平成心学塾 宗教篇 アンドフル・ワールドを目指して #002

第一講「神道の世界」

第一講「神道の世界」

 

宗教には、大きく分けて世界宗教と民族宗教がある。世界宗教とは民族を超えて世界で広く信仰される宗教で、キリスト教・イスラム教・仏教をいう。それ以外の各民族に根ざした宗教が民族宗教であり、ユダヤ教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教、ジャイナ教などがよく知られている。中国で生まれた儒教や道教は、その影響は中国を超えているが、一応、民族宗教とされている。
そして、日本の民族宗教は、広い範囲にわたる信仰、習俗、実践が複合されたものである。これがかなり後になってから、中国から朝鮮半島をへて伝来した外来宗教、つまり仏教や儒教と区別するために「神道」と呼ばれるようになった。
意外なことに、「神道」という言葉は日本のオリジナルではない。もともと中国で古くから使用された言葉であり、儒教の五経の一つ『易経』には「観天之神道、而四時不_、聖人以神道設教、而天下服矣」とある。これにはさまざまな説があるが、だいたい「神異の道」または「霊(くす)しき道」と解釈されている。
これに対して、日本の神道は「神の道」であるとする見方もある。「神」ということは宗教的崇拝の対象をさすことになるため、「神道」という言葉をもって祭祀の意味に解釈するようにもなった。ことに中国の民族信仰が道教という形になって打ち立てられてからは、広く一般に宗教そのものを「神道」と呼ぶようになったのである。
『後漢書』の西域伝によれば、インドからの仏法についての記述に「莫有典書、若無神道」とあり、また「西方有神、名曰仏」ともある。この場合の「神道」は「仏教」をさしているので、一般に宗教を示したわけである。
同じ意味で、「神道」は日本上代の民族信仰を示し、今日まで広く使われてきた。そのため、仏教や儒教を削ぎ落としてきたとはいえ、神道そのものの概念ははなはだ不明確である。歴史的に見ても、その時代、文献の種類や性質によって違っており、古くから「神道」という言葉が見える文献、およびその意図を明らかにすることが求められてきた。なぜなら、それこそが古来の日本人の宗教そして神道そのものを明らかにすると考えられたからである。
神道は、日本人にとって、ごく身近に存在している宗教だ。しかし、あらためて「神道とは何か」と問われると、よほど神道に近い人でも明確には答えにくいものである。神道研究のメッカといえば、なんといっても、国学院大学の神道科だ。その国学院大学教授を務めた神道神学者の小野祖教でさえ、「神道とは何か」との問いは、「専門家でも、必ずしも十分な用意をもって答え難いとなげく。また、知っていることより、知らないことの方が多い」と述べている。
たしかに神道はわかりにくい。よく、日本固有の民族宗教であるとか、アニミズムであるとか、自然崇拝と祖先崇拝と天皇崇拝の三つの要素から成るものであるとか説明される。もちろん、それも間違いではないけれど、神道の持つ広大で豊かな世界を前にしては何とも物足りない感がある。そういった中で、国学院で小野祖教に神道を学んだ経験を持つ一人の宗教哲学者がすっきりとした説明をしてくれる。鎌田東二氏である。神道学者として研究人生のスタートを切った鎌田氏は、世界のあらゆる宗教や神秘主義にふれていくうちに、とらえどころのない「神道」の形を宗教哲学者として浮き彫りにしていった。
鎌田氏によれば、「神道」という言葉には二つの意味があるという。ともに「かみのみち」であるが、一つは、「神からの道」、もう一つは「神への道」である。英語で言えば、“The Way from KAMI”と“The Way to KAMI”の二つの“KAMI WAY”である。
「神からの道」とは、永遠の宇宙進化とも宇宙的創造行為とも言える。神道ではそれを「ムスビ(産霊)」の神あるいは力ととらえ、そのムスビの力の発現のプロセスの中に過去・現在・未来があると考えてきた。その意味では、「神からの道」とは、存在の流れであり、万物の歴史である。それは、永遠からの贈り物であり、存在世界における根源的な贈与なのである。それが神話や伝承として伝えられてきたのだ。
それに対して、もう一つの「神への道」とは、その根源的な贈与に対して心から感謝し、畏敬し、返礼していく道である。それが祈りや祭りとなる。鎌田氏は、著書『神道とは何か』に、「祈りも祭りも共にそうした根源的な贈与に対して捧げられる返礼行為であり、感謝と願いである」と書いている。
また鎌田氏は、別の著書『神道のスピリチュアリティ』において、神道をキリスト教や仏教と比較して表現している。しばしば、キリスト教は「救いの宗教」、仏教は「悟りの宗教」と類型化される。むろんキリスト教の中にもグノーシス主義や神秘主義などの「悟りの宗教」的な流れはあり、仏教の中にも阿弥陀仏如来の極楽浄土信仰などのような「救いの宗教」的な要素もある。単純にそれ一色で覆われているのではないけれども、その宗教の原点や原型を「救いの宗教」「悟りの宗教」として表現することは不可能ではなく、非常にわかりやすいと言える。
