第五講「仏教と儒教」
第五講「仏教と儒教」
誰の発案かは知らないが、「世界の四大聖人」というものがある。その顔ぶれは、ソクラテス、ブッダ、孔子、イエスだが、西洋からソクラテスとイエス、東洋からブッダと孔子と、二人ずつ選ばれているところにバランスの良さを感じる。その東洋代表の二人、ブッダは仏教の、孔子は儒教の、それぞれの宗教の創始者である。
宗教といえば、現代の世界で重要な存在となっているイスラム教の創始者ムハンマドを加えて「五大聖人」にするという考え方もあるようだ。しかし世界史において、ムハンマドのイスラム教は、同じ唯一絶対の神を信仰しながらもイエスのキリスト教と対立し、激しい宗教戦争を繰り広げてきた。では、ブッダと孔子の教えを守る仏教と儒教にはそのような不幸な関係はなかったのであろうか。
宗教評論家ひろさちや氏の著書『仏教と儒教』は両宗教の違いをQ&A方式でまとめた好著だが、その中に「仏教と儒教のあいだには、宗教戦争のような激しい対立が過去の歴史にありましたか」という質問に対して、ひろ氏が答えている箇所がある。
それによれば、まず中国における儒教への弾圧を見ると、そこに仏教の影はない。歴史上の最初の儒教への弾圧は、紀元前二世紀の秦の始皇帝による「焚書坑儒」である。これは始皇帝の支配の末年に近い前二一三年に行われた。儒教の学者たちは、過去の周公の時代の礼楽制度を理想とし、現実の始皇帝の政治を批判する。これに怒った始皇帝は、医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業の書などの実用書を除くすべての諸子百家の書物を焼き払い、翌年には一六〇人の儒者を坑殺した。しかし、始皇帝は別に仏教徒ではない。この事件は、仏教伝来以前の出来事であり、仏教と儒教の間の問題ではないのである。
中国への仏教の伝来は、文献上は『魏略』にある元寿元年(前二年)説が有力だが、少なくとも五七年から七五年にかけて在位した後漢の明帝の頃には、中央の貴族や知識人の間に仏教信者がいたことは確かである。
そうした文献上の考証は別として、実際には仏教はもっと早く中国に入ってきたとされる。前一三九年から前一二六年にかけて行われた張騫(ちょうけん)による西域遠征の結果として東西の貿易ルートが開かれたことによって、人の動きとともに徐々に中国に入ってきたようである。その意味では、仏教の中国伝来にあまり大きな摩擦はなかったようだ。ひろ氏によれば、西域の文物とともに仏教が入ってきて、その文物を受け入れた支配層がいつのまにか仏教を受容していたという形になるという。そしてそれが少しずつ民衆の間に浸透していったわけである。
とはいえ、仏教に対する弾圧がなかったわけではない。代表的なものに「三武一宗の法難」がある。四王朝の四人の肯定による廃仏を指す。第一に、五世紀中頃の北魏の太武帝による廃仏。太武帝は、「新天師道」という寇謙之(こうけんし)がはじめた道教教団の熱心な信者となり、寇のすすめで仏教排斥を行った。第二に、六世紀後半の北周の武帝による法難。このときは、文武百官を集めて、儒・仏・道の三教の優劣を論じさせ、道教が仏教に敗れたため、仏教とともに道教までが廃されている。第三に、九世紀中頃の唐の武宗(ぶそう)による弾圧で、これは「会昌の法難」と呼ばれる。道教徒の画策により、仏教のみならず、西方伝来の景教、_(けん)教、マニ教も禁圧された。そして第四が、一〇世紀中頃の後周の世宗(せいそう)による廃仏で、これは国家財政の窮迫が主な動機であった。
ということは、儒教からの仏教への弾圧は、第二回目の北周の武帝によるものだけである。それも宗教戦争と呼べるほどの激しいものではなかったという。
ただし理論上の対立はあった。仏教と儒教の間にまず生じた問題が、僧侶は天子の定めた礼教すなわち儒教に従うべきか、王者の礼教の及ばない人であるべきかということだった。四世紀後半から五世紀初頭にかけて活躍した釈慧遠(しゃくえおん)は、「沙門不敬(しゃもんふぎょう)王者論」を唱え、仏教僧の立場から権力者に反対した。
