そうすることは、決して無節操でなく、一つの明確な考え方、見方から出ている生き方ということになる」
そのような宗教的プラグマティズムを、山本七平が「日本教」と呼んだことは有名である。そして、梅岩とは日本資本主義のファウンダーの一人であると同時に、日本教の伝道者でもあったのである。
はじめは神道に没頭し、のちに広く仏教、儒教を学んだ梅岩は、三教の思想を深く自己の中で熟成発酵させたと言える。それは「神仏儒一体教」とも呼ぶべきものだが、その中でも儒教、特に朱子学の影響が大きいとされる。しかし儒教一辺倒というわけでもなく、ときに神道、ときに仏教、主に儒教の思想が入っていると表現したほうがいいだろう。これは、章を断って義を取るやり方として「断章取義」と呼ばれる。
それでも梅岩は儒教の正統者としての自信や責任を持っており、仏教についてはやや批判的であった。「儒者は仏教を異端といって嫌います。儒教と仏教との間にどのような相違がるからでしょうか」という弟子の質問に対して、梅岩は述べる。儒教と仏教を枝葉末節の点で論ずるなら、問題は複雑になり、わかりにくくなる。しかし、双方の基本目的は性理を理解することで共通している。儒教も仏教も双方の道理は似ていて区別しにくいが、行為の点では雲泥の違いがある。僧侶は、殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒の禁、すなわち「五戒」を守る。俗人は五倫の道を守る。
ここまでは、何も紛らわしくない。しかし、俗人が僧侶の真似をすると、その末流は落ちぶれ、ひいては子孫が絶える。中国でも、仏教に帰依した梁の武帝は、「一日に一度は野菜料理を食べ、宗廟を祭るのに動物を犠牲に殺すのを避けて小麦粉を供えた。死刑の判決が下されると、罪人のために心から涙を流して泣き、国中の人はその慈悲の心を理解した」という。しかし、武帝の治世の末は江南に反乱が起きた。釈迦の真意を理解しないで、仏法にこだわると害がもたらされるのだ。
そして、心を清くするには仏法もよいだろう。だが、自分の修行、家をよく治めること、そして治国・平天下には儒教がよい。海や川を行くには舟がよく、陸を行くには駕籠(かご)がよい。仏法で世を治めようとするのは、馬や駕籠で海川を渡るのと同じようだと述べている。
また神道に対しては、仏教ほど批判的ではない。梅岩は、客人の質問に答える形で神道と儒教がともに祭礼を重んじる点にふれ、「神はすべて同じ」としている。『中庸』に「天地創造の神の力は、何と偉大なことか。物の根源であってあますところがない」と述べられている。この神とは、まさしく天地の陰陽の神である。「物の根源であってあますところがない」とは、「万物の創造は神の働きによる。神は万物のすべてを支配する」ということだ。日本の神も、イザナギノミコトとイザナミノミコトより生を受け、太陽や月星から万物に至るすべてを支配され、あますところがない。そこで日本を無二絶対の神の国というと述べている。
そして梅岩は、儒教第一の姿勢をとりながらも、「儒書を読んで迷いが生ずるならそんな書は無いのがましだ。わが国では、昔からこの国の助けになるものとして儒教を大切にしたことを知るがよい」と述べ、神道すなわち国教第一を明言している。
また、「神、儒、仏を尊ぶに順序がある」として、それを示した。第一にアマテラスオオミカミ。この中には他の神々や天皇、将軍が含まれている。第二に中国、周の文王、宣王。この中には孔子、子思、孟子、宋儒も含まれている。第三が釈迦如来。その中には各宗派の開祖も含まれている。ただし、仏教者なら二と三を逆にするがよい。いずれにせよ、儒、仏とも大神宮を第一とせよ。この順序は守るべきだが、心を修めるのに三者のいずれが欠けてもよくない。
梅岩の弟子たちが生前の梅岩について記した「石田先生事蹟」によると、彼は毎朝未明に起床し、身なりを正し、手水(ちょうず)をしてのち、アマテラスオオミカミを拝み、次いで竃(かまど)の神、故郷の氏神、大聖文宣王つまり孔子ほかを拝み、弥陀、釈迦仏を拝み、そののち師と先祖・父母の霊に手を合わせたという。何とも多忙な朝の日課であるが、彼自身も神、儒、仏の順序で礼拝していたわけである。梅岩の学問は理屈や教義に凝り固まってはいなかった。常に実務者としての経験を忘れず、日常の仕事に即した教えを説いたのだ。そのことが、梅岩の毎朝の態度からも明らかにうかがい知ることができる。
そして、梅岩にとっての教えの眼目、いわゆる「心」に至っては神道、仏教、儒教のいずれでもなく、三教が混ざり合っている点が重要だ。梅岩の教えとは、結局、その核は「心」であり、彼が追求したものとは、人間自然の汚れのない心、ありべかかりの心、いたわりの心などなど、すべては「心」なのである。三冊しか残されていない梅岩の著書のいたるところから、「心」という言葉が躍り出している。神道、仏教、儒教の三教は、その「心」を支える三脚の役割を果たしたのではないだろうか。
石田梅岩が「心学」によって提唱したハートフル・マネジメントの火種は、渋澤栄一、松下幸之助、稲盛和夫をはじめとした心ある経営者たちに脈々と受け継がれ、今日の日本の資本主義の中でも、その火は消えることなく、燃えさかっているのである。