第十二講「冠婚葬祭」
第十二講「冠婚葬祭」
日本において共生した神道・仏教・儒教の三宗教は、冠婚葬祭の中で合体を果たした。
冠婚葬祭とは何か。
それは、結婚式や葬儀といった人生の二大通過儀礼を中心として、人々の心に共感を生み出す装置である。もちろん、結婚式という「婚」と葬儀という「葬」の葬儀だけが、「冠婚葬祭」のすべてではない。
「冠」はもともと元服のことで、一五歳前後で行われる男子の成人の式の際、貴族は冠を、武家は烏帽子(えぼし)を被(かぶ)ることに由来する。現在では、誕生から成人までのさまざまな成長行事を「冠」とする。
「祭」は先祖の祭祀である。三回忌などの追善供養、春と秋の彼岸や盆、さらには正月、節句、中元、歳暮など、日本の季節行事の多くは先祖を偲び、神を祀る日であった。現在では、正月から大晦日までの年中行事を「祭」とする。
冠婚葬祭の意義についても、いろいろな見方がある。民俗学者の宮田登は、著書『冠婚葬祭』で次のように指摘した。人々はハレの日と心得ていて儀礼に参加するわけだが、その際には必ず前提としてケガレの状況が、それぞれ個人のレベルでともなっている。すなわち、「ケガレの排除」ということが冠婚葬祭の一つの目的だというのである。
文芸評論家の斉藤美奈子氏は、著書『冠婚葬祭のひみつ』で次のように推測した。冠婚葬祭とは「生物としてのヒト」を文化的な存在にするための発明品だったのではないか。冠婚葬祭という儀礼の衣を剥(は)ぐと、その下から現れるのは生々しい身体上の諸現象である。結婚とは一皮むけば性と生殖の公認に他ならず、葬儀は肉体の死。元服を迎える一五歳前後は第二次性徴である。すなわち冠は「第二次性徴の社会化」、婚は「性と生殖の社会化」、葬は「死の社会化」、そして祭は「肉体を失った魂の社会化」である。儀礼とは生理を文化に昇格させる装置だったのではないかというのである。
もちろん、冠婚葬祭とは人間の魂の営みであるという見方もある。冠婚葬祭会社の中には、結婚式とは新郎新婦の魂を結合させる「結魂」式であり、葬式とは死者の魂を彼岸に送り届ける「送魂」式であるとして、冠婚葬祭業を「魂のお世話業」としてとらえているものもある。
そういったさまざまな見方をふまえながらも、やはり、共感を発生させることこそ冠婚葬祭の大きな意義であると言えよう。現代でも、結婚披露宴で花嫁が声をつまらせながら両親への感謝の手紙を読む場面や、告別式で故人への哀惜の念が強すぎて弔事が読めなくなる場面などでは、非常に強大な共感のエネルギーが生まれている。また、小さな子どもの七五三や先祖の墓参りのときなどにも、集まった家族の心には、おだやかながらも確実に共感というものが芽生えている。これはかつてイギリスの人類学者ヴィクター・ターナーが「コミュニタス」と名づけたものに通じていると言える。
コミュニタスとは、身分や地位や財産、さらには男女の性別など、ありとあらゆるものを超えた自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方である。簡潔に言えば、「心の共同体」ということになるだろう。ターナーは主著『儀礼の構造』において、ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーの「我と汝」という思想、フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの「開かれた道徳」「閉ざされた道徳」という考え方を援用してコミュニタスを説明する。