次に、人間の霊魂は輪廻転生して不滅であるのかどうかという「神滅不滅論」と呼ばれる論争が起こった。四世紀後半から五世紀前半の宗炳(そうへい)の「神不滅論」と、五世紀中頃から五世紀初頭の范_(はんしん)の「神不滅論」が両陣営を代表する。
仏教の伝来は中国人の宗教意識を刺激し、その結果、一世紀には張陵(ちょうりょう)の「五斗米道(ごとべいどう)」、二世紀には張角(ちょうかく)の「太平道(たいへいどう)」という民衆教団が誕生した。これらの教団は道教の前身とされ、古来からの呪術・巫術(ふじゅつ)・医術をベースとしながら、「無為自然」の老荘思想、「不老不死」の神仙術、それに仏教の懺悔のような宗教儀礼を幅広く取り入れ、民衆の支持を得た。
中国の民族宗教である儒教からすれば、仏教は外来の宗教である。非難や攻撃がなされるとすればその点になるが、仏教は究極的には儒・仏・道の三教は一致するといった考え方に立つ。そもそも「道教」という用語は、本来、人の生きる道や道理を説く教えをすべて指していた。それゆえ、仏教に対しても儒教に対してもこの言葉は使用された。儒・仏・道の三教はいずれも「道」の宗教だったのである。
そして、「道」としての普遍妥当性であれば最も優れているものが仏教であると、仏教者はアピールした。先に述べたように、北周の武帝が三教の序列を儒・道・仏の順に定めたとき、はじめて「三教」という言葉が使われたとされるが、三教の優劣はしばしば問題にされてきた。隋の李士謙(りしけん)は、仏教を太陽に、道教を月に、儒教を五星にたとえている。
その一方で三教の融和も考えられて、「三教一家」とか「万法帰一」との言葉が生まれた。「中庸」を重んじる中国人は、儒教は天理を、仏教は心を、道教は肉体を説くものであり、人間を幸福にするという目標は一致していると考えたのである。
『大漢和辞典』で有名な漢学者の諸橋轍次に『孔子・老子・釈迦「三聖会談」』というユニークな著書がある。儒教・道教・仏教という中国三大宗教の開祖を一堂に集め、諸橋自身が進行役となって鼎談を行うという企画である。いわば、中国においてよく描かれた孔子・老子・ブッダの「三聖図」の文章版だ。
そこで諸橋は、孔夫子こと孔子の「仁」、太上老君こと老子の「慈」、そして釈尊ことブッダの「慈悲」という三人の最主要道徳は、いずれも草木に関する文字であるという興味深い指摘をしている。すなわち、ブッダと老子の「慈」とは「_の心」であり、「_」は草木の滋(し)げることであるし、一方、孔子の「仁」には草木の種子の義があるというのである。すると、三人の着目した根源がいずれも草木を通じて天地化育(てんちかいく)の姿にあったのではないかという想像も必然的に起こってくる。
儒教の書でありながら道教の香りもする『易経』には、「天地の大徳を生と謂う」の一句がある。物を育む、それが天地の心だというのである。考えてみると、日本語には、やたらと「め」と発音する言葉が多い。愛することを「めずる」といい、物をほどこして人を喜ばせることを「めぐむ」といい、そうして、そういうことがうまくいったときは「めでたい」といい、そのようなことが生じるたびに「めずらしい」と言って喜ぶ。これらはすべて、芽を育てる、育てるようにすることからの言葉ではないかと諸橋は推測し、
「つめていえば、東洋では、育っていく草木の観察から道を体得したのではありますまいか」と述べている。これに対して西洋近代の進化論は、動物の観察によって適者生存・弱肉強食の原理を発見した。これはまさに東洋思想との好対照である。あるいは農耕民族と遊牧民族の相違からかもしれないが、そこにも東西古今の人生観の相違の一端が見られるような気がしてならないと諸橋轍次は言うのである。
また、ひろさちや氏は、三つの宗教の関係について『仏教と儒教』にこう書いている。
