平成心学塾 宗教篇 アンドフル・ワールドを目指して #003

第二講「仏教の世界」

第二講「仏教の世界」

 

世界宗教である仏教は、ブッダことゴータマ・シッダールタによって開かれた。仏教はまことに多様な展開をした宗教ではあるが、その基本的性格はブッダによって定められ、継承され、発展して今日におよんでいるのである。ブッダとは、パーリ語でもサンスクリットでも「めざめた者」を意味するが、北部インド、現在のネパールでシャーキャ族の王子として生まれた。
シャーキャ族の中の聖者(ムニ)だから「シャーキャムニ」と呼ばれ、それが音写されて「釈迦牟尼(しゃかむに)」となった。またバガヴァッドの訳語から「世尊(せそん)」ともいう。「釈迦牟尼」と「世尊」をあわせた「釈迦牟尼世尊」の短縮形から「釈尊」とも呼ばれる。本書では、ブッダと呼びたい。
ブッダは一六歳のときに二人の王女と結婚し、一子をもうけた。ラーフラと呼ばれる男子で、後に父なるブッダの弟子となり、十大弟子の一人ともなる人物である。このように父の王宮でなんの憂いもなく恵まれた家庭生活を送っていたが、四度の外出によって人生が一変する。これを「四門出遊」というが、人間を悩ませる避けがたい苦悩、すなわち「生老病死」を知ったのだ。
人生の目的を発見できずに悩んだブッダは、二九歳でついに妻子や両親を捨て、王宮をあとにして、修行の生活に入ってしまう。彼は二人の師から、哲学とヨーガについてそれぞれ教わるが、やがてそのもとを去り、五人の弟子たちとともに山林にこもって六年間の苛酷な苦行に没頭する。その苦行は「断穀行(だんこくぎょう)」と呼ばれ、一切の穀物を口にせず、水と木の実だけで生命をつなぎつつ一心に座禅に入るものだった。
この断穀行はただの断食でも苦行でもなく、古い経典によれば、ブッダはこの間ひたすら「慈心」を修得していたという。「慈心」とは、その字の通り、慈悲の心である。自分ひとりの解脱のための修行ではなく、世のすべての人のための修行ゆえに「慈心」というのであり、また仏となる性質である「仏性」を持つ穀類を食べず損なわないこと自体が慈悲の行いであるというのだ。
ブッダがこの六年間の苦行を意味あるものととらえたか、無意味だととらえたかについては意見が分かれている。そのいずれにせよ、その後ブッダは山林を出て、ナイランジャナー河で禁じられた沐浴(もくよく)をし、村の長者の娘であるスジャーターの捧げる乳粥を食べた。これを意志の弱さの証しとみた弟子たちは憤慨し、彼のもとを去ってしまう。ブッダは菩提樹の下に座し、三七二一日の座禅によって大悟成道したという。すなわち、悟りを開いたというのである。
死神と悪魔が一体となったマーラが彼を襲ったが、夜明けにはマーラを打ち破り、四つの真理である「四諦(したい)」を得て、めざめた者としての「仏陀(ブッダ)」になった。
そしてブッダは、ヴァーラーナシー(現在のベナレス)において、自分のもとを去ったかつての弟子たちに四諦を説いた。
第一の真理は、苦という真理、すなわち「苦諦(くたい)」である。宇宙には一つとして常なるものはないのに、私たちは常ならんと欲して執着し、ここに苦しみが生まれるということだ。
第二の真理は、集まる真理、すなわち「集諦(じったい)」である。すべてのものに不変の実体はなく、原因と条件によって仮の姿を現し、ものとして集合しているということである。
第三の真理は、滅した真理、すなわち「滅諦(めったい)」である。欲望を捨て去ることによって、苦が消滅し、心のやすらぎが訪れるということである。
そして第四の真理は、そこに至るための方法の真理、すなわち「道諦(どうたい)」である。この四つをあわせて、「苦・集・滅・道」の「四諦説」というのである。
これに似たものに「四法印(しほういん)」というものがある。「一切皆苦」「諸行無常」「諸方無我」「涅槃寂静」といったよく知られた四つの仏教的コンセプトであり、根底にはブッダの教えの根幹ともいうべき「縁起」の思想がある。
「一切皆苦」とは、人生の正体が「苦」であることに他ならないが、注意するべきは、ここでいう「苦」とは感覚上や心理上の「苦しみ」をいうのではなく、すべてこの世のものは有限であり、相対的であるということだ。