コミュニタスは、まず宗教儀礼において発生する。一般に儀式とは、参加者の精神を孤独な自己から解放し、より高く、より大きなリアリティと融合させることを目的にしている。特に宗教儀式においては、一般の信者には到達することができないような宗教的な高みを彼らに垣間見させるという意味合いが大きい。カトリックの神秘家の目的は「神秘的合一(ウニオ・ミスティカ)」の状態に達すること、すなわち神の存在を実感し、一つになるという神秘体験をすることにあるし、熱心な仏教徒が瞑想をする目的は、自我がつくり出す自己の限界を打ち破り、万物が究極的には一つであると悟ることにある。けれども、稀代の高僧ならいざ知らず、誰もが独力でこうした高みに到達できるわけではない。そこで、一般の信者にも参加できる効果的な宗教儀式というものを考案して、彼らにもおだやかな超越体験をさせ、その信仰を深めさせようとしたのである。
これは、キリスト教や仏教といった大宗教に限らない。これまで地球上に登場した人類文明のほとんどすべてが、何らかの宗教儀式を生み出してきた。もちろん、すべての儀式が宗教的であるわけではない。政治集会から、裁判、祝日、求愛、スポーツ競技、そしてロック・コンサートや個人の冠婚葬祭に至るまで、いずれも立派な社会的かつ市民的な「儀式」である。こうした世俗的な儀式にも、個人をより大きな集団や大義の一部として定義しなおすという意義があると言えよう。個人的な利益を犠牲にして公益に奉仕することをすすめ、社会の団結を強めるためのシステムとしては、世俗的な儀式は、宗教的な儀式よりもはるかに実践的である。この機能を軽視することはできない。そもそも社会に利益をもたらすからこそ、儀式的行動が進化してきたとも考えられるのである。
ターナーも、コミュニタスは何よりまず宗教儀式において発生するとしながらも、それを大きく超えて、広く歴史・社会・文化の諸現象の理解を試みている。そしてターナーは、この「心の共同体」としてのコミュニタスに気づくことにより、「社会とは、ひとつの事物ではなく、ひとつのプロセスである」という進化論的な社会観に到達したのである。
そして、「心の共同体」は「共同知」を生む。もともと儀式にはメンバーがある知識を共有するための、いわば「ナレッジ・マネジメント」としての側面がある。企業において、毎日の朝礼にはじまり、新年祝賀式典、創立記念式典、各種進発式あるいは社葬などは、いずれも社員間に「共同知」を生み出すための文化装置であると言えよう。
伝統的共同体においては、「共同知」は儀式のみならず、しきたり、言い伝え、あるいは老人の知恵、民話や童謡、そして祭という形で蓄積され、伝承されてきた。かつてグリム兄弟が採集し、柳田國男が調査してきたのは、このような「共同知」の全貌だったのである。そこには、昔話のようでいて、実はコミュニティを維持し運営するための問題解決の方法や、利害対立が起こったときの対処のノウハウなどが語られていることが多い。逆に、そのような意図があることを忘れてしまった地域や都市において、祭も伝説も形骸化してしまったのである。
もちろん「共同知」は、伝統的共同体の専売特許ではない。情報共有を原則とするインターネットの世界にもよく見られる。しかし、インターネットにおいて共有されるものは記号化された知的情報であり、伝統的共同体のそれは主として記号化されない心的情報であると言えるだろう。当然ながら、冠婚葬祭も心的情報の発信装置である。
社葬や国葬のように残された社員や国民の心を結束させる目的を持つ儀式も存在するが、現在の地球上で最も巨大な共感を生み出す心的情報装置といえば、やはりオリンピックに尽きるだろう。オリンピックはその開閉会式、数々のスポーツ競技、そして他の国の人々との交流によって共感を絶え間なく生み続けるイベントだ。二〇〇四年のオリンピックは、五輪発祥の地アテネで開催されるということでかつてない盛り上がりを見せた。古代ギリシャにおけるオリンピアの祭典競技は、勇士の死を悼む葬送競技として発生したという。その意味で、二一世紀で最初に開催されたアテネ・オリンピックとは、9・11同時多発テロやアフガニスタン、イラクで亡くなった人々の霊を慰める壮大な「人類葬」であったのかもしれない。