「仏教は最初から、道家や儒教の思想や術語をうまく摂りこんできました。翻訳経典の訳語なども、伝統的な中国語が多く使われています。そうすることによって、仏教の外来性を薄めてきました。それも、儒教と仏教のあいだに大きな文化摩擦の生じなかった原因でしょう」
そして、中国における儒・道・仏の三教一致は、日本においては神・儒・仏の三教一致となった。仏教と儒教は日本における二大外来思想だが、外来思想同士であるという点においては、大きな対立が生じようがない。しかも、仏教はいち早く神道と習合し、日本化した。神道と混ざり合うことによって、仏教は「日本人の宗教」になったのである。それに対して、儒教は本来の宗教性を薄めることによって日本文化の中に浸透した。宗教としてではなく、学問や制度や道徳倫理として、儒教は日本人の中に定着したのである。江戸の儒者が仏教攻撃を展開したように、もちろん理論上や学問上の対立はあった。しかし、仏教と儒教が宗教として対立し、日本で宗教戦争を起こすことなど絶対にありえないことだったのである。
日本に入ってきた仏教と儒教にとって、最初にして最大の理解者はやはり聖徳太子であった。日本の神々を尊重する廃仏派から迫害された仏教を蘇我氏とともに日本に定着させ、日本仏教の道を開いたともいえる太子は、『勝蔓経』『維摩経』『法華経』の三経を重んじ、その註釈書としての『三経義疏』を自ら著した。太子がこの三経を選択したことについて、陽明学者の安岡正篤などは、その見識に感嘆せざるを得ないと高く評価している。安岡は著書『日本精神通義』において、次のように述べる。
「三経ともに大乗仏教の根本経典でありまして、これをインド仏教が仏成道三七日後、鹿野苑(ろくやおん)において劣機鈍根の者にこんこんと説かれたという阿含(あごん)に発し、中国仏教が着実卑近な四十二章経から起こっているのに較べると、日本仏教の高邁な起こりに感服せざるを得ません」
また安岡は、維摩詰を形容した「心の大なること海の如し」というにふさわしい聖徳太子は、その註釈にまた『論語』も『孝経』も『左伝』も、さらには『老子』も自由に引用しているということも見過ごすことができないと述べている。太子の儒教理解の深さは、「冠位十二階」や「憲法十七条」にも十分に発揮されていることはよく知られる。
このように仏教にも儒教にも深い理解を示した太子であったが、やはり最大の功績は日本仏教の道を開いたことだろう。太子がファウンダーの役割を果たした日本の仏教は後世、大きな花を咲かせ、日本は世界に冠たる仏教王国となっていったのである。
そのせいか、江戸時代の儒者や国学者は盛んに太子を攻撃している。林羅山などは「八耳(やつみみ)、天皇を弑(し)す」とまで極限している。「八耳」とは太子の呼称であり、「弑す」とは「殺す」の意味だろうから、聖徳太子が崇峻(すしゅん)天皇を殺したということである。しかし崇峻天皇の暗殺は、蘇我馬子が推古天皇に相談して計画・実行されたとされており、太子を犯人扱いにするのは言いがかりもはなはだしい。おそらく、羅山は太子が仏教に肩入れしたことが憎くてたまらなかったのだろう。
また、太子は「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という言葉を残しているが、これも江戸の儒者の攻撃の的になった。摂政とは政治家であり、宗教家ではない。その政治家が、世間はバーチャルであって、ただ彼岸の世界の存在である仏だけがリアルだなどというのは間違っている。それでは、政治家としての責任を果たしておらず、そもそも政治家になるべきではない。このような批判を荻生徂徠などが展開した。
しかし、太子は仏教のみを公式イデオロギーにしたわけではなく、儒教を用いて「冠位十二階」や「憲法十七条」を制定し、現実の政治において多大な業績を残したのだから、この批判も的はずれである。太子には、すぐれたバランス感覚があったのである。