「諸行無常」とは、花はやがて散り、人はやがて死ぬという人生の真実を知ることである。それは、すべてのものは原因(因)と条件(縁)とによってこの世にあらわれる(生起)からである。すなわちこの「因縁生起」を略したものが「縁起」である。縁起こそは、森羅万象すべての性格であり、そこには何ら永続すべき実体性などないのである。これを「諸法無我」という。
この宇宙の理というべきものをわきまえず、欲望に苦しめられるのは「我執」である。我執をなくせば、煩悩の消え去った静かな涅槃境地が得られる。これを「涅槃寂静」という。
以上の四つの教えは「四法印」として、仏教を他の宗教と区別する基本となり、古来から各宗派を超え、仏教の根本教説として尊重されてきた。このうち「一切皆苦」を除いた「三法印」が次第によく用いられるようになった。
「四諦説」に戻ると、最後の道諦説は、まさに悟りを得るための方法論である。これを具体的に展開することこそ、ブッダの実践哲学そのものとなる。まず、苦の消滅にいたるためには「中道」を行くことが求められ、それにはすなわち「八正道」を明らかにすることが必要であるとされた。
八正道とは、正見(正しく見方)、正思(正しい思惟)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精道(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい観想)をいう。このうち正定が、ブッダの説いた本来の教説にもっとも近いとされている。
ヴァーラーナシーでの最初の説法の後、改宗者たちはサンガ(僧伽)と呼ばれる仏弟子たちの集団を組織した。仏教で信仰の対象として敬われる「三宝」とは、すなわち「仏(ブッダ)」・「法(ダルマ)」・「僧(サンガ)」である。そのサンガは修行者のみならず、バラモンや国王にいたるまで、ありとあらゆる人々を取り込み、めざましい発展をとげた。ブッダは、尼僧にまで修道生活の道を開いたが、その時すでに、ブッダは法(ダルマ)の衰退を予言していた。
三五歳で成道した後、八〇歳で中インドのクンナガラ村でその生を終えるまで、ブッダは一日も休むことなく教化の旅を続け、多くの人々を導いた。インド全国には及ばなかったけれども、強固な信者層を形成し、世界宗教としての今日の仏教の基礎をつくりあげたのであった。
ブッダの入滅後、アーナンダ(阿難)が後継者となると見られていたが、サンガの長老の位についたのはマサーカッサパ(摩訶迦葉)だった。アーナンダは忠実な弟子で、二五年間というものブッダの側で仕えたが、そのために瞑想の技術を学ぶ時間も阿羅漢になる時間も彼にはなかったのである。阿羅漢とは、涅槃に達し、輪廻の循環にもはや戻ることのない存在だ。
ブッダ入滅直後にラージャグリハでの第一回結集(けつじゅう)に、マサーカッサパが阿羅漢たちを招待したときにもアーナンダは招かれなかった。結集とは、ブッダの没後に仏教教団の統一を維持するために代表者を集めて開かれた仏典の編纂会議である。その後、アーナンダは隠遁し、ヨーガの技法を修めて阿羅漢になる。そして、マサーカッサパに質問されて、アーナンダは経を誦し、ウパーリ(優波離)は律の規則を定めるのである。
サンガはヴァイシャーリーで開かれた第二回結集後に分裂し、上座仏教のシステムが生まれる。古代インドのマウリヤ朝の創始者チャンドラグプタの孫であり、紀元前三世紀に活躍したアショーカ王は仏教に帰依した。彼はバクトリア、ソグディアナ、スリランカ(セイロン島)に布教使節を派遣したが、スリランカへの布教の成果は驚くべきもので、今日にいたるまで仏教国でありつづけている。
紀元一世紀頃、仏教はベンガル地方とスリランカから、インドシナ半島諸国、インドネシア島嶼部へと進出した。また同じ頃、カシミール地方とイラン東部を経て、中央アジア、中国へと伝わった。三七二年に中国から朝鮮へ、五三八年に朝鮮から日本に伝わったとされている。『死者の書』やダライ・ラマの存在で知られるチベットに定着するのは八世紀のことである。