そして、そのような言い方で神道を表現するとしたら、「畏怖の宗教」であると鎌田氏は述べる。神道は、「救いの宗教」でもなく、「悟りの宗教」でもなく、第一義的に、「畏怖の宗教」であるというのだ。歴史的に見れば、教派神道や神道系新宗教の中には「救いの宗教」的なものも、「悟りの宗教」的なものもある。しかし、神道の原点や原型には厳然と、「畏怖の宗教」の原像が刻印されていると鎌田氏は主張する。
そのことは「カミ」という言葉に端的に表れている。「カミ」という名称の語源については、「上」「隠身」「輝霊」「鏡」「火水」「噛み」など古来より諸説があるが、定説はない。だが、江戸時代の国学者である
本居宣長は大著『古事記伝』で、「世の尋(つね)ならず、すぐれたる徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と「カミ」を定義した。つまり現代の若者風に言えば、「ちょー、すごい!」「すげー、かっこいい!」「めっちゃ、きれい!」「ありえねーくらい、こわい」「ちょー、ありがたい」などの形容詞や副詞で表現される物事への総称が神なのである。
さて、神には「チハヤブル(千早ぶる)」という枕詞がつく。この意味を知るには、日本人の霊魂観について知らなければならない。現代における最高の神道テクストである鎌田氏編著の『神道用語の基礎知識』に沿って、説明したい。
霊魂を表す一音節の古語に、「チ」「ミ」「ヒ」などの言葉がある。「チ」という言葉を持つ神名は、火の神カグツチ、木の神ククノチ、草の神ノヅチ、雷の神タケミカヅチ、そして大蛇のヤマタノオロチなどを古典の中に見つけることができる。これらの神名は自然現象や自然物の霊格を表すが、チはそのような自然の中に潜む生命力や勢いを意味している。だから「チハヤブル」という神の枕詞は、神の霊威であるチが凄まじい勢いで活動するという意味で、「血」「乳」「力」などの言葉も同じように根源的な生命力や霊威を表す観念に基づいている。
「チ」の神よりも広い概念を持つのが「ミ」の神であり、海の神ワタツミや山の神ヤマツミという自然の神が代表的だ。
「ヒ」はより抽象的な霊力を表す語であり、マガツヒノカミ(禍津日神)やナオヒノカミ(直日神)などに見られる。宇宙に誕生した最初の神であるアメノミナカヌシ(天之御中主)と並んで「造化三神(ぞうかさんしん)」に数えられるのが、タカミムスビミ(高皇産霊尊)とカミムスヒ(神皇産霊尊)の二柱の神だが、いずれも「ムスヒ」という語が見られる。これは、一音節で霊力を表す「ヒ」に、自然に生成するという意味の「ムス」がついた言葉である。「産霊」という表記がそのまま示しているように、万物を創造する霊力であり、天地生成の根源的な霊力を意味する。
霊魂を意味する言葉には二音節のものもある。現代人にも理解されやすい「モノ」「タマ」「カミ」がそれだ。「カミ」については、すでに述べた。「モノ」は現代では物質のことであると思われているが、古くは霊魂を意味した。古代の氏族である物部氏の「物」は、この豪族が祭祀や軍事という神や人命を司る役割にあったことに由来する。
「モノより心」という言葉に代表されるように、物質と霊魂は正反対にあるものと現代の日本人は見ている。しかし、天地開闢(てんちかいびゃく)の神話には、日本の神々が自然物を創造したのではなく、天地の間にある物から神々は生まれてきている。したがってユダヤ・キリスト教のような霊魂と物質の二元論ではなく、いわゆる物にも霊性を見るという世界観なのだ。
平安時代になると、モノは「物の怪(け)」
という表現で、怨霊や死霊を意味するようになる。これも本来は邪悪なものではなかった「オニ」と同じように、神々よりも低いレベルの霊的存在と見られたわけである。この古代的なモノ感覚は、中世に広まった妖怪の観念を生むことになる。
モノやオニは邪悪な方面へと働き、人々に恐れられたが、「タマ」という表現は人間に恵みをもたらす霊格として使用された。タマには、振り動かされることによって活性化される生命力と、身体から遊離しようとする場合の二つのタイプがある。それぞれ「魂振り」「魂鎮(しず)め」の鎮魂の儀式によって、人の状態を良い方向に導こうとした。タマとは、人の身体にあって人を健全に生かしめ、幸いをもたらす霊魂なのである。また、「生霊(いきりょう)」という言葉があるように、普段と異なる精神状態のときには、人に死をもたらすことなくタマは身体から離れ出ることがあると考えられていた。
また、神や人の霊の作用として、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)の四つがあるとされる。和魂は静的調和、荒魂は動的活動、幸魂は幸いをもたらす働き、奇魂は霊妙な作用を讃えた名称である。それぞれ個別に奉納されることがあり、伊勢神宮内宮である荒祭宮にはアマテラスの荒魂が祀られ、大神(おおみわ)神社にはオオクニヌシ(大国主神)のもとに海の彼方から幸魂と奇魂がやってきて、三輪山に住むようになったことによる。タマが身体から離れようとすることがあるとされていたように、身体を離れた魂が別の場所で活動することがあると考えられていたのだ。