聖徳太子の後、日本の仏教界と中国の仏教界との交流が行われた。最澄、空海らは入唐(にっとう)したが、栄西、道元らは入宋(にっそう)した。その間には約四〇〇年が経過しているが、儒教の歴史において革命的事件が起きている。いわゆる新儒教の誕生である。
北宋に周濂渓(しゅうれんけい)や程明道(ていめいどう)・程伊川(ていいせん)の兄弟、邵康節(しょうこうせつ)や張横渠(ちょうおうきょ)などが出るとともに、儒教も面目を一新し、実践的な儒教に深い思索を加え、精神生活あるいは人格生活の学とでもいうべきものを、それぞれ樹立した。南宋の朱子はこれらの儒教説を集大成し、孔子以来の儒教を再解釈して、宇宙・社会・人間を首尾一貫した論理でとらえようとしたのである。彼の朱子学は、宋学とも呼ばれた。
宋は九六〇年に興った。日本では村上・円融天皇の時代にあたる。藤原氏の盛んな頃で、ずいぶん中国との交流があり、これにともなって次第に朱子学は日本に浸透していった。鎌倉時代に入ってからはいよいよ盛んで、栄西も宋に入ってからは朱子門下の人々と交遊しており、儒教にも通じていたことで有名な肥後の俊_(しゅんじょう)法師も仏書と一緒に儒・道の書籍二五六巻を持って帰った。道元も儒教に造詣が深かった。宋からも、道隆、凡庵、普寧、正念、寧一山などが相次いで帰化したが、いずれも儒・禅ともに精通した大家で、盛んに教化活動に励んだ。このように日本における朱子学は鎌倉時代に禅僧によってもたらされたわけである。
「義」と「利」のわきまえを明らかにし、大義名分を正すこの朱子学が日本人の精神を大きく刺激し高揚させた大きな現象は、まず一三三三年の「建武の新政」である。鎌倉末期、京都に師錬(しれん)という才能ゆたかな禅僧がいた。仏教にも儒教にも精通していた彼は、後伏見天皇や光明院、後村上天皇なども崇敬した人物であった。しかし同時に彼は、燃えるような国家的精神を持ち、門人たちを深く感化した。その著『元亨釋書(げんこうしゃくしょ)』は日本仏教史ばかりか儒教の側からも名著として高い評価を受けている。
その門人に玄慧(げんえ)という天台僧がいた。仏僧よりはむしろ儒者の属する人物であり、宋の司馬光がその全精力を傾け尽くして大成した『資治通鑑(しじつがん)』を愛読し、程氏兄弟や朱子の尊重して、それらの新注を用いて活き活きした講義を行った。後醍醐天応は特にこの玄慧を侍読に挙げている。有名な藤原資朝(すけとも)、俊基(としもと)、藤房(ふじふさ)や花山院師賢(かざんいんもろかた)などの人々は多くこの玄慧に学び、青年の情熱を傾けて、しばしば夜の更けるのも忘れて議論し合った。
天皇はあるとき、資朝たちが『論語』を語るのを立ち聞きし、「玄慧僧都儀(そうずぎ)は誠に達道(たつどう)か」と感服したという。この資朝に何名かが加わって、衣冠を脱いで無礼講を催したとき、玄慧を招いて韓退之(かんたいし)の文集などの講義を聞き、密かに北條氏討伐の秘密計画を進めていたことが『太平記』に面白く伝えられている。
北畠親房(きたばたけちかふさ)もやはり玄慧に学んで『資治通鑑』などに精通し、その大義名分論に深く思うところがあったという。その影響のもとに彼は、『神皇正統記(しんのうしょうとうき)』を著した。楠木正成(くすのきまさしげ)以下の勤皇の諸将も、いずれも朱子学および禅によって精神を鍛えたとされている。
さて、鎌倉時代に起こったさまざまな新仏教は、室町時代に教団として力をつけ、その後は隆盛をきわめていく。そこに立ちはだかったのが織田信長で、比叡山延暦寺の焼き討ち、それに続く一向一揆の拠点である石山本願寺の襲撃など、徹底して仏教教団を弾圧した。当時の延暦寺は戦国大名と手を組んだ武装勢力であり、一向一揆は本願寺を後ろ楯にした小領主たちが結合して起こしたものだった。いずれも、天下統一をめざす信長にとって邪魔な障害物以外の何ものでもなく、完膚なきまでに打ちのめそうとしたわけだ。