紀元一〇〇年から二五〇年に新しいスタイルの仏教が発展し、過去の教えよりすぐれた解脱の方法を打ち出した。そのためこの新しい仏教は自らを「大乗」と称し、それまでの仏教を「小乗」と呼んだ。ブッダが生前に説いた仏教も小乗仏教と呼ばれたのである。その字のごとく、大乗とは大きな乗り物であり、小乗とは小さな乗り物をさす。乗り物というのは、仏教の教えを、人々をこの迷いの岸から悟りの彼岸に渡してくれる乗り物にたとえた表現である。つまり、小さな乗り物では少数のエリートしか救われないが、大きな乗り物なら万人が救われるというわけだ。
しかし、小乗仏教とは大乗仏教を自称する人々が一方的につけた侮蔑的な表現であり、今日では上座仏教などと呼ばれる。教団内の指導的な長老たちが「上座」に坐ることから命名された。その呼び名はともかく、仏教における最初の分裂は、ヴァイシャーリーでの第二回結集以後、アショーカ王の治世より以前にパータリプトラで生じた。そこでは阿羅漢の性質が問題となり、不浄をまぬがれているか、あるいは不浄にさらされているかが問われた。
五つの争点があって、それは次のようなものである。阿羅漢は、夢の中での誘惑にそそのかされるのか。無知が生みだしたものを保持しているか。信仰に疑いを持っているか。知の追求において、他人からの助けを受け入れるのか。声をあげることで究極の真理に到達することができるのか、といったことが問われたのである。
二つの陣営は、五つの争点に妥協点を見出すが、阿羅漢の夢精という解決不可能な問題をめぐって教団はついに分裂する。サンガの大半を占め、後に大乗仏教に発展する「大衆部」は、阿羅漢が夢の中で女神に誘惑されることはありうると主張するのに対し、「上座部」の長老たちは、こうした考えに反対したのである。大衆部は、誤りを犯しかねないとして阿羅漢の欲情を弁護した。だが、上座部はより保守的で、阿羅漢が完全な者であることを望んだわけである。後に仏教内部では、上座部が人間的傾向を、また大衆部が超越的傾向を示すことになる。
それにしても、夢精についての議論が仏教最初の分裂を招いたとは!ブッダが聞いたら仰天するのではないだろうか。
大乗仏教の教えは、紀元一00年頃に登場しはじめた般若経典においてはじめて現れる。
『般若心経』は日本人にもっともなじみのある経典だが、正式には『般若波羅蜜多心経』という。「般若」といえば能楽の鬼の面を連想する人が多いが、実は「智慧」を意味する古代インド語の「パンニャー」を漢字に音訳したものである。「波羅蜜多」とは「彼岸に渡る」という意味で、「心」は根本である。よって、「仏の智慧でもって彼岸に渡る、その根本を教えた経典」というのが『般若心経』の正しい意味となる。この「仏の智慧で彼岸に渡る」ということこそ、大乗仏教の真髄である。
そこでは「中道」や「空」が強調されたが、もともとこの二つのコンセプトはブッダ自らが示した考え方であり、大乗とか上座とかを超えた仏教の根幹となる思想と言ってよい。
「中道」は孔子やアリストテレスが説いた「中庸」にも通じる考えで、「極端なことをしない」といった意味である。「いい加減」と表現してもよい。また「空」は「からっぽ」とか「無」ということではなく、平たく言えば、「こだわるな」という意味である。
よく「空」と「無」は混同される。中国でも老荘思想における「無」と「空」は同じ意味だとされ、老子がインドに言ってブッダとなったという説まで唱えられた。しかし、無というのは有に対立する概念であるのに対し、空は有無を超越した概念である。すなわち、空は有でもなければ無でもなく、同時に有であり無でもある。また、有と無以外のものでもある。形式論理学から見ればまったくありえないこの「空」の論理こそ、仏教の最重要論理なのである。
上座から大乗への移行は、望むべき理想の変化によく表れている。上座の教徒は阿羅漢、すなわち涅槃の状態を離れて、嫌悪すべき輪廻(サンサーラ)にもはや戻ることがない存在になることを切望した。それに対して、大乗の教徒は菩薩を望んだ。すなわちすでに悟りを得ているのにもかかわらず、人類全体が幸福になるために自分はあえて涅槃に入らず、世間に姿を現すことを選ぶ存在になることを望むのである。菩薩とは沈黙の仏ではなく、積極的に語り、行動し、不幸な人々を救済するためにやってくる。この新しい見地は、「信愛(バクティ)」と呼ばれるヒンドゥー教の献身の考え方に影響を受けたとされている。
大乗以前や初期大乗の経典にはいくつかの教理の矛盾、つまりパラドックスを含んでいたが、これらは紀元一五0年頃のナーガールジュナ(龍樹)によって最終的な決着を見た。
