平成心学塾 宗教篇 アンドフル・ワールドを目指して #014

閉講にあたって

「アンドフル・ワールドに向って」

 

私は、かなりの時間をかけて、ひたすら宗教について考え、思いつめてきた。つねに頭の隅にあったのは「宗教とは人間にとって何か」、そして「宗教は人間にとって必要なのか」という素朴な疑問であった。
宗教学者ルードルフ・オットーは、「ヌーミナスなもの」つまり聖なるものという感覚こそが宗教の基礎であると信じ、不朽の名著『聖なるもの』を書いた。宗教哲学者ミルチア・エリアーデは、人間を「ホモ・レギリオースス」(宗教的人間)と表現した。人間とは、聖なるものを求め、宗教なしには生きていけない存在なのだ。そして私には、さまざまな神を信じ、さまざまな宗教を生み出してきた人間というものがとても愛しく感じられる。気の遠くなるほど長いあいだ、最大かつ最高の愛情のベクトルを神や仏といった聖なるものに向け続けてきた人類が、まるで白馬の王子様や愛しのダーリン様に憧れる「夢みる夢子」のようで、健気で可愛い存在に思えてならないのだ。
やはり宗教とは、人類にとって必要不可欠なものであると私は確信する。何だかんだと言っても、とどのつまり宗教は人間の救済システムであるはずだ。人間はほんの短い人生の間に老病死や貧困や人間関係など、さまざまな苦悩を抱え、しばしば絶望に至る。一切の希望の光を見失い、自ら生命を断つ者も少なくない。
そんな危機的状況から救い出してくれて、人々に「生きる意味」を与えてくれるものが宗教に他ならない。宗教はまた、究極の不安である「死」の不安から人間を解放し、「死ぬ覚悟」を与えてもくれる。つまり、宗教は人間の心を救い、かつ豊かにしてくれるのだ。その救いのメカニズムとして、神の観念、聖職者、儀礼、修行、経典といった、実に手の込んだ仕掛けが用意されているのだろう。
どれだけ多様な形式があるにせよ、あらゆる宗教は神や仏といったサムシング・グレートに最大の価値を置くとともに、人間の心というものにも大きな価値を置いている。「人の心はお金で買える」などと主張する宗教は当然ながら存在しない。それぞれ教義は違っても、いずれの宗教も、心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティへの水先案内人となりうるのだ。そして、最終的に戦争を回避する平和エンジンとなりうるのも、やはり宗教しかないのではないだろうか。
社会学の巨人マックス・ヴェーバーは、宗教とはエートス、つまり行動様式であると説いた。その定義によると、いわゆる宗教だけでなくイデオロギーもまた宗教の一種となる。マルキシズムも資本主義も武士道なども宗教となってしまう。でも、人類の歴史のなかで最大級のエートスは、やはり宗教にとどめをさす。人間の営み数々あれど、宗教ほど歴史があって、かつ興味深いものはない。
本書の基本構想は、昨年つまり二〇〇六年の一二月に浮かんだ。きっかけは二つある。まず、一六日に韓国の三つの大学から日本の冠婚葬祭視察団が来日した際、私が特別講師を務めた。最初に、ヨン様にはじまる韓流ブームの猛威についてふれたあと、私は、「しかし、日本は韓流ドラマなど及びもつかない素晴らしい贈り物を二つも朝鮮半島からいただいています」と前置きし、「それは、仏教と儒教です。この日本人の心の二本柱ともいうべき両宗教は、中国から朝鮮半島をわたって、日本に入ってきました。そして、もともと日本にあった神道と共生して、三者は互いに影響し合い、また混ざり合いながら、日本人の豊かな精神文化をつくってきました。その果実が冠婚葬祭です」と述べたのである。
そのとき、韓国の大学教授や学生さんたちの関心を大きく引いたようで、かなりの数の質問が寄せられた。その後、今度は韓国側から招かれ、私は今年の五月から六月にかけて訪韓し、「日本における神道・仏教・儒教と冠婚葬祭」をテーマに複数の大学で講演をしたという次第である。
