第十講「武士道」
第十講「武士道」
日本において共生した神道・仏教・儒教の三宗教は、武士道の中で合体を果たした。
武士道とは何か。
「日本に武士道あり」と世界に広く示した新渡戸稲造によれば、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華、それが武士道である。日本史の本棚の中に収められている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の一つではない。それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手にふれる姿や形は持たないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちを引きつけてやまない存在なのだ。
新渡戸稲造は、言うまでもなく名著『武士道』の著者である。明治三二年(一八九九年)に刊行された英文『武士道』が、その直後の日本のめざましい歴史的活躍を通して、いかに見事にその卓見を実証していったか、今では想像もできないほどのものだった。ことに、義和団の乱、日清戦争、日露戦争における正々堂々たる戦いぶりと、敗者への慈悲を通して。そして、自らの潔い死があった。
こうしたふるまいは、すべて、極東の未知の小国における、他のどこにもない「ブシドー」という生き方の極みのフォルムによるものであると知って、世界は熱狂したのである。
武士道とは封建制度の所産であるが、その母である封建制度よりも永く生き延びて、「人の道」をありようを照らし続けた。『資本論』を書いたカール・マルクスは、生きた封建制の社会的、政治的諸制度は当時の日本においてのみ見ることができるとして、読者にその研究の利点を呼びかけた。これにならって、新渡戸は、西洋の歴史および倫理の研究者が日本における武士道の研究にもっと意を払うことをすすめている。
日本に武士道があるように、ヨーロッパには騎士道がある。新渡戸が大まかに「武士道(シバルリー)」と表現した日本語は、その語源において「騎士道(ホースマンシップ)」よりももっと多くの意味合いを持っている。ブ・シ・ドウとは、その文字を見れば、武・士・道である。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味しているのである。新渡戸は、武士道とは一言でいえば「騎士道の規律」、武士階級の「高い身分に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)」であると、海外の人々に説明している。
新渡戸の『武士道』は、今日に至るまで多くの日本人に影響を与え、かつ世界中の人々に「武士道」のイメージを植え付けた。日露戦争後にポーツマス条約の仲介をしたアメリカ第二六代大統領セオドア・ルーズベルトは、この本に大きな感銘を受け、三〇冊も取り寄せたことで知られる。彼は、五人のわが子に一冊ずつ渡したという。さらに残りの二五冊は大臣や上下両院の議員などに分配し、「これを読め。日本武士道の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである」と言ったという。
しかし、一方で新渡戸『武士道』こそが、武士道概念を混乱させてきたという見方もある。新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係もないというのである。そういった批判は、『武士道』の日本版が刊行された直後に、すでに歴史学者の津田左右吉によってなされている。専門に研究する人々の間では、新渡戸の論が文献的にも歴史的にも武士の実態に根ざしていないというのが定説になっているという。
倫理学者の菅野覚明氏は、著書『武士道の逆襲』でこう述べている。
「新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つである」
そもそも、「武士道」という言葉が一般に広く知られるようになったのは、明治も半ばを過ぎた頃からであるという。特に、日清・日露という対外戦争と相前後して、軍人や言論界の中から、盛んに「武士道」の復興を叫ぶ議論が登場してくる。武士はすでになく、自らも武士でないにもかかわらず、自分たちの思想は武士道であると主張する者たちが、ひきも切らずに現れてくるのだ。いわゆる「明治武士道」である。