『中論』の著者で中観派を創始した彼は、まず第一に、伝統的な哲学のすべての見解に対して積極的な懐疑論を行使した。ナーガールジュナは、すべてこの世に存在するものは、本当は仮にそう考えておくだけであり、実体は一刹那に実在して、一刹那に消えるとした。すなわち、一瞬にして現れ、一瞬にして消えること、それこそが存在の真の姿だと考えたのである。
この方法によって、バラモン教に起源をもつ本質主義に反論し、あらゆる事物には固有の本質がなく、存在するものは空であると主張したのである。この究極的な真理は、日常の表面的な真理とは対立し、空において涅槃(ニルバーナ)と輪廻(サンサーラ)とが同一であることを明らかにした。また、業という鎖につながれた現象の存在と、その切断とが一致することをも示したのである。
中観派は四五0年頃、ナーガールジュナの否定的教説のみを保持する帰謬論証派と、その肯定的教説を保持する自立論証派とに分裂した。中観派仏教は中国と日本にも伝わり、禅仏教の出現を招くというきわめて大きな貢献をしたのである。
大乗仏教のもう一つの重要な学派が唯識瑜伽行派(ゆいしきゆかぎょうは)である。三、四世紀のインドでマイトレーヤ(弥勒)、アサンガ(無著むじゃく)とヴァスバンドゥ(世親)の兄弟の三大論師によって体系化された。
彼らは、一切の存在はただ(唯)心のはたらき(識)のつくり出した幻影にすぎず、あらゆる存在を生み出す根底にはアーラヤ識(阿頼耶識)があると考えた。アーラヤ識とは「霊妙な意識」を意味し、その貯蔵庫の中に、あらゆる経験が業の種子(しゅうじ)となってデータとして蓄積され、次の転生を決定するのだ。
西洋においては、この考え方は秘教的なグノーシス主義に当初から支配的な理論だった。プロティノスが重視したため、その理論は大半の新プラトン主義者によって採用された。西洋と同じく東洋でも、私たちを宇宙につなぎ留めているこの種子を跡形もなく焼き尽くすことが重要だとされている。この汚れた種子を滅して清浄な種子で満たすためには、瑜伽行(ゆかぎょう)というヨーガ的な瞑想法を実践する。その伝統は、中国の玄奘、慈音大師基、日本の南都北嶺の法相宗にまで連なるのである。
唯識はきわめて難解な思想だが、これを理解する最高の文学テキストが日本にある。三島由紀夫の遺作『豊饒の海』四部作である。この小説の大切なテーゼは法相宗の徹底的解説であるとされるほど、仏教の唯識哲学をベースにして書かれている。評論家の小室直樹氏など、「三島が日本人に対して遺した最も適切な仏教入門」とまで高く評価している。
小室氏によると、『豊饒の海』は一般に輪廻転生の物語と思われているが、最後の「天人五衰」で三島は魂の輪廻を明確に否定し、唯識を強く打ち出した。唯識の思想は大変難解であるが、一言でいえば「万物流転」、すべてのものは移り変わるということである。魂の輪廻転生を否定した三島由紀夫は、生まれ変わって復活するのは何かという問いを読者に残したとも言える。
日本人の多くは、仏教は人間の魂の存在を認め、輪廻転生を唱える宗教だと思っている。しかし、日本人における輪廻転生の思想には、実は仏教というよりヒンドゥー教の観念がかなり混じっているのである。これについて、小室氏は著書『日本人のための宗教原論』に次のように書いている。
「おそらく、仏教の真理なんか有象無象(うぞうむぞう)にわかるわけがないと思った仏教の偉い坊さんたちが、恐ろしくわかりやすいヒンドゥー教の教義やインド人の俗信(民間の迷信、民話)を仮に使って、布教にととめたというところではないのだろうか」
たしかに、そんなところかもしれない。とすれば、永久に過ごす地獄ら極楽が存在するなどというのは、もう仏教ではないわけである。仏教の目的は、悟ること。すなわち、もろもろの煩悩をなくして、解脱して涅槃に入ることだ。その煩悩は、「われが存す」という迷妄が根底にあるがゆえに生じるのである。よって、「われが存する」という迷妄を滅すれば、涅槃に行くことができる。これが仏教の蘊奥(うんのう)であり、また「魂はない」ということを意味するのである。