神道は、神々とともに人間の霊魂を探求する学問でもある。それは「心霊主義」と訳され、一九世紀にイギリスで盛んになったスピリチュアリズムが日本に入ってきたとき、その受け皿となったのが古神道や神道系の新宗教であったことが証明している。余談ながら、テレビや出版で大活躍している某霊能力者は、国学院の神道科出身であるという。
「チ」「ミ」「ヒ」などの古語が広大な世界へと拡張していく背景には、神道の「言霊(ことだま)思想」がある。これは、口に出した言葉が現実に何らかの影響を与える霊力を持っているとする考え方だ。つまり、音声としての言葉が現実化していくとされ、「祝詞(のりと)」を奏上する場合などは特に誤読のないように注意された。現在でも、結婚式の席における「別れる」とか「切れる」といった言葉や、受験のときに「落ちる」という言葉を使わないようにするのも、このような言霊の信仰に由来している。
それと関連して、自分の意思や感情を積極的に言葉に出すこと、つまり、言いたいことを言う行為は「言挙げ」として良くないものとされた。特にその言葉が自分の慢心によるものであった場合、悪い結果がもたらされるゆえにタブー視された。
たとえば『古事記』には、ヤマトタケルノミコト(倭建命)が伊吹山(いぶきやま)に登ったとき、山の神が白猪になって現れたが、ヤマトタケルが「これは山の神の使者であるから、今でなくとも帰りに殺そう」と言挙げして先に進んだところ、その神の祟りにあって苦しんだとある。神への信頼があれば、わざわざ言挙げする必要はなく、言挙げは神と人との一体感を冒すものである。このような考えが、日本を「言挙げせぬ国」としてきたのである。しかし、その「言挙げせぬ」伝統ゆえに、後から日本に伝来してきた仏教の経典に書かれた豊かな言語世界の前で劣勢に立たされた事実を忘れてはならないだろう。
鎌田氏によれば、宗教にはまた、「伝え型の宗教」と「教え型の宗教」の二種があるという。伝承型宗教と説教型宗教と呼んでもよい。仏教やキリスト教やイスラム教などの世界宗教はまた、創唱宗教でもある。すなわち、ブッダやイエスやムハンマドといった開祖を持つが、神道は、いつ誰が始めたとも知れず、神話や儀礼として部族や民族の伝承の中に伝えられてきた伝承型宗教である。それは「伝承の森」とも「伝承の海」ともいえる共同性に支えられて存在してきたものであると鎌田氏は述べている。
「畏怖の宗教」であり、「伝え型の宗教」である神道は、日本人の心の奥の奥にまで影響を与えていると言える。ふだんは神仏など信じない人でも、厄年を迎えるとどうも不安になり、神社で厄除け祈願をすると安心する。伊勢神宮の心御柱(しんのみはしら)にならって言えば、日本人の心の柱となっているのが神道である。
なんといっても日本人のアイデンティティの根拠は、神話と歴史がつながっているという物語だ。神話によると、現在の天皇家の祖先が天を支配するアマテラスオオミカミにつながることを日本人は知っている。ツクヨミノミコトが海を支配し、スサノオノミコトが地を支配したことも知られている。アマテラスはいまも伊勢神宮に祀られており、その子孫が皇室であるとされている。ツクヨミの場合はほとんど記録に残っていないが、スサノオは出雲の神へと連なり、その子孫が連綿と続いて、一族の一人は戦前の東京市長も務めていた。
このように神話時代が現在まで続いているのは日本だけであり、そこに日本文化の最大の特色があると言う人もいる。いわゆる歴史的事実ではないけれども、神話の時代と断絶しないでつながっているという感覚は、戦後の日本において、公の場から追放された。
ただ、国民は神話につらなる伝承から切り離されることを全部望んでいるかというと、潜在的にはそうではないと私は思う。たとえば新年になると、明治神宮だけでも元日に三百万人以上の参拝人が集まる。世界のいかなる教会でも一日に数百万人も押しかけるということを聞いたことがない。そのありえない現象が日本中の神社において見られ、すっかり正月の風物詩となっているのである。日本人は誰が命ずるのでもないけれど、アイデンティティのもととして、元日になるとインプットされたデータが作動するように、「出てきなさい」という呼びかけがあるごとく神社へ行く。受験勉強で忙しい受験生はなおさら行く。ここに日本人の潜在的欲求を見るような気がする。
また、日本人は正月になると門松を立て、雑煮を食べ、子どもたちにお年玉をわたす。ここにもインプットされた神道のデータが作用している。門松によって、「お正月さま」といわれる神霊や祖霊をお迎えする。鏡餅をつくって床の間にお供えし、雑煮を食べ、神霊の力とその年の魂、つまり年魂(としだま)をいただく。本来、お年玉とは、その年の魂をいただくことを意味した。それは古くは餅で表されたが、やがては子どもに対する小遣いのお金として表現されるようになった。お年玉とは、その一年が無事息災で健康に生きられるよう年魂(としだま)をいただく象徴的行為なのである。お年玉とは、クリスマスプレゼントのように、神様からのプレゼントなのである。鎌田氏は、『神道とは何か』で次のように述べる。