オリンピックのみならず、ワールドカップや万国博覧会といった国際的なイベントや、その開会式・閉会式に代表されるように、儀式や祭典とは、人類にとって万国共通の民族感情であり、人間の本能的欲求の集団的なシンボルといってよい。そうした人間感情の最も素朴な欲求として、結婚式ならびに葬儀をあげることができる。
その生涯において、ほとんどの人間が経験する結婚という慶事には結婚式、すべての人間に訪れる死亡という弔事には葬儀という形式によって、喜怒哀楽の感情を近隣の人々と分かち合うという習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われている。この二大セレモニーはさらに、来るべき宇宙時代においても当然継承されることが予想される「不滅の儀式」であり、おそらく人類の存続する限り永遠に行われるであろう。
しかし、結婚式ならびに葬儀の形式は、国により、民族によって、きわめて著しく差異がある。これは世界各国のセレモニーというものが、その国の長年培われた宗教的伝統あるいは民族的慣習といったものが、人々の心の支えともいうべき「民族的よりどころ」となって反映しているからである。
日本の儀式も例外ではない。結婚式ならびに葬儀に表れたわが国の儀式の源は、小笠原流礼法に代表される武家礼法に基づくが、その武家礼法の源は『古事記』に代表される日本的よりどころなのである。すなわち、『古事記』に描かれたイザナギ、イザナミのめぐり会いに代表される陰陽両儀式のパターンこそ、後醍醐天皇の室町期以降、今日の日本的儀式の基調となって継承されてきたのである。
太平洋戦争以後、わが国の社会形態は大きな変革を遂げ、欧米文化の著しい影響を受けた。それにもかかわらず、また、神前・教会式・仏式・人前式といったスタイルの別なく、今日の結婚式の中に、花嫁が白無垢(打掛)から振袖(色直し)にかかわる形において、日本人としての陰陽両儀式の踏襲が見事に表現されている。
現代日本の結婚式を見ると、従来のスタイルのハウスウエディングやレストランウエディングなどの新興勢力が入り乱れて、一種のカオスの状態となっている。このようなカオスの中で、「日本で昔から行われてきた神社での神前式を見直せ」という声も起こっているが、神前式とは決して伝統的なものではなく、その歴史は意外にも新しいのである。それどころか、キリスト教式、仏式、人前式などの結婚式のスタイルの中で一番新しいのが神前式なのである。
もちろん古くから、日本人は神道の結婚式を行ってきた。でもそれは、家を守る神の前で、新郎と新婦がともに生きることを誓い、その後で神々を家に迎えて、家族、親戚や近隣の住民と一緒にごちそうを食べて二人を祝福するものであった。つまり、昔の結婚式には宗教者が介在しなかったのである。神道もキリスト教も関係ない純粋な民間行事であったわけだ。
しかし、日本における冠婚葬祭の規範であった小笠原流礼法は朱子学すなわち儒学を基本としていた。昔の自宅結婚式の流れは当然ながら小笠原流が支配していたから、その意味では日本伝統の結婚式のベースは儒教であったとも言える。
現在も小倉に伝わる小笠原流礼法のルーツは二つあり、一つは、源頼朝の家来だった小笠原長清を祖とする鎌倉時代以来の弓道と馬術の礼法である。もう一つは、足利義満の礼儀作法の師だった小笠原長秀を祖とするもので、室町時代以来の冠婚葬祭や日常のマナー全般の規範としての礼法である。