徳川幕府を倒して権力を握った明治政府の指導者たちは、自分たちの倒幕を正当化するため、意図的に江戸時代を「暗黒時代」と見る歴史教育を行った。そこでは、幕府の支配のもと、刀を指した武士だけが威張って暮らし、農民や町民は武力で脅され、抑圧されて暮らしてきたとされた。また、武士たちは「武士道」という時代錯誤の意地によって、些細なことで怒って刀を抜き、斬り合いをしたり、庶民を無礼射ちにした。さらに、切腹や仇討ちといった血なまぐさいことを、武士たちは日常的にやっていた。ところが明治維新によって、事態は一変した。士農工商の身分制度は廃止され、みな平等になった。また、武士から刀を取り上げ、切腹や仇討ちも禁止することによって、日本は大きく進歩したのである。
以上のようなイデオローグを明治政府は国民に与えたのである。しかし、真実は違う。徳川幕府は庶民を第一に考えた政治を行い、勝手に刀を抜いて刃傷沙汰を起こした武士は重い罰を受けたのだ。武士道が最も重んじる「義」にために吉良上野介を討ち、その名も「義士」と庶民から讃えられた四七人の赤穂浪士が切腹を命じられたのが好例である。
しかしその後、明治政府は一転して、武士道の復興を必要としたのである。明治六年(一八七三年)、徴兵令が布告され、国民が兵士となって日本の武力を担うことになった。
明治七年に佐賀の乱、明治一〇年に西南戦争が起こり、旧武士による反乱軍は「百姓兵」と嘲(あざけ)られた国家の軍隊に完敗した。戦闘のプロフェッナルとしての武士は名実ともに滅び去り、「軍人精神」と呼ばれるものが「武士道」に代わって登場し、新たに近代における戦闘者の思想を形づくることになるのである。その思想の基本を確立したのが、明治一五年に発布された「軍人勅諭」である。
だが明治の「軍人精神」には不安があった。
新政府の軍隊とは、つまるところ諸藩の連合軍である。連合であるからには一時的な雑軍にすぎず、情勢によって離合集散もありうるという不安があったのだ。事実、戊辰戦争の官軍は、西南戦争では二つに分裂して敵対したわけである。菅野氏は述べる。
「国家の軍隊を一つのものとみなす発想がないということは、それがいつ分裂しても不思議ではないという観念が行きわたっていることでもある。実際、肝心の新政府軍の軍人たち自身が、軍隊の分裂はありうることと考え、神経を尖らせていたのである。そうした不安が衝撃的な形で現実となったのが、明治十一年に起こった近衛砲兵隊の反乱事件(竹橋事件)である」
そして、国家の軍隊は、「天朝さまに御味方する」諸藩の連合軍すなわち「官軍」であってはならないという発想が生まれた。それは、天皇自身が「大元帥」として統率する帝国軍隊すなわち「皇軍」でなければならないのだ。国家の軍隊としての統制原理を一個の人格たる天皇に置いた瞬間、わが国初の近代的軍隊、「皇軍」が成立したのである。
新しい国家の軍隊の統制を支えるために、西周や山県有朋らはその精神原理として、かつての武士が持っていた「忠」に目をつけ、それを欲しがった。武士にとっての「忠」は、命に代えても貫くほどの強烈さを持っている。
城山に立てこもった西郷軍には、死をともにする「士心合一」があったが、それも武士ならではの「忠」の精神に支えられていた。しかし、武士の「忠」は私的主従関係としての御家意識と切り離せず、国家の軍隊のような一種の「メカニズム」の中では発動できない。
天皇に対する忠誠心を真実のものとするために、西周は「日本人」「民族」そして「大和心」というコンセプトを打ち出した。徳川や島津といった武士団、さらには武士という「階級」は、「日本人」という「民族」の中に含まれた一部であるとされる。武士の精神とみなされていた「武士道」もまた、民族全体の精神である「大和心」の一部とみなされるわけである。
もともと西は、「哲学」や「宗教」をはじめ数多くの海外概念を翻訳したコンセプトの天才であった。その彼が、武士道の「忠」に代わる、大和心の「忠」を示したとき、軍人精神の原理である『軍人勅諭』の基本的な枠組みはほぼ完成したと菅野氏は述べている。それはまた、武士の武士道に代わる、民族の武士道、すなわち「明治武士道」の誕生した瞬間でもあったのである。
それは、菅野氏によれば、戦闘することによって「私」が実現され、主君や共同体との結びつき、道徳も戦闘の中から生まれるという、武士という存在の根幹にかかわる部分を排除したものだ。いわば武士道の断片であり、残滓(ざんし)であるにすぎないが、明治以来今日に至るまで、人々が武士道の名で親しんできたのは、他でもないこの「明治武士道」だったのである。
典型的な明治武士道には、新渡戸稲造、内村鑑三、植村正久などのキリスト教徒によるものと、井上哲次郎のような国家主義者によるものがあるとされる。数の上では国家主義的なものが圧倒的に多い。この流れは昭和に至るまでの武士道思想を形づくってきたが、敗戦とともに忘れ去られた。逆に、少数派であった新渡戸『武士道』のみが今日まで生き残っているのである。