「つまりそれは、魂の贈与であり、生命の贈与であった。その命の贈与によって、今ここに私たちが生きていくことができる。その贈与する偉大な存在、神霊や祖霊に対して感謝の念を表すことが正月の儀礼である」
正月七日になれば七草粥。十五日になれば小正月やトンド祭り。二月になれば節分祭や豆まき。三月に雛祭りで、五月に鎧兜を飾って端午の節句。六月の晦日(みそか)には
大祓(おおはらえ)によって半年分の罪汚れを祓い清め、夏越(なごし)の祓を行う。七月には七夕。八月にはお盆の先祖供養を行い、九月には中秋の名月を祝う。十月、神無月には日本の神々はみな出雲の国に出かけて神集いをする。ゆえに出雲では十月を神在月(かみありづき)という。十一月には収穫感謝祭である新嘗祭(にいなめのまつり)を行い、十二月には冬至の家庭祭祀をして、カボチャを食べたり、ゆず湯につかったりする。このとき、宮中では鎮魂祭が行われる。そして十二月の大晦日には一年分たまった罪汚れを祓い清める大祓を行う。
日本人は、このような季節季節の祭りを年中行事としてとり行うのである。これは、めぐりゆく季節、変わりゆく自然と人々の暮らしを調和あるものに結びつけていくための生活の知恵や工夫であり、祈りと感謝でもある。祭りの中には、日本人の日々の暮らしの祈りや願いや感謝の心が「かたち」となって、込められているのである。「祭りのない神道はない」という言葉があるが、それは教義や戒律などではなくて、そのような日々の暮らしに宿る神道の姿を重視した言葉なのであろう。
では、祭りとは何か。鎌田氏によれば、祭りは自然と人間と神々との間の調和をはかり、その調和に対する感謝を表明する儀式であるという。さらに、祭りには四つの意味があるという。第一に、神の訪れを待つこと。第二に、お供え物を奉(たてまつ)ること。第三に、その威力と道にまつろうこと。第四に、神と自然と人間との間に真釣(まつ)りが、すなわち真の釣り合い・バランス・調和が生まれること。
だから祭りのない神道はありえないし、神道の精神と具体的な実践は、大は国家の祭礼や祭典から、中は町や村といった共同体の祭り、そして小は各家庭の祭りに至るまで、さまざまな祭りを通して表されることになるのである。
鎌田氏の師である小野祖教も、神道の本質を祭祀に見て、祭りを非常に重視した。彼は、共同執筆した『世界の宗教総解説』の「神道」の項に次のように書いている。
「私は、まず、神道を知る為には、神話を研究せよという古い神道家の訓(おし)えをすてたいと思う。神話は大切だが、これを括弧に入れて、まず祭祀を考えてみよと提唱したい。また、いろいろな神道があるが、祭祀中心の神道だけを頭に置き、いろいろな説に煩わされないようにしようと提唱したいと思う」
昔から神道家は神話を重視して、解釈を立てようとした。これは、きわめて自然であり、当然であると言えるだろう。なぜなら、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『旧事本紀』など神道と関わりが深い神典・神書といわれるものの重要な部分が神話であるからだ。
吉田兼倶は「天地を書籍となす」と述べ、本居宣長は『古事記』を中心とし、平田篤胤(ひらたあつたね)は「祝詞」が本だと言った。そして小野祖教は、祭祀を成り立たせている発想の中に神道解明の鍵ありと考えたのである。つまり、祭祀は言葉以上に言葉であり、祭祀が語るところを読みとれば神道がわかるというわけだ。
「まつり」というやまと言葉の原義は「神に奉(つか)へ仕(つかまつ)る」であることを本居宣長は『古事記伝』で説いている。「まつり」の語源は「たてまつる」の「まつる」すなわち供献する・お供えすることに由来するのである。その「まつる」に継続を意味する助動詞である「ふ」がつくと、「まつろふ」となって奉仕・服従の意味となる。「まつり」は、この「まつる」の名詞形なのである。
さて、祭りにおいては「ハレ」と「ヶ」が重要になる。やまと言葉では日常生活を「ヶ」(褻)と呼び、日常の生命力が枯渇すると「ケガレ」(褻枯れ)となる。そこで神を迎え、神にふれて生命力を振るい起こすためにも「まつり」が必要となるわけだ。神を迎える前には「いみ」の期間がある。積極的に身を清める「斎(いみ)」と、消極的に身を守る「忌(いみ)」の二つがある。禊(みそぎ)の原義は「身滌(みそそ)ぎ」とされるが、禊や悪を払拭する祓いには潔斎(けっさい)の意味がある。潔斎とは、神聖な行事の前に、飲食などをつつしみ、沐浴(もくよく)などをして心身を清めることである。
神道においては、このような浄化の儀礼が重要である。それは大きな儀式の前の斎戒や死の穢れに対する忌みといったいくつかの節制からなる。もともとはすべての信者によって実践されていたが、今日では神職によってのみ執り行われている。祓いは、祓串(はらえぐし)を用いる浄化の儀式だが、これを執り行う権利があるのは神職だけである。祓いの後には、榊(さかき)の若木を「玉串」として奉奠(ほうてん)する。榊とは、収穫の象徴としての聖木なのである。また、神に捧げる歌や踊りや「祝詞」を伴った、米や酒などの奉納が儀式の中核をなす。