もう一つのきっかけは、一二月二四日、すなわちクリスマス・イブであった。この日、私は鎌田東二氏が理事長を務める「NPO法人・東京自由大学」で行われた玄侑宗久氏の講演会を訪れたのである。講演は仏教の深遠にふれる実に刺激的な内容だった。玄侑氏は、拙著『ロマンティック・デス』の文庫版の解説を書いていただいた方で、そのオリジナル単行本は鎌田氏に捧げたものである。つまり、私は『ロマンティック・デス』をめぐって両氏との縁をいただいたわけだ。言うまでもなく、鎌田氏は神道におけるオピニオン・リーダーであり、玄侑氏は仏教におけるオピニオン・リーダーだ。私は、敬愛してやまない両氏の著作はすべて読んだ。
私の書斎と会社のデスクには、鎌田、玄侑両氏と私のスリーショット写真が飾られている。エディターの内海準二氏が撮ってくれたものだが、両巨頭の間に挟まれて、私が本当に嬉しそうにニッコリ笑っている。(ムーンサルトレター第4信に写真掲載)
「神の道」を求めておられる鎌田氏、「仏の道」を歩まれる玄侑氏、そして、私はやはり孔子の精神的末裔として「礼の道」を進み行きたいと、そのとき思った。それは別に儒教を学問として究めるということではなく、「礼」を形にした冠婚葬祭という営みを通してという意味である。
まことに不遜ながら、お二人とともに日本人の死生観にレボリューションを呼び起こし、いつの日か二〇〇五年一二月二四日が、賀茂真淵と本居宣長が邂逅した「松阪の一夜」ならぬ「あの三人が参集していた聖夜」と、後世の人々に語り継がれてみたいと心から願う。そのためにも、より一層の精進を重ねる覚悟である。そして、この夜、『神道&仏教&儒教』を書き下ろす決心をした。
前作を読んでいただいた多くの方々から、「イスラム教のとらえ方が一変した」とか「これまでイスラム教は怖いと思っていたが、誤解が解けた」などの感想が寄せられることが多い。たしかにユダヤ教、キリスト教に比べて、イスラム教は日本人にとって未知の部分が大きい。特に、9・11以降は、自爆テロも辞さない好戦的な宗教と一方的に思われてきたところがある。そのイスラム教に対する見方が変わったというのは本当に著者冥利につきる。
その意味では、儒教も誤解されている宗教である。多くの日本人は、儒教を堅苦しい封建主義の遺物ととらえたり、宗教ではなくて単なる道徳倫理であると思い込んでいるようだ。おそらく、本書を読んだ方は、儒教ほど宗教らしい宗教はなく、神道や仏教にも多大な影響を与えてきたことを知って、驚かれるのではないだろうか。前作がイスラム教の誤解を解いたのなら、本書では儒教の誤解が解ければ幸いである。
いま私は、沖縄は那覇の「波の上ビーチ」に来ている。青く美しい海が見えるが、その海の向こうには中国の上海がある。「波の上ビーチ」の隣は神社。イザナミノミコトを御祭神とする波上宮(なみのうえぐう)である。その隣は寺院。真言宗高野山派の波上山護国寺である。さらにその隣は孔子廟と至聖廟。孔子と道教の神々がともに祀られている。いかにも「守礼の那」と呼ばれる沖縄らしいが、ここでは、わずか数百メートルの圏内に道教も含め、神道、仏教、儒教の宗教施設が隣接しているのである。三宗教が共生しているのである。まさに、「沖縄のチャンプルー文化ここにあり!」を見せつけられる思いがする。ここではすべてが「&」である。
前作では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三宗教の間に「vs」を入れた。歴史および現状を見ればその通りであるが、このままだと人類社会は存亡の危機を迎えることは明らかである。本書では、神道、仏教、儒教の間に「&」を入れた。これまた、日本における三宗教の歴史および現状を見ればその通りだからである。
そして、なんとか日本以外にも、広く「&」を広めていきたいというのが、本書に込められた最大の願いである。「vs」では人類はいつか滅亡してしまうかもしれない。「&」なら、宗教や民族や国家を超えて共生していくことができる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教をはじめ、ありとあらゆる宗教の間に「&」が踊り、世界中に「&」が満ち溢れた「アンドフル・ワールド」の到来を祈念するばかりである。