小笠原流礼法の影響下のもと、日本の結婚式は本来、家の中で完結する行為だったが、明治以後に神社で行う神前結婚式が盛んになった。当時導入されだしたキリスト教式の結婚式に影響を受けて登場し、明治三三年(一九〇〇年)に宮中の賢所で行われた皇太子(のちの大正天皇)と節子姫との婚儀がきっかけである。そのありさまが報道され、民衆の間に、「皇太子殿下のようにおごそかに神前で結婚式をあげてみたい」という声が広まる中で、翌三四年に日比谷大神宮(現在は飯田橋にある東京大神宮)が一般国民を対象に、大神宮の神前で模擬結婚式を行った。さらに翌三五年、アメリカ帰りの高島ドクトルと仙台の豪商の娘、金須松代のカップルによって、実際に民間での神前式第一号が行われたのである。九月二一日、午後四時三0分から三〇分間の挙式、その後は帝国ホテルに移動して披露宴。初の民間神前式はナイト・ウエディングでもあった。
この神前式について、当時の新聞は「立礼である点、簡易軽便にして」と三〇分式をほめたたえている。この日比谷大神宮の「仕掛け」がヒットして、全国各地の神社が神前結婚式を行うようになったのである。なお、ホテルの中に初めて神前式場をつくったのも帝国ホテルで、大正一二年(一九二三年)の関東大震災で日比谷大神宮が崩壊したためであった。
神前結婚式の歴史はたかだか百年にすぎず、それもキリスト教式の導入がきっかけという、いわば外圧によって生まれたものであるという点が興味深い。キリスト教の外圧は、仏教にさえも影響を与えた。日本で仏前結婚式がはじまったのも明治時代の末期で、曹洞宗を皮切りに各宗派が結婚式に参入した。増上寺や築地本願寺でも婚礼が行われている。
結婚式には大きな影響を及ぼしたにせよ、日本におけるキリスト教の布教は不振と言う他はない。鎖国時代は致し方ないとしても、明治六年の切支丹禁制高札撤去から百三〇年たって、いまだに信徒数は百万ほどで、人口比は一%にも満たない0・九%にとどまっている。これでは宗教界の世界シェア三0%の看板が泣くというものだ。
一方、隣の韓国を見ると、日本とは大違いで、二五%である。この二〇年間で大幅に信徒が増えたそうだが、同じ漢字文化圏に属しながら
一%と二五%、この違いはどこから来たのだろうか。いろいろな理由が考えられるが、一つには、キリスト教から見て「入りやすさ」の違いがあったのではないかと言われる。韓国は伝統的な宗教風土として儒教の影響が強いことが知られている。儒教は一五、一六世紀に朝鮮政権と結びついて強い影響力を持ったが、逆に一七世紀以降は王朝とともに衰退する。入れ代わりに、近代化とともにキリスト教が入ってきた。儒教とキリスト教はいずれも「天」という共通のコンセプトを持っていたがゆえに、スムースに交代が行われたのではないかという見方がある。
日本には何があったかというと、基本として古神道に代表されるアニミズムである。自然界のあらゆる事物を霊的存在とみなす「やおよろず」的な宗教観で、キリスト教とは到底かみ合わない。アニミズムに「天」は存在せず、「天」の文字は古代から天皇という最高権力者のものだったのである。そのため日本ではキリスト教伝来の当初から「天」あるいは「天にいます神」という概念を受け取るのに苦労したのだ。キリスト教側から見れば、非常に教義が入りにくい、伝えにくい土地であったのだろう。
その日本で布教が奮わなかったキリスト教が、なぜか教育界とブライダル業界では大成功を収めた。ともに女性のニーズをつかんだことが大きいとされるが、聖心や白百合に代表される女子のミッション・スクールや、上智・立教・青山学院といったキリスト教系大学のイメージは高く、チャペル・ウエディングは今日に至るまで大人気である。神前式の誕生によって後退した教会式も、一九八0年代に三浦友和と山口百恵、神田正輝と松田聖子、郷ひろみと二谷友里恵などの芸能人が教会で結婚式をして以来、現在にまで続く大きなブームとなった。
皇室や芸能人といった「セレブ」の儀式やライフスタイルを一般の人々が真似るという、スノビズムを媒介とした一種のシミュレーションをそこに見ることができる。それ以前にも、昭和を代表する結婚式である皇太子(平成天皇)と美智子妃の婚礼の儀によってウエディングドレスが定着したり、石原裕次郎と北原美枝の結婚披露宴が日活ホテルで行われたことによってホテル婚が流行したりという現象があった。