さて、「いみ」が終わると、いよいよ神を迎える。「まつり」の本番となり、日常のケ(褻)から非日常のハレ(晴れ)に入る。海や川や野をはじめとする種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)をお供えして祈る。日本の古い祝詞には、神への感謝の言葉のみが記されているが、現在では特定の願い事を書き入れることが多い。
そして、神をまつり、神とふれあって人間の魂を振るい起こすために「鎮魂(ちんこん)」を行う。古くは鎮魂を「みたまふり」と訓(よ)んでいたが、今では文字通りに魂を鎮(しず)めることとされている。鎮魂とともに、歌舞などの芸能も奉納する。そうして「まつり」の本番が終了すると、非日常のハレから日常のケに戻る。神送りを済ませて「直会(なおらい)」となり、神に供えた御神酒(おみき)などを飲んで、ハレの世界からケの世界へと帰還するのである。そして酒盛り、つまり「饗宴」となるわけだ。
現在ではこうした形が簡略化されていることが多いが、宮中儀礼、特に天皇の即位の祭祀である大嘗祭(だいじょうさい)などには、祭り本来の精神と形式が受け継がれている。時代とともに簡略化が進んでも、ケからケガレ、ケガレからハレ、そしてハレからケという祭りの基本構造に変わりはない。
「褻枯れ」としてのケガレは、「気枯れ」であり、「穢れ」でもある。人間が死ぬと、「穢れ」という生命の輝きを奪う状態が発生する。そのようなものは徹底的に排除しなければならないが、もし穢れてしまったときは、禊や祓いを行って取り除く。しかし、そもそも穢れないことが一番いいわけである。
神道に詳しい作家の井沢元彦氏は、この考え方が日本における軍隊の問題にきわめて大きな影響を与えたとの興味深い見方を示している。古代から平安時代中頃にかけての日本には、まだ国家が確立されていなかったということもあって、軍隊が存在した。当時は、戦いとなれば、皇族といえども剣で人を殺傷するのは当然であり、たとえば、蘇我・物部の紛争の際は聖徳太子が自ら剣を取って戦っている。また大化の改新では、後に天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が自ら剣を抜いて蘇我入鹿(そがのいるか)の首を討ち取っている。しかし井沢氏によれば、人を殺傷するのは、穢れ思想を持つ日本人にとってはできるだけ避けたいことであった。そのため、時代が下って社会が平和になると、まず皇族がそういうことをしなくなり、次に貴族たちもやらなくなっていったという。
平安時代の中頃には、中国から律令制度が輸入され、国防省としての「兵部省(ひょうぶしょう)」や、警察・検察、つまり犯罪者を逮捕し処刑する部門としての「刑部省(ぎょうぶしょう)」が置かれた。本場の中国には「穢れ」という思想がなかったために軍隊や警察・検察も機能していたが、日本では「穢れ」の思想ゆえに人を殺す仕事が嫌われ、兵部省も刑部省も有名無実の存在となってゆく。当然ながら、取り締まるものがいなければ、国は大いに荒れる。そのうち、国家では対応できないような大強盗団まで登場するようになった。さすがに都では対策を考え、その結果、「検非違使(けびいし)」というものが設けられた。都の治安を守ることを目的としたが、彼らは犯罪者の処刑は行わなかった。平安時代中期には、日本は死刑執行を停止していた。これは、死刑は穢れるからという理由で、やり手がいなくなったからである。同じ理由で、犯罪を取り締まる役職に就く者もいなくなった。井沢氏は著書『神道・仏教・儒教 集中講座』で次のように述べている。
「あまりにも強盗などが横行して困り果てた貴族たちが、自分たちは絶対にそんな仕事はしたくないが、下級貴族なら、金さえ出せば穢れ仕事でもやる人間がいるだろうということで、下級貴族に、本来の律令にはない官をつくってやらせたのが、検非違使なのです」
この「穢れ」思想は、後世の武士の誕生も用意した。自分たちの手は絶対に汚したくないという人々が中央で政権を握り、国家警察は機能せず、軍隊も存在しないというのは、国として異常事態である。そんな異常事態が続く中で、大規模な強盗団、野党団に対抗するためには、世界中どこでもそうであるように、武装して自分たちで自分たちの財産や生命を守る以外には道はない。すなわち、武士団の誕生である。
人を殺せば穢れを浴びるというが、放っておけば財産が盗まれてしまうのだから仕方がないではないか。こちらも武装して悪者どもを叩き斬るしかないではないか。これこそ、武士の論理であり、それはきわめて現実的な理論であると言える。つまり、「穢れ」という考えがなければ、武士の誕生派ありえなかった。井沢氏は同書で、「なぜ武士が興ったのかということを突きつめていくと、実は穢れという神道思想があったから、ということになるのです」と述べている。