とはいえ人間は、肉体が滅んでも魂は不滅であってほしいという希望を持つものであり、この希望がいわゆる「霊肉二元論」を生んだ。西洋の哲学史においては、プラトンをはじめ霊肉二元論が名高いが、インドの哲学者たちは、肉体の根底に本来の自我としての「アートマン」を想定した。アートマンは、たとえ肉体が死んでも、生まれ変わり死に変わりながら、永遠に実在し続けるのである。仏教は、このバラモン教、ひいてはヒンドゥー教の輪廻転生の思想を受け継ぎ、さらに精密化していったのである。しかし輪廻転生のアイデアだけを受け継ぎ、その主体であるアートマンの存在は否定した。
すべては仮定であり仮説であると考える仏教は、実在論を認めず、それゆえ「魂」などという実在を認めることはないわけだ。すると、次のような意見が出てくる。「魂が存在しないというのなら、仏教とは唯物論ではないのか」と。そう、仏教の本質とは唯物論ではないかという批判は、かつてインドにおいて盛んになされたのである。
時代は大いに下って一八ニ0年頃、ヨーロッパで仏教が成立した。研究が進展し、経典の翻訳がすすめられたその時期、仏教は「虚無の信仰」として大いなる恐怖をヨーロッパ人に与えたという。フランスの哲学者ロジェ=ポル・ドロワのエキサイティングな著書『虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか』を読むと、異文化誤解というより、仏教の本質が浮き彫りになって非常に興味深い。
ヨーロッパの人間の思想のバックボーンであるキリスト教においては、救済の主体として「魂」の存在が想定されている。ところが、仏教では、その魂はないという。それでは、死が人間にとってあらゆる意味での終わりを意味し、キリスト教信仰の核である「復活」もありえないことになる。復活なき死ほど恐ろしいものはない。だからこそ、ヨーロッパの人々は、仏教を大いに怖れたのである。
また、ヨーロッパの社会は、人権や人間の生命といったものに絶対的な価値を置く。そのような社会に生きる人々から見れば、個人の死である「涅槃」などというものに究極の価値を置く仏教とは、人権や人間の生命を無視する危険な宗教であるということになる。かくしてヨーロッパが近代社会に突入した時点で、仏教はイスラム教とともに悪魔的信仰とされ、恐怖の対象となったのである。
仏教の歴史に戻ろう。
中国では漢帝国時代の紀元一三〇年頃に、長安においてすでに仏教の存在が確かめられる。漢代に支配的だったのは儒教であり、仏教は当初、道教の異端派と見なされたという。それはインドの経典からの正確な漢訳が三世紀末になるまで現れず、そのうえ初期の翻訳ではこの新しい宗教の概念は道教の言葉を用いて表されたからであった。
匈奴が華北を征服した後、仏教は人口過疎の華南で、貴族や文人によって維持された。浄土教の創始者である慧遠も、そうした担い手の一人であった。六世紀には道教を捨てた梁の武帝が仏教に帰依したが、この時代にはすでに、華北で民衆の仏教、ついで阿弥陀信仰が回復されていた。五世紀にこの華北に居を定めた人物が、大翻訳家で知られる鳩摩羅什(くまらじゅう)である。
中国全土を再統一した隋王朝およびそれに続く唐王朝では、あらゆる社会層で仏教が繁栄した。その浸透を確かなものとしたのは禅宗である。インド仏教でブッダから数えて二八祖となる菩提達磨が禅宗の開祖として仰がれ、仏性と悟りを直接得るための特別な瞑想法を人々に教示した。彼は日本でも「ダルマさん」の愛称で親しまれている。
禅宗と並んで、中国で大きな影響をおよぼしたもう一つの宗派が天台宗である。浙江省の天台山で智_(ちぎ)が六世紀に創立した。
禅宗および天台宗の隆盛によって仏教には驚くべき活力と繁栄が生まれた。
七世紀には『西遊記』で有名な玄奘三蔵国禁を犯してがインドへ向けて出発し、一六年におよぶ長旅の末に大量の経典を中国に持ち帰った。『聖書』には「旧約」と「新約」があるが、仏教経典には「旧約」と「新訳」がある。すなわち、仏教がインドから中国に伝来した際に経典の中国語訳が行われたが、四世紀から五世紀にかけての鳩摩羅什の訳を「旧訳」と呼び、七世紀の玄奘三蔵の訳を「新訳」というのである。
仏教が隆盛すると、宮中内には当然のことながら嫉妬が渦巻き、九世紀中頃に激しい弾圧が行われることになる。その結果、仏教は禁止され、寺院は破壊され、僧侶は還俗を強いられた。中国仏教の勢力が衰退するのと比例して、優位になった儒教は、一四世紀には国教に定められた。