このシミュレーションは、結婚式のみならず葬儀も同様で、一九八七年の石原裕次郎と八九年の美空ひばりの葬儀はさまざまな形でその後の日本人の葬儀に影響を与えたと言われている。日本においては「神」「仏」「人」の三位一体があると思われるが、ここでは「人」が儀式のトレンドを作っているわけである。
日本人の葬儀について見てみよう。結婚式における神前式と同様、多くの日本人は昔から仏式葬儀が行われてきたと思っている。たしかに、葬儀や法要に仏教が関与するようになったのは仏教伝来以来早い段階から見ることができる。また、日本に至るまでのインド、中国、朝鮮といった各地の仏教にも見ることができる。しかし、仏教の機能は葬儀や法要を主とするようになったのは、日本のみの現象であり、それも江戸時代にまで下る。
すでに室町時代の禅僧の語録には葬儀や法要での法語が多く含まれ、葬式仏教化が少しづつ進む様子がわかるが、仏式葬儀の普及を決定的にしたのは徳川幕府による寺請(てらうけ)制度であった。キリシタンの追放を決めた幕府は「キリスト教禁止令」を出したが、人々がキリシタンでないことを証明するためにはいずれかの寺の檀家になるしか方法がなかった。これが寺請制度である。住民がキリシタンでないことを証明するためには「宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」を作成し、それが同時に戸籍の役目を果たした。
寺院を末端の行政機構として使おうという幕府の企みだが、実際その機能は有効に果たされ、それによって寺院は存続していくことが可能になったのである。その中で、寺院が墓地を管理し、「過去帳」という死者の戸籍を管理することになった。死者との接点という役割も寺院に与えられ、死者を送る葬儀も僧侶による仏式が定着していくわけである。
一方、明治維新後、神道が復興するにつれ、神道式の葬儀を見直す動きがはじまり、仏式とは異なる神葬祭(しんそうさい)が登場した。この神葬祭の主な行事は、帰幽奉告(きのうほうこく)、通夜祭(つやさい)、葬場祭、霊前祭などである。しかし、神葬祭は広く普及するには至らなかった。神道家たちは、葬祭儀礼が仏教に任されている限り、ライバルである仏教の力は弱まらないと見て神葬祭運動を推進したわけだが、結局一部に採用されたのみに終わったのである。葬式仏教はそれほど強固に日本に定着していたのだ。
しかし、その葬式仏教の根底には儒教の存在があった。仏式葬儀では、寺院の本堂集王に安置されている本尊の他、真言宗系なら「南無大師遍照金剛」、浄土宗・真宗系なら「南無阿弥陀仏」、禅宗系なら「南無釈迦牟尼仏」、日蓮宗系なら「南無妙法蓮華経」といった、その宗派のシンボルとなっている重要な言葉を記した掛軸を本尊とする。この掛軸の前に柩を置くが、崇め拝む対象は、あくまでも本尊としての掛軸である。掛軸への拝礼が終ってから柩に対して思いをいたすということが、仏式葬儀における最重要ポイントである。しかし、仏式葬儀参列者のほとんどは、故人の写真を仰ぎ、柩に向って礼拝する。そして故人を想っては泣き、何回も香をつまんで焼香し、遺族に重々しく挨拶するばかりで、本尊をまったく無視して退場する。
また葬儀が始まり、本尊に対する読経が終ると、導師はさっさと退場する。その後、遺族たちによって柩に別れ花が入れられ、次いで彼らが柩を持って出棺となる。このとき、本尊に読経して死者を導いた導師が先に退場してしまい、出棺には立ち会わないことに疑問を持つ人もいる。しかし、その理由は簡単だ。死者は成仏したのであり、仏教では、死者の肉体はもはや単なる物体にすぎないからである。あるいは、成仏しておらず、死者は「中陰(ちゅういん)」と呼ばれる生と死の中間領域に入ったのかもしれない。その場合も、残された肉体には何ら仏教的意味はない。