たしかに、穢れ思想のない中国や西洋では、王族が武器を取るのは当たり前であり、中国の皇帝もヨーロッパのキングも王者はすべて剣を帯びている。自分の身は自分で守るのが当然であり、手を穢したくないから、戦争は他の人間にやらせるなどという発想はありえない。とすれば、「穢れ」の思想による武士の誕生とは、世界史的に見てもきわめて特殊な例なのである。
「穢れ」は人間の死に関わる思想である。神道では、人間の死後の世界についてはどう考えていたのだろうか。人の日常生活が営まれている世界は「中つ国」と呼ばれるが、それに対する他界や異界については『古事記』や『日本書紀』にさまざまな名称で語られている。神々の集う天上世界としての「高天原(たかまのはら)」は別格としても、「黄泉の国」「根の国」「常世の国」「海郷(わたつみ)」などがある。古代人の感覚では、自分の行動範囲や視界を越えた彼方に魂の故郷があると考えた。沖縄でも、東方海上に「常世の国」に似た豊穣の霊地「ニライカナイ」が存在すると信じられていた。仏教の阿弥陀仏信仰に基づく「浄土」が西方の彼方にあるとされたのに対して、ニライカナイが東方の彼方にあるとされたのは興味深い。
神道の歴史を見てみると、古代の神道においては神々に対する特別な崇敬が含まれていることがわかる。もともと神道の神々は聖域というものを持っていない。それは崇拝の対象が自然のさまざまな力であれ、祖先であれ、単なる概念であれ、同じことである。神域が決定されるのは、神を崇める儀礼がとり行なわれる時に限られる。
神域は神のおわす場所であり、神は山や森や滝といった自然の一部と結びつけられている。神道といえば、現代の人々はまず神社をイメージし、神をまつる本殿や神を拝む拝殿などを連想する。しかし本殿などができるのは後のことで、六世紀に仏教が入ってきて寺院をつくった影響を受けたためである。古くは神聖な山、つまり神体山である「神奈備(かんなび)」、神の来臨する岩や石である「磐座(いわくら)」、あるいは神のよりつく樹木である「神籬(ひもろぎ)」などに神を仰いでまつってきたのである。
現在でも古くからまつられている神社の中には、本殿のないものがある。たとえば奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社には本殿がない。標高四七六メートルの美しい円錐形の三輪山そのものが神体山なのである。奈良市の春日大社も、天理市の石上(いそのかみ)神宮も、古い絵図を見ると本殿が描かれていない。
日本の神社を代表する伊勢神宮や出雲大社には本殿はある。しかし、いずれも木造の簡素な建造物にすぎない。時に、神社の本殿は中国建築のモチーフによって装飾されている。また伊勢神宮には、20年ごとに再建される「御遷宮」の伝統があり、2006年がその年にあたる。
日本の伝統的な生産活動は農業であり、それが季節ごとの祭りや儀礼に関わっている。神道には集団による儀式だけでなく、個人的な祭儀も存在する。エリアーデによれば、神道におけるシャーマニズムの制度と憑依の祭儀は古代的なものであり、これらの信仰の基底にある宇宙論は初歩的であるという。この宇宙論には、宇宙の垂直的な三分法が含まれる場合もあれば、水平的な二分法が含まれる場合もある。すなわち、垂直的な三分法とは「天上界―地上界―死者の地下界」であり、水平的な二分法とは「現世(うつしよ)―常世(とこよ)=永遠の国」である。
もともと古代の日本には社会を構成する諸集団があり、それぞれ固有の神を奉じていた。それが、天皇家を中心とする大和朝廷による国土の統合によって、天照大御神を崇拝するようになったのである。七世紀には、中国の政治制度の影響を受け、「神祇」すなわち神々を監督する中央官庁として「神祇官」が設置された。神祇官はすべての神々を記録したが、その目的は朝廷がそれぞれの神に聖域を設け、それぞれの神にふさわしい崇敬を捧げることである。一〇世紀には、朝廷は三千近い神域を維持している。
儒教が五一三年に五経博士ともに百済から伝わり、仏教も同じく百済から五三八年に伝来した。仏教は、最初、八世紀には国家によって奨励されるようになっていたが、神道とのあいだで、さまざまなドラマが演じられた。
黄金に輝く仏像とともに仏教が日本に入ってきたとき、朝廷では物部氏を中心とした神道派が反対したが、その後紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、六世紀の終わりには大和の斑鳩(いかるが)の地に法隆寺が造営されるまでに盛んになった。神は没落し、鎮護国家の仏教を受け入れた奈良時代の僧たちは、「神々は迷っている」と口々に述べ合った。そればかりでなく、僧たちは神々にありがたい経を聞かせて救おうとさえしたのである。完全に「仏が上で、神は下」という関係ができあがったのだ。そのように高々とした態度で、あちらこちらの神社に祭神を済度するための神宮寺がつくられ、それによって神々は没落をまぬがれたとされた。
ここに八幡神というものが豊前国の宇佐に出現する。後世奈良時代の、津々浦々に八幡社が建てられ、現在では二万五千社を数える。
しかし、奈良時代までは宇佐にしかこの神はいなかった。宇佐こそ、全国におよぶ八幡信仰の発祥地である。