仏教が中国から朝鮮に伝来したのは四世紀である。朝鮮の最初の寺院は三七六年に建立された。後に、中国仏教の展開の軌跡を注意深くたどった朝鮮仏教は、そのすべてを時刻に適合させた。中国と同じく、一〇世紀まで仏教教団は繁栄し続けたが、それにともなって宗教本来の使命が薄れていく。厳格で煩雑な教義に憤りを感じた禅仏教の指導者たちは、独立した宗派を組織することになるが、この分裂の後は、九世紀以後の中国のような仏教の衰退は起こらなかった。
しかし、李朝になった直後の一四〇〇年から一四五〇年にかけて、仏教は厳しい規制を受けた。李朝が儒教を国教としたためで、その結果、瞑想を重視する禅宗と教義を重視する教宗という二つの教団に組織されていく。
朝鮮は日本に仏教を伝えたが、近代の朝鮮仏教は逆に日本仏教と歩調を合わせながら発展してきた。そう、仏教後進国であった日本は歴史のある段階から突如として仏教先進国となり、その後は先頭をひた走るようになる。現代の世界を見わたしてみれば、日本こそ仏教の王国である。仏教は、開祖であるブッダが生まれたネパールや教化に励んだインドよりも、日本に仏教に伝えた中国や朝鮮よりも、他のどこよりも日本という土壌に深く根づき、大輪の花を咲かせたのだ。
仏教が朝鮮から日本に伝来したのは六世紀後半だが、最初はあまり支持を得られなかった。しかし、後に尼僧となる推古天皇と、その甥の聖徳太子が仏教に帰依し、大いなる仏教興隆の時代が幕を開ける。
ここで、仏教の伝来について作家の五木寛之氏が興味深い意見を述べている。一般には、百済から外交ルートでもって日本の為政者宛に手渡された仏像と、経典と、それから仏法の思想が国家仏教として輸入され、それから貴族仏教として平狩り、そして民衆レベルへ下りていったとされている。しかし、五木氏はこの考え方は逆であるという。文化とか思想とか信仰とかいうものが上から下へ一方的に下りて発展していったためしはないというのである。
五木氏はいう。能とか、歌舞伎とか、あるいは茶道とか、生け花とか、さまざまな文化の完成度を持ったものというのは、すべて下から成り上がったものである。そのように考えると、仏教というのも、あの時点で国家対国家の形で輸入され、そして上から下へ下ろされていって日本で根づいたものとは考えられなくなってくる。
当時の政府があの仏教を持ち込んだという時点では、もうすでに仏教が朝鮮半島から渡来する以前に日本の中に存在した。つまり、自然流入の形で民衆レベルでのサブ・カルチャーとして、これまでのアニミズムや土俗信仰や修験道などと混淆(こんこう)した形で、半島から来たもの、インドから来たもの、東南アジアから来たもの、直接に中国から来たもの、といった多種多様なルートで日本に入り込んでいたに違いない。そのように推測したうえで、五木氏は著書『仏教の心』において次のように述べている。
「それ以前にすでに、庶民の生活のあいだに前仏教というものがあった、と考えたい。正式のかたちをとらないままに自然に流入してきたものと、アニミズムとがこんがらがった状態でもって、一種のプレ仏教が、相当に広くひろがりつつあったと、こう私は見るわけです」
国家が仏教を掌握していくなかで、最初は自然発生的というか自然流入的な形で民衆の中へ広がっていった仏教が、正式のものとしてリファインされながら、学問的に成熟していった。そして管理されていき、民衆のレベルから切り離されていく。つまり、国家が民衆から仏教を吸いあげたという見方ができるかもしれない。
その後、貴族のものとなった仏教は大いに栄えた。七0一年に都が遷都された奈良においても、その繁栄は続き、いわゆる「南都六宗」の時代を迎える。すなわち、三輪、成美、法相、倶舎、華厳、律の六宗が急速な発展をとげるが、これらはいずれも学問的色彩が強く、非常に難解であった。このうち三輪宗、法相宗、華厳宗は大乗仏教に属し、成美宗、倶舎宗、律宗は上座仏教に属する。
平安時代になると、最澄が天台宗を、また空海が真言宗を、それぞれ中国から移入した。この二人は日本仏教にきわめて大きな痕跡をとどめ、その発展を決定づけたと言える。