しかし、儒教は違う。中国哲学者の加地伸行氏は、著書『儒教とは何か』に書いている。
「儒教では、その肉体は、死とともに脱けでた霊魂が再び戻ってきて、憑(よ)りつく可能性を持つものとされる。だから、死後、遺体をそのまま地中に葬り、墓を作る。それがお骨(こつ)を重視する根本感覚となるのである。そうした儒教的立場からすれば、死者の肉体は、悲しく泣くべき対象であり、家族(遺族)がきちんと管理すべき対象なのである。出棺のとき、仏教的には僧侶は関係がなく、儒教的には家族が関係し、その柩を運ぶのは、当然なのである」
儒教学の第一人者である加地氏によれば、
儒教では死者を悼んでいろいろな儀式を行う。始めにまず北窓の下にベッドを設けて、そこに遺体を安置する。これは儒教の規定である。このあと順を追って実にこまごまとした規定の下に儀式を進行する。そして出棺となり、墓地に葬る。死から葬るまでのその間、遺体を家に安置しておくが、このことを殯(ひん)(もがり)という。死後すぐに遺体を葬るわけではない。今日の葬儀において、お通夜をしたり告別式がすむまで柩を安置しているのは、医学や法律の時間制限は別としても、また日本古来の習俗とも融合しているとしても、それは儒教における殯の残影なのである。
儒教では、死から殯の儀式を経て、遺体を地中に葬り、さらにその後の儀式が続くが、そういう一連の儀式全体を「喪」という。遺体を埋める「葬」は「喪礼」の一段階にすぎない。だから儒教的に言えば、「葬式」ではなくて「喪式」である。また、婚礼は昏(くら)い間に行われたことから、日本語の「冠婚葬祭」は儒教では「冠昏喪祭」が正しいという。
仏式葬儀の中には、このように儒式葬儀の儀礼が取り込まれているのである。加地氏によれば、インドにおける本来の仏教に、果たして今のような葬儀の儀礼があったのかどうかさえ疑問であるという。たとえば、明代の儒者である丘濬(きゅうしゅん)が「仏教は中国伝統の喪礼や祭祀の仕方を盗んで葬儀や法要の諸儀礼を作っている」と語ったと、『文公家礼儀節(ぶんこうかれいぎせつ)』の序に出ているのである。しかし加地氏は、「誤解なきようにあえて記すが、日本仏教はもちろんすぐれた宗教として存在する。私は仏教信者でありつつ、儒教的感覚の中で生きている」と述べている。この言葉は、多くの日本人にも当てはまるものだろう。
さて仏式葬儀には、儒教以外の宗教の影も隠れている。葬儀の帰路、会葬者に対して遺族側は答礼として御挨拶をする。そのとき、「清め塩」の小さな紙袋がよく渡される。葬儀が終って帰宅して家に入る前、この清め塩を身体にふりかけるためである。なぜ、そんなことをする必要があるかというと、葬儀で死者と関わり、死の穢(けが)れがついたであろうから、それを除いて清めるための塩なのである。
「死者の穢れ」という発想は、仏教でも儒教でもない。これは日本古来の死生観であり、神道につながっている。日本人は、インド人や中国人と異なり、死者を穢れたものと考えてきた。日本人は人が死ぬと、「不幸があった」などと言うが、死なない人間はいないわけだから、人の人生そのものがすべて不幸で終ることになってしまう。マゾヒズム的というか、非常に奇妙な考え方であり、仏教や儒教では「死」を「不幸」などとは絶対に表現しない。「死」を「帰天」ととらえるキリスト教徒の中には、死者への礼に反するとして「清め塩」を否定する信者もいる。
しかし、いくら世界的に見て奇妙キテレツな死生観であっても、古来の習慣の伝統は簡単には消えない。日本古来の死生観は、仏式葬儀の中にも取り込まれ、ちゃんと生きているのである。