宇佐には、秦(はた)氏とみられる渡来人の一派が住んでいた。『日本書紀』などによると、秦氏は遠く秦の始皇帝の子孫と称していたという。秦の滅亡後、流浪した秦氏は朝鮮半島の漢帝国領であった楽浪・帯方郡にいたようで、五世紀はじめ頃に渡来したとされる。農民の集団ながら、異文化の匂いがあった。秦氏に関しては、大和岩雄氏の大著『秦氏の研究』に詳しい。
さて、仏教渡来の世紀である六世紀の半ば過ぎ、宇佐の秦氏の集団の中で、八幡神という異国めいた神が湧出した。この神は風変わりなことに、シャーマンである巫女の口を借りてしきりに託宣を述べる。それももっぱら国政に関することばかりで、司馬遼太郎などは「よほど中央政界が好きな神のようであった」と、『この国のかたち』で揶揄している。
それまで大和にもシャーマンはいたが、八幡神のように政治好きではなかったのである。
この神は五七一年に湧出したとき、「われは誉田(よだ)天皇である」と名乗った。つまり、応神天皇のことである。最初から人格神だったことで、冬至の他の古神道の神々と異なっており、このあたりにも異文化を感じさせる。さらには、その正体を天皇であると明かしたことによって、朝廷も無視できなくなった。
そればかりではない。仏教が盛んになると、今度は「昔、われはインドの霊神なり。今は日本の大神なり」と託宣したのである。なんと、もともとは仏教の発祥地であるインドの霊神であったと宣言し、新時代に調和したのだ。聖武天皇は仏教をもって立国の思想としようとしただけに八幡神の仏教好きを大いに喜び、七三八年、宇佐の境内に勅願によって弥勒寺を建立させた。これが神宮寺のはじまりであり、後に全国に広まった。シャーマニズムの八幡神がアニミズムの八百万の神々を新時代へ先導しはじめたのであり、世界の宗教史上でもきわめて珍しい出来事であろう。
さらに聖武天皇が大仏を奈良に大仏を鋳造し、東大寺を建立したとき、八幡神はしばしばこの大事業のために託宣した。聖武天皇は非常に喜んで、大仏殿の東南の鏡池のほとりに手向山八幡宮を造営した。これは東大寺の鎮守の神としてである。つまり、神社が寺院を守護したわけである。仏の下に置かれていた神は、このことによって同格に近くなった。これが、平安時代に入って展開される神仏習合という、完全なる同格化のはじまりになったと言えるだろう。
平安時代になると、空海が宮中に真言院を設けた。そして宮中のお黒戸には位牌がまつられ、皇室の菩提寺としての伝統は京都の泉湧寺(せんにゅうじ)に受け継がれている。
日本仏教が特に思想的な創造性を発揮した鎌倉時代には、密教の影響が強い天台神道および真言神道が登場した。天台神道は「山王神道」と呼ばれ、真言神道は「両部神道」と呼ばれている。それに続く数世紀には、神道を仏教から解放しようとする渡会家行(わたらいいえゆき)の「度会神道」(伊勢神道)や吉田兼倶の「吉田神道」などの流れが出てきた。江戸時代においては山崎闇斎(やまざきあんさい)の「垂加神道」に代表されるように、神道と儒教の統合も見られた。
江戸時代で忘れてはならないのは、国学の勃興である。契沖(けいちゅう)・荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)らが現れ、『古事記』『万葉集』をはじめとする日本の古典について深く研究し、契沖の『万葉代匠記』、真淵の『万葉考』、宣長の『古事記伝』、篤胤の『古史伝』などのめざましい成果を残した。学問方法は、契沖の文献主義から春満の古道尊重に移っていったが、古語・古義に通じてはじめて古道の理解が得られるという認識で共通し、儒学の古文辞学の方法に似ている。
国学者たちは古典の研究を通して「日本および日本人」を研究したが、その基盤に神道があったことは言うまでもない。
特に本居宣長は、神代から伝わる神の御心のままで人為を加えない日本固有の道としての「惟神(かむながら)の道」を求めた。具体的には、仏教や儒教との混淆を批判して「復古神道」を唱え、外来文化の影響を受ける以前の完全に純粋な神道の復興をめざした。生涯に一万首の歌を詠み、日本的な美的感性としての「もののあはれ」を論じたことでも有名である。
また、近年になって再評価の著しい平田篤胤は、天狗のもとで五年間修行してきた「神童」寅吉や、前世の記憶を鮮明に覚えている「生まれ変わり少年」の勝五郎、江戸時代の「妖怪大戦争」である稲生物怪録(いのうもののけろく)といった超常現象や怪奇現象を真面目に研究した稀代のオカルト学者であった。それと同時に、夢の中で本居宣長に弟子入りするほどの宣長の信奉者であり、彼の国学は復古神道の流れを継いだ国粋主義的な「平田国学」として幕末における尊王攘夷の志士たちの思想的拠り所とされた。
江戸時代には儒教を学問化した儒学が思想的主流となりつつも、神道と仏教とが混ざり合った「神仏習合」が実質的な国家の宗教だったが、明治時代になると、一八六八年の「神仏分離令」によって、純粋な神道が国家の宗教となった。「国家神道」である。