最澄は近江国に帰化人の末裔として生まれた。一四歳のときに僧侶になり、研究を終えた後に京都近くの比叡山にこもり、天台山に住んでいた中国の大師である智_の教えに賛同した。八0四年に、この教えを深めるために最澄は中国に赴いた。そこで他の密教を研究し、禅の実践を天台宗に取り入れ、日本に天台宗をもたらしたのである。天台宗は比叡山延暦寺を本山とし、僧侶は一二年の厳しい修行を成し遂げなければならなかった。
天皇のあつい信頼も得た最澄は、死ぬまで栄光のうちに活躍し続け、権力や旧宗派との関係により自らの宗派の独立を保持した。
死後「伝教大師」と尊称された最澄は、今日の日本でもなお崇められている。多くの天台宗の信者が真言宗に移ったが、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった日本仏教史の巨人たちもはじめは天台の僧侶であったことを考えれば、天台宗こそは「日本仏教のゆかご」であり、最澄とは偉大な教育者であったことを思い知る。
最澄と並んで平安仏教を代表する空海は、讃岐(香川県)の生まれ、佐伯氏であった。
一四歳のときに、すでに儒教と道教を学んでいたが、それらに失望した空海はやがて仏教に惹かれ、『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、仏教は他の二つの教えよりも深い本質的な要素を含んでいると主張した。信仰をより確かなものにすべく、八〇四年に最澄とともに唐に留学した。そこで出会った真言宗の七代目の祖である恵果は、正統な後継者として空海に秘法を授けた。
八〇六年に帰国した空海は、奈良の東大寺の僧侶を務めた後、八一六年に高野山に真言宗の本山である金剛峯寺を建立した。空海は真言宗の八代目の祖となったわけだが、彼の宗派はまたたくまに成功を収めた。高野山は多数の僧侶が常駐し、建物も一五〇〇を数えるほどだった。空海は、京都の御所の敷地内に真言院を創設したあと、瞑想にふけりつつ八三五年に没した。しかし高野山では、姿の見えなくなった彼が、今なお瞑想を続けているとされている。神秘と謎の光に包まれ、加持祈祷で有名な稀代の魔術師でもあった空海は、死後「弘法大師」の称号を受けた。
最澄と空海が登場したので、ここで「密教」についてふれておこう。天台宗の密教を「台密」と略称し、真言宗の密教を「東密」と呼ぶ。空海が建立した東寺の密教という意味である。では、密教とは何か。平たく言えば、密教とは「秘密仏教」の略である。仏教史を見ると、密教は大乗仏教運動の後期に現れるが、それに対してそれまでの仏教が「顕教」と呼ばれる。
この宇宙には姿なき仏が存在する。この仏は宇宙全体に広がっており、また宇宙そのものであると言ってもよい。仏教ではこの仏のことを「大日如来(だいにちにょらい)」とか「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」と呼んだ。姿なき仏を形にしたのが大仏で、奈良の東大寺の大仏は毘盧舎那仏である。
この姿なき仏に人間がふれるには媒介者が必要であり、それが釈迦仏、つまりブッダなのである。ブッダは、宇宙そのものである姿なき仏を「宇宙の真理」として、人間がわかるように人間の言葉で説いた。ブッダの遺言には「掌(てのひら)に握って隠していることは何もない。すべてを語った」という一説がある。そうしたブッダの言葉を弟子たちが書き残したものが経典である。また、経典にはブッダ入滅後に弟子たちが神秘体験の中で聞いたブッダの言葉を書き記したものも多い。『般若心経』をはじめ『法華経』『阿弥陀経』など膨大な経典が仏教には残されており、私たちはこれらを読むことによって、宇宙の真理を得ることができる。このように言葉や文字で学ぶ仏教を「顕教」という。
しかし、言葉や文字では宇宙の真理を体得できないという考え方が生まれた。言葉とは時代や地域によって意味およびニュアンスが変化するものであり、その解釈も時代とともに変化する。ブッダが残した経典の言葉にふれても、バイアスがかかって宇宙の真理は正しく伝わらない。そこで、言葉を介さずに直接的に宇宙の真理を獲得しようと考えたのが「密教」なのである。