また、儒式葬儀と日本人の死生観とも重なり合う部分がある。仏教ではお骨に何の意味もない。しかし、私たち日本人は依然としてお骨を単なる物体として考えることができない。飛行機や船などの事故の犠牲者の遺体は、たとえ白骨になっていても探し求めようとする。あくまでも霊魂とお骨とを同一視するという意識がある。この感覚は日本人独自の祖霊観、祖霊意識であり、かつまた古今東西、世界中に見られるものである。もちろん、中国にも存在したし、今もある。そして、この感覚を見事に理論化して、さらに体系化したものこそ儒教なのである。加地氏いわく、おそらくそれは世界で唯一の理論体系であるという。
日本人の祖霊感覚は仏教よりも儒教に近いわけである。このように、仏式葬儀の中には、実は神道も儒教も入り込んでいるのだ。武士道や心学と同じように、葬儀においても神道、仏教、儒教が混ざり合っているのである。
こうして見ると、日本人の生活に密着した冠婚葬祭とは、さまざまな宗教の受け皿となっていることがよくわかる。だからこそ、本書の冒頭にも出てきたような、神社と教会と寺を使い分ける日本人のエピソードが多用されるのである。
結婚式場や葬祭会館といった現代的な冠婚葬祭施設においても、さまざまな宗教の共生は日常的に見られる。結婚式場には、神殿もチャペルもあるのが普通だし、創価学会の会員用に仏壇をしつらえた会場を持つ式場もある。最近では、古代ローマ帝国が人類史上で最も離婚が少なかったことから、古代ローマ式結婚式場というのもある。さらには、ギリシャ神話のオリュンポス一二神の神像に囲まれた結婚式、いわば多神教ウエディングなるものも登場して話題を集めている。
葬祭会館においても、日本最大の「北九州紫雲閣」のように、仏式の葬儀会場はもちろん、神葬祭用の神殿や、キリスト教式葬儀用のチャペルまで備えたものもある。葬儀を最後の「自己表現」であり「自己実現」ととらえる人々のために、宇宙葬、月面葬、海洋葬、樹木葬、ガーデニング葬などを実現できる設備も整っている。まさに、何でもあり。宗教的に寛容な日本ならではの施設かもしれない。
最後に、冠婚葬祭を日本最大の宗教であると言う人がいる。宗教嫌いの人間でも、信仰心のまったくない人でも、身内や知人、友人の結婚式や葬儀には必ず参列する。「冠婚葬祭」の四文字こそは、神道も仏教も儒教もキリスト教も超越した日本最大の宗教なのだというのである。
しかし、冠婚葬祭は「宗教」そのものというより、「宗遊」とでも呼ぶべきものだろう。宗教の「宗」という文字は「もとのもと」という意味で、私たち人間が言語で表現できるレベルを超えた世界である。いわば、宇宙の真理のようなものだ。その「もとのもと」を具体的な言語とし、慣習として人々に伝えることを「教え」という。
だとすれば、明確な言語体系として固まっていない「もとのもと」の表現もありうるはずである。音楽やダンスもそうだろうし、儀式というものもそうだろう。つまり、広い意味での「遊び」だと言ってよい。「遊び」についての不朽の名著『ホモ・ルーデンス』を書いたイタリアの文化史家ヨハン・ホイジンガは、「遊びは文化よりも古い」と述べたが、私は拙著『ロマンティック・デス』の中で「葬儀は遊びよりも古い」と書いた。実際、世界史を見ても、相撲・競馬・そしてオリンピックなどの来歴の古い「遊び」の起源はいずれも葬儀と深い関係がある。
そもそも、約一〇万年前にネアンデルタール人が死者を埋葬した瞬間、サルがヒトになったとも言われ、葬儀とは人間の精神的営みにおけるビッグバンであり、人類の存在基盤そのものである。
古代の日本では、天皇の葬儀にたずさわる人々を「遊部(あそびべ)」と呼んでいた。冠婚葬祭と「遊び」のつながりをこれほど明らかにする言葉はない。
二一世紀は「宗遊」の時代である。「宗遊」とは、「死」を見つめ、心を純化する営みとしての哲学・芸術・宗教が統合された大いなる精神の世界である。そして、それは冠婚葬祭そのものでもある。「宗遊」が真に実現されるとき、日本人はもはや、人が死んでも「不幸」とは呼ばないであろう。