明治の宗教改革は、皇室を中心とする神道、神域で実践される神社神道、教派神道、そして民間神道などに神道を区分した。皇室の諸儀礼は私的なものだが、神社神道に対してかなりの影響をおよぼした。神社神道は、一八六八年から一九四六年までのあいだ、国家神道そのものであった。その後、神道は中央集権的な組織である「神社本庁」が管轄している。
国家神道の時代は、神職は神道を管轄する官庁である「神祇官」に属する官吏であった。神祇官は、その後、神祇省、教部省、内務省社寺局と変わっていったが、一方で政府は、信教の自由を認めることを余儀なくされていたのである。それは、まず第一にキリスト教の禁制を中止することを意味していた。だが、大日本帝国憲法は、国家によって正式に認められていない宗教は存在する権利がないとして、政治的にはキリスト教を否定しており、神祇官の立場は複雑だった。
神祇官はまた、一九世紀後半以降に現れた新しい諸宗教の分類という、きわめて困難な問題を解決する必要に迫られた。その結果、神道として識別するには曖昧で疑わしいものもあったが、一三の新しい教派が「教派神道」として認められたのである。明治政府のもとでは、神社神道は祭祀を専門としたため、布教活動は民間の神道教団に委ねられたという事情も、教派神道の誕生につながった。
そこで一派独立して活動を展開した神道一三派とは、すなわち、黒住宗忠が開いた「黒住教」、新田邦光が開いた「神道修成派」、千家尊福(せんげたかとみ)が開いた「出雲大社(いずもおおやしろ)教」、宍野半(しんのなかば)が開いた「扶桑教」、柴田花守(はなもり)が開いた「実行教」、平山省斎(せいさい)が開いた「神道大成教」、吉村正秉(まさもち)が開いた「神習教」、下山応助が開いた「御嶽(おんたけ)教」、稲葉正邦を初代管長とする「神道大教」、佐野経彦が開いた「神理教」、井上正鉄(まさかね)の弟子が開いた「禊(みそぎ)教」、川手文治郎(赤沢文治)が開いた「金光教」、中山みきが開いた「天理教」である。
このうち、独特の教義を展開させた金光教や天理教は神道系新宗教に、それ以外は教派神道に分類される。また天理教は一九七0年に教派神道連合会を脱会し、神道と分かれた。「ほんみち」は天理教の分派である。
神道系新宗教では他にも、大本教の存在を忘れることはできない。大本教は一八九二年の正月に突如、艮(うしとら)の金神(こんじん)が降りてきて神憑(かみが)かりになったという老女・出口ナオによって開かれた。一八九八年にナオと出会った上田喜三郎こと後の出口王仁三郎の手によって急速に信者を増やしていったが、須佐之男命の魂を持つという王仁三郎の時代の枠にまったくとらわれないハイパーなアナーキー性のため、一九二一年と一九三五年の二回にわたって当局から大弾圧を受け、今では大本教そのものとしては衰退してしまった。
しかし、「生長の家」を創立した谷口雅春をはじめ、「世界救世教」の教祖である岡田茂吉、「三五(あなない)教」の中野与之助、「神道天行居(しんとうあまのゆきだて)」の友清歓真(ともきよのりさね)などがいずれも、かつては王仁三郎の弟子であり、大正期の大本教の青年幹部を務めた事実を知れば、大本教がまさに現代宗教の「おおもと」であったことがわかる。さらに、念写の福来友吉と並ぶ「心霊学」の大家であった浅野和三郎や、合気道の開祖として知られる植芝盛平らも王仁三郎の右腕であったと聞けば、今さらながらに「日本霊学のダム」としての大本教の巨大さを思い知らされる。
そして、民間神道。これは、アマテラスをはじめとする伊勢神宮系の「天津神(あまつかみ)」でもなく、スサノオをはじめとする出雲大社系の「国津神(くにつかみ)」でもない神々を信仰するもので、民間信仰と言い換えてもよいものである。その信仰の対象は、八幡神、稲荷、天神、明神、道祖神、屋敷神、竃(かまど)の神、便所神などである。
これらの民間神道あるいは民間信仰を研究する学問が日本民俗学であった。柳田國男(やなぎたくにお)をパイオニアとする日本民俗学は、ヨーロッパのフォークロアや歴史学や民族学などとともに、国学をその祖先の一つとした。江戸時代における国学は「私たちはどうしてここにあるのか」という日本人のアイデンティティを求めるべく、『古事記』をはじめとした古典研究を続けていった。一方、日本民俗学は明治以降の西洋の文物や思想の流入、そして変化する生活を前にして、やはり日本人のアイデンティティを求めていったのである。
柳田國男と並ぶ日本民俗学のビッグネームには折口信夫(おりくちしのぶ)や南方熊楠(みなかたくまくす)がいる。柳田は『遠野物語』のような民間伝承から日本人の生活文化全体を研究し、最後は『海上の道』で日本人のルーツを追った。
折口は、本居宣長と同じく歌人でもあり、古代的世界にその心を置きながら「マレビト」「常世」「神の嫁」など、独自の用語を駆使しながら独特な学問世界を切り開いた。
また、博物学者としても世界的に有名であった南方は、『十二支考』などの画期的な著作を残しながら、一九0六年の神社合祀令に反発して反対運動を続けた。
それぞれ、「日本人とは何か」を求めてゆく過程で、江戸時代の国学者たちと同様に日本人の心の柱である神道を避けて通ることはできなかったのである。