多くの研究者たちが指摘するように、欧米列強に伍する近代国家を創る目的を持った明治武士道の産物である新渡戸『武士道』が、武士の本当の実態を記していないとしても、やはり思想としての「武士道」を考察した名著であることに変わりはない。特に、武士道の起源に関する新渡戸の視点は鋭い。
平安時代中頃から鎌倉時代初頭に武士という新興階級が起こり、封建制が形成されていった。このような時代に、武士道もつくられていった。もともと「兵(つわもの)の道」「弓矢の道」「弓馬の道」などと呼ばれており、「武士道」という言葉が使われ始めるのは江戸時代の初頭である。それは、初めは戦闘の場における心がけを中心とする掟であったが、次第に神道、仏教、儒教と深く関わる形でつくられていったという。
ヨーロッパの騎士道がキリスト教から生まれたことと同じように、武士道も宗教によって育まれたのである。しかし、それは単一の宗教ではなく、神道、仏教、儒教の三宗教によるものであると新渡戸は言うのだ。この、武士道の中に神仏儒の三宗教が入り込んでいることを指敵したことこそ、新渡戸『武士道』の最大の功績ではないだろうか。かつて森鴎外はヨーロッパの地で「日本人の信仰する宗教は何か」と尋ねられたとき、「それは武士道である」と返答したという。鴎外もまた、武士道の正体が神仏儒の混淆宗教であることを見抜いていたのだ。
『武士道』の第二章では、日本の宗教と武士道との関わり合いが述べられている。まず仏教からである。新渡戸は述べる。
「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした(奈良本辰也訳)」
仏教の中でも、武士は特に禅を学んだ。禅は、鎌倉時代の末期に栄西が宋から日本に伝えたものである。以来、室町、戦国、江戸、明治維新と、禅は武家社会に大きな影響を与えてきた。そして特定の禅僧と武士の間に師弟関係なるものができて、武士の軍略や治世、生き方を決定づけることになったのである。
代表的な例としては、源実朝と栄西、北条泰時と明恵、北条時頼と普寧・道元・聖一、北条時宗と無学祖元、楠正成と明極楚俊、足利尊氏と夢窓疎石、武田信玄と快川紹喜、上杉謙信と益翁宗謙、伊達政宗と東嶽、前田利家と大透などが挙げられる。江戸時代になると宮本武蔵や柳生但馬守と沢庵の関係が有名だが、武家社会は盤珪、鈴木正三、白隠、東嶺などにも多大な尊敬の念を示し、武士がこれらの禅僧を慕って教えを乞うた。さらに幕末から明治維新にかけては、西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟など回天の役割を果たした武士も禅を究めたとされる。
武士は禅僧から何を学んだのか。人には、「いったい何のために生きているのか」と、ふと感じるときがある。禅は、言葉でそれに答えることないが、内なる「智恵」を導き出してくれる。
現代の禅僧を代表する玄侑宗久氏は著書『禅的生活』で、たった今、私たちが息をしている瞬間こそ、すべての可能性を含んだ偉大なる瞬間であると述べている。日常の中でこそ「お悟り」で得られた「絶対的一者」が活かされなくてはならない。過去の自分はすべて今という瞬間に展かれている。そして未来に何の貸しもない。そのことを心底胎にすえて生きれば、いつどこで死んでもいいという覚悟になる。「人間、到る処青山あり」の青山とは「死んでもいいと思える場所」のことなのである。鎌倉以降、武士たちの心をとらえた禅の魅力は、おそらくこの辺りにあると玄侑氏は推測する。
仏教の次は、神道である。新渡戸は述べる。
「仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖の崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。そのため、サムライの傲岸な性格に忍耐心がつけ加えられたのである(奈良本辰也訳)」
しかし、本書を読んできた読者ならば、神道に教義にないことはよく知っているだろう。主君への忠誠、先祖への崇敬、そして孝心などは、むしろ儒教である。中世以来、神道は教義らしきものの多くを儒教から借りたことを、図らずも新渡戸は明らかにしているのだ。
新渡戸はさらに神道について述べる。ギリシャ人は礼拝のとき、目を天に向ける。そのとき彼らの祈りは凝視することによって成り立つ。ローマ人はその祈りが内省的であるために頭をヴェールで覆う。そして日本人の内省は、ローマ人の宗教に対する考え方のように、本質的に個人の道徳意識よりも、むしろ民族的な意識を表すこととなった。