その信長に勢いを完全にとめられた仏教教団は、江戸時代になると次第に衰退していく。江戸幕府の巧妙な仏教対策と儒教の受け入れという両政策が衰退を加速させた。
江戸幕府を開いた徳川家康は、信長を反面教師として仏教勢力を正面から敵に回そうとはしなかった。政治の前面に出てこない限り、仏教を許容する姿勢をとったのである。一方で「檀家制度」や「寺請制度」などによって寺院を経済的に保護し、他方で布教の自由は認めなかった。また仏教界の管理のために、本寺・末寺の関係を厳しく統制したのである。
檀家制度によって、すべての家には必ず特定の宗派や寺に属すことが義務づけられた。また寺には、檀家の人々の結婚、転居、就職、旅行の際に必要な身分証明書としての「寺請け証文」を発行させた。幕府が諸寺院に戸籍係の役目を与えたわけで、これによって寺は徳川政権の末端組織に組み入れられ、仏教の権威は地に堕ちた。
檀家制度や寺請制度によって仏教の権威は否定されたけれども、逆に大衆化されて民衆の中に根づいていった。仏教は日本に伝来以来、奈良時代の南都六宗にしろ、平安時代の天台宗や真言宗にしろ、大衆とは縁の遠い存在だった。平安末期までの仏教は天皇や貴族のためのものと言ってもよく、いわゆる高級でセレブな思想だったのである。鎌倉仏教が出現してからは一般の人々の間にも広まるが、それでも武士などの新しい身分集団の人々が中心で、真の意味での大衆にまでは及ばなかったのだ。
それが家康の仏教対策によって、仏教は葬送儀礼を中心とする「葬式仏教」となり、日本中に一気に仏教が広まったという側面を見逃すことはできない。こうして寺の僧侶が人々の葬儀をとり行うようになった。一般大衆に死者の弔いをする習慣ができたのも、この頃である。「葬式仏教」はよく批判の対象とされるが、葬儀や法事・法要などの先祖供養によって仏教が民衆の宗教的欲求を満たし、社会的機能を果たしてきたことは高く評価されるべきだろう。
巧妙な仏教対策によって仏教の権威を否定した家康は、そのかわりに儒教を積極的に受け入れる。それも宗教としての「儒教」ではなく、政治や道徳の学問としての「儒学」を受け入れたのである。儒学を世俗社会における道徳とした家康は、「士農工商」という身分制度を確立して、幕藩体制の強化を図った。古代中国の封建制度をモデルとしてつくられた儒学の政治思想は、圧倒的に仏教よりも幕藩体制に都合がよかったのである。
儒学の説く「五倫」とは、君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信だが、朋友以外はすべて身分的な上下関係である。君臣は言うに及ばず、父子・夫婦・兄弟にしても「家」を媒介としての君主への奉公につながっている。人間関係の全体が家康の構想する身分社会に合致するわけだ。おそらく、家康にとって儒学ほどありがたい政治の道具はなかったはずである。幕府を頂点とする社会的な秩序の維持を図るためにも、仏教にかわって儒学を日本人の道徳として受け入れる必要が、家康にはどうしてもあったのである。
では、江戸時代以降は仏教が日本人の葬式を担当し、儒教が日本人の道徳を担当したのか。事実はそのように単純ではない。「葬式仏教」と呼ばれた日本仏教は儒教の影響を強く受けているのである。それも学問としての儒学ではなく、宗教としての儒教の影響を受けている。
加地伸行氏によれば、葬儀とは死と死後についての説明を儀式という「形」にしたものである。日本の一般的な葬儀のときの祭壇を見ると、柩を置き、白木の位牌を立て、故人の写真を添える。それは事実上は故人のための設営である。彫像であれ絵像であれ、仏教者として拝すべき最も大切な本尊は、一番奥にあたかも飾り物のような置かれているだけだ。名号なら掛けられているだけだが、それさえ、ときには柩や祭壇に隠れてほとんど見えないこともある。いったい、葬儀の参列者の何人が本尊に対して祈りを捧げ、死者を輪廻転生の苦しみから救ってほしいと願っているのだろうか。参列者のほとんどは本尊を拝まず、故人の柩を、位牌を、特に写真を拝んでいる。それは亡き人を思うことであり、加地氏によれば、日本の仏式葬儀では儒教の「招魂再生」をしているのである。
また、位牌のルーツも仏教ではなく、儒教である。位牌というと、故人の戒名を書いて立てるものとして用いられているため、日本人の多くは仏教の習慣だと信じている。しかし、仏教には本来、位牌を用いるという習慣はないのである。作家の井沢元彦氏は『神道・仏教・儒教 集中講座』で次のように述べている。
「よく考えてみればわかることなのですが、仏教は輪廻転生が基本ですから、故人の特定の魂が、例えばヤマトタケルならヤマトタケルが、そのままのかたちでずっと残っているはずがないのです。魂は、輪廻転生によって生まれ変わっているからです。
ところが古代中国には、人間の魂は死んだあとも不滅で、しかも、その人間の個性が失われないまま残るという信仰がありました。輪廻転生も魂は不滅だというのは同じですが、虫や魚などの他の生き物になることもあれば、全く別の人間になってしまうこともあります。そしてその際、前世の記憶をなくしてしまうのが普通です」
そのように古代中国の霊魂不滅説は輪廻転生説とは根本的に異なるものであり、それを象徴しているのが「位牌」なのである。もともと儒教は「原儒」と呼ばれた葬祭業者の集団がルーツとなっているが、彼らが強調したのは「死者の魂は生きており、先祖として私たちを見守ってくれている」という考え方だった。その考えが凝縮されたものこそ、位牌に他ならないのである。葬儀のときに位牌を立てるというのは、もともと儒教に基づく葬儀に用いられた木主を立てるという習慣が日本に伝わったせいなのだ。
墓も同様である。「空」を唱える仏教の考えでは本来、墓というものは不要だが、儒教においては重要である。儒教文化圏の人々は、遺体を残すことに以上にこだわる。なぜなら、遺体にせよ遺骨にせよ、何か形となるものを残しておかなければ、招魂再生のときに困るからである。その意味で、死者の霊魂が憑依する位牌や墓とは、樹木や岩石に神霊が乗り移るという神道の「依代(よりしろ)」にきわめて近い。彼岸の仏をリアルな存在として、この世をバーチャルな虚仮世界と見る仏教にはありえない発想なのである。
さらには、盆の行事も、やはり儒教の祖先祭祀である。というのは、輪廻転生を本当に信じているならば、故人の魂が死後どこに行こうと、そんなことを気にする必要がないはずである。にもかかわらず気にして救おうとするのは、やはり祖先祭祀という儒教的発想がそこには存在するのである。なお、三回忌の期間も仏教ではなく、儒教から来たものである。
恐るべし儒教。儒教ほど、人間の死と死後について豊かに説明してくれる宗教はなく、それは他宗教である仏教の死者儀礼の深奥にまで沈潜していたのだ。「葬」とは、死者と生者との関わり合いの問題である。どんな民族の歴史意識や民族意識の中には「死者との共生」や「死者との共闘」という意識が根にあると言える。二〇世紀の文豪とも呼べるアーサー・C・クラークは、SFの最高傑作として名高い『二00一年宇宙の旅』の「まえがき」に次のように書いた。
「今この世にいる人間ひとりひとりの背後には、三0人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が、地球上に足跡を印した」
この数字が正しいかどうか知らないし、またその必要もないが、問題なのは私たちの側には数多くの死者たちが存在し、私たちは死者たちに支えられて生きているという事実である。独居老人をはじめ、多くの人々が孤独な死を迎えている今日、現代人に最も必要なのは死者たちをも含めた大きく深いエコロジー、つまり「魂のエコロジー」ではないだろうか。そして、それを最もよく形として示してくれる宗教こそ儒教なのだと思う。
現代の日本人は、単なる倫理道徳の儒学との混同から卒業し、奥深く豊かな儒教の精神世界に一刻も早く気づくべきである。