神道の自然崇拝は、国土というものを私たちにとって心の奥底から愛おしく思われるような存在にした。また神道の祖先崇拝は、次から次へと系譜をたどることによって、ついには天皇家を民族全体の源としたのである。
新渡戸は述べる。
「私たちにとって国土とは金を採掘したり、穀物を収穫したりする土壌以上のものである。そこは神々、すなわち私たちの祖先の霊の神聖なすみかである。私たちにとって天皇とは、単に夜警国家の長、あるいは文化国家のパトロン以上の存在である。天皇は、その身に天の力と慈悲を帯びるとともに、地上における肉体をもった、天上の神の代理人なのである(奈良本辰也訳)」
ここに明治武士道の精神を見事に見ることができるだろう。天上の神の代理人としての天皇をいただいた日本は、急速に近代国家を
つくり、日清・日露の対外戦争を勝ち抜いていったのである。
そして新渡戸は、神道が日本人の感情生活を支配している二つの特徴をあわせ持っていると述べる。すなわち、愛国心と忠誠心である。ヘブライ文学においては作者の述べていることが、神のことか、国家のことか、天国のことか、エルサレムのことか、はたまたメシアか、その民族そのものか、それらのいずれを語っているのか、しばしば判断に困ることがある。これとよく似た混乱がわが国民の信仰を「神道」と名づけたことに起きていると新渡戸は言う。神道はその用語のあいまいさゆえに、論理的な思考を持った人から見れば、混乱していると考えられるに違いないというのだ。その上に、民族的本能や種族の感情の枠組としては、神道が必ずしも体系的な哲学や合理的な教学を必要としていないことを指摘する。
神道は武士道に対して、主君への忠誠心と愛国心を徹底的に吹きこんだ。これらのものは教義というより、その推進力として作用した。というのは、中世のキリスト教の教会とは異なり、神道はその信者にほとんど何も信仰上の約束事を規定しなかったからである。その代わりに行為の基準となる形式を、儒教によって与えたのだ。新渡戸は述べる。
「厳密にいうと、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった。孔子が述べた五つの倫理的な関係、すなわち、君臣(治める者と治められる者)、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、彼の書物が中国からもたらされるはるか以前から、日本人の本能が認知していたことの確認にすぎない。冷静、温和にして世才のある孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとって特にふさわしいものであった。孔子の貴族的かつ保守的な語調は、これらの武人統治者に不可欠のものとして適合した(奈良本辰也訳)」
孔子に次いで孟子が武士道に大きな影響を与えた。孟子の力のこもった、ときにははなはだしく人民主権的な理論は、思いやりのある人々にはことのほか好まれたのである。そのため、彼の理論は既存の社会秩序にとっては破壊的で危険とされ、『孟子』は永く禁書とされていたのである。それにもかかわらず、孟子の言葉は武士の心の中に永遠のすみかを見出していった。
正確には、儒教と武士道は微妙に違う。最も明らかな相違点は、儒教が「仁」を徳目の最上位に置いたのに対して、武士道はその中心に「義」を置いたことだ。したがって、武士の行動基準は、すべてこの義をもととし、「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳を「仁義」「忠義」「信義」「節義」「礼儀」などに改変し、さらには「廉恥」「潔白」「質素」「倹約」「勇気」「名誉」などを付け加えて、武士道は行動哲学となったのである。
そして、これらの道徳律の集大成として、「誠」の徳が最高の位置にすえられた。現在では「誠実」という意味にとられる「誠」は、その字が「言」と「成」からできているように「言ったことを成す」の意味とされ、そこから「武士に二言はない」という言葉が生まれた。武州・三多摩の農民あがりの新撰組(しんせんぐみ)は、「誠をつらぬく者」としての真の武士とならんがために「誠」をその旗印に掲げたのである。
このように武士道とは儒教のアレンジであったとしても、『論語』や『孟子』は武家の若者にとって大切な教科書となり、大人の間では議論の際の最高の拠り所となった。しかし、これらの古典を単に知っているというだけでは評価されることはなかった。よく知られた「論語読みの論語知らず」ということわざは、孔子の言葉だけをふりまわしている人間を嘲笑しているのである。武士の典型である西郷隆盛は文学のわけ知りを「書物の虫」と呼んだ。
三浦梅園は、実際に役立つまでは何度も煮る必要のある臭いの強い野菜に学問を例えている。また梅園は、知識というものは、それが学習者の心に同化し、かつその人の性質に表れるときにのみ真の知識となると述べた。
知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられたのである武士道は知識のための知識を軽視した知識は本来、目的ではなく、智恵を得る手段であるとした。したがってこの目的に到達することをやめた者は、求めに応じて詩歌や格言を生み出す便利な機械以上のものではないとされた。知的専門家は機械同然だったのである。
このように知識は、人生における実際的な知識適用の行為と同一のものとみなされた。このソクラテスの哲学にも通じる思想は「知行合一」をたゆまず繰り返しといた中国の思想家、王陽明をその最大の解説者として見出したのである。新渡戸稲造によれば、神道の単純な教説に言い表されているように、日本人の心は王陽明の教えを受け入れるために、特に開かれていたという。
陽明が、人間性の根本に「良知」というものを考えたことは、単なる学説としてみれば
一つの理論にすぎない。しかし、この理論は「知行合一でなければならない」という信念に支えられている。そして、その信念が時代の要求に応じて武士の生き方を規定していったのである。
新渡戸『武士道』を英文から翻訳した歴史学者の奈良本辰也によれば、近世封建社会は、それが朱子学を採用したことによって、著しく無宗教的になっていたという。わが国の思想や宗教のあり方を永く規定してきたのは、言うまでもなく仏教であった。人々は仏の教えに導かれて生き、そしてその安心を得て死んだのである。その生活が厳しければ厳しいほど、彼らは仏の教えに従った。
しかし、朱子学はこの仏教に対して激しい敵意を抱き、人倫を乱すものとして攻撃した。つまり仏教が、現世を仮の世と説くことによって、現実の社会関係や道徳観念を相対化するというのである。林羅山によれば、仏教は「山河大地を以て仮となし、人倫を幻妄(げんもう)となす」ゆえに不可であり、拒否さるべきなのである。
仏教をより深いところから考えた中江藤樹でさえ、「仏教は無欲無為清浄の位を悟りの位にしているが、これは本体と現象の関係を理解しないで、現象面からのみ、人間の行動を規制していっているから十分でない」と述べている。ここでも、仏教というものは大きな意味を与えられておらず、代って儒教が精神的権威とならなければならないのである。奈良本辰也は、著書『武士道の系譜』に次のように書いている。
「だが、儒教という現実的な道徳学は、人間の心をその内面的な絶対の位置においてとらえることができるであろうか。ということは、そのために死に、そのために生きる絶対的なものを、人間の心のなかに定着することができたであろうか。朱子学的な合理主義では、それは困難であったと言うよりほかはない。なぜならば、その合理主義は生の側面においては一貫したものを持つことができようが、死という問題については人々を安心させる説明を持ち得なかったのである。簡単に言うならば、死は非常理なのだ。合理的説明ではとらえることのできない非合理性をもっている」
陽明学が、きわめて精神的なものを持つ理由もそこにあった。もともと武士道なるものは、その人間の生死の関わるところに生まれてきたのである。『葉隠』の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」はあまりにも有名だが、大道寺友山(だいどうじゆうざん)の『武道初心集』の冒頭にも、「武士たらむものは正月元日の朝、雑煮の餅を祝ふとて箸を取初るより其年の大晦日の夕べに至るまで、日々夜々死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候」とある。
いま、その死が後背に退いたといっても、自分を律する規範がそこで霞むようなことがあってはならない。宗教的な信念によるものでなければ、自分の心による絶対的な判断力なのだ。陽明学はそれを「良知」と名づけ、それを発動することに最高の意味を与えたのである。生死をかけて武士の道を教える方法が、時代とともに古くなるにつれて、それに代るものとしての陽明学は精神至上主義を強めていったのである。
明治維新のキーマンとなった吉田松陰は陽明学を学び、高杉晋作や久坂玄端といった弟子に授けた。維新のスイッチャーとなった西郷隆盛も陽明学の徒であった。近年、「ラスト・サムライ」なるハリウッド映画が大ヒットし、武士道ブームが起こったことは記憶に新しいが、最後のサムライ・勝元のモデルは西郷隆盛であるという。最後まで、武士道は陽明学とともにあったのだ。