密教の儀式や祈祷が行われる場は「円環」を意味する「曼荼羅(まんだら)」と呼ばれ、後に布や紙などに描かれ、円から方形にも変化して壁にかけられるようになった。次第に「胎蔵界曼荼羅」「金剛界曼荼羅」の二つに整備されていった。
「大乗と上座」「顕教と密教」というように、仏教をよりよく理解するために二つに区別する見方には他に「自力と他力」がある。通常は、禅宗が「自力宗」と呼ばれ、浄土宗や浄土真宗が「他力宗」と呼ばれる。
もともとは、ナーガールジュナが『十住毘婆沙論(じゅうじゅびばしゃろん)』において「難行(なんぎょう)」と「易行(いぎょう)」の区別を説き、浄土教の曇鸞(どんらん)が『往生論註』において「易行」を勧めたことにさかのぼる。曇鸞は、仏道修行を目的地まで行く手段としての舟にたとえ、歩いてゆくより、舟に乗っていったほうが簡単かつ確実だろうというわけである。
臨済宗の僧侶でもある作家の玄侑宗久氏は、著書『私だけの仏教』において、「しかし仏道とは、どう考えても最初は自力で始めるのである」と述べている。坐禅はもちろん、念仏も題目を自分の口で唱える以上、初めはあくまで自力である。法然は晩年、一日七万回もの念仏を唱えたとされるが、そこまでいけば唱えていながら自分の努力ではないという気がしてくる。玄侑氏は、自分の努力だと思えなくなったときにそれが「易行」と思え、それをさせてくれる「他力」を感じることではないかと述べ、次のように書いている。
「坐禅も、最初は、というか、しばらくは痛さとの戦いであり、慣れるまでは努力を要する。そういう意味では『自力』の期間が目立つかもしれない。しかしどんな方法でも、慣れれば次第に心地よさのなかで自分の努力は忘れていく。換言すれば、日常感覚のなかでは努力しても得られないような感覚が行を繰り返していると現れ、その言葉にできない素晴らしい事態を、『他力』と呼んでいるのである」
「他力」は誤解されやすいコンセプトである。よく「他力本願」などと安易に使われるが、実はこの「他力」は、出口なき闇の時代に光を放つ、日本史上最も深い思想であり、すさまじいパワーを秘めた「生きる力」である。このように主張するのは、五木寛之氏だ。氏は大ベストセラーになり、海外でも翻訳出版された著書『他力』で次のように述べる。
「もはや現在は個人の〈自力〉で脱出できるときではありません。法然、親鸞、蓮如などの思想の核心をなす〈他力〉こそ、これまでの宗教の常識を超え、私たちの乾いた心を劇的に活性化する〈魂のエネルギー〉です。この真の〈他力〉に触れたとき、人は自己と外界が一変して見えることに衝撃をうけることでしょう」
「他力」とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が、自分の生き方を支えているという考え方なのだと五木氏はいう。そして、浄土系において、その大きな力は阿弥陀如来であるとされた。「他力」は、法然、親鸞、蓮如の思想の核心をなすが、彼らも阿弥陀仏信仰に基づく浄土系の人々である。
阿弥陀は、サンスクリットの「無量光」あるいは「無量寿」を漢字に音写した呼び名である。阿弥陀仏に祈れば、その楽園である「浄土」に生まれ変わることができ、そこで人は輪廻転生を乗り越え、悦びのうちに自身がブッダとなるのを待つ。そのような阿弥陀仏信仰はインドでは発展しなかったが、四世紀の中国で慧遠が広め、浄土宗を生んだ。
しかし阿弥陀仏信仰が大きく花開いたのは日本においてである。一〇世紀いらいの混乱の時代にあって、信者に仏の無限の慈悲を保証し、阿弥陀仏信仰はますます広がっていった。まず、空也が京都の路上でひょうたんを叩きながら説教してまわった。源信は、中国の大師である善導の教えに霊感を受け、極楽浄土の様子を克明に描いた『往生要集』を九六五年に著した。平安時代の大ベストセラーとなり、藤原道長も紫式部も鴨長明も西行も愛読したという。そして、良忍が融通念仏宗をつくった。
しかし、浄土宗の真の創始者は源空だった。彼は、法然の名でよく知られている。法然は、教義が衰退する時代にあって人生の最終解脱を得るのは不可能であると考えた。ただ、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることのみが救いを保証するものとした。社会のあらゆる階層の人々が浄土宗の信者となったが、他の宗派の僧からねたまれ、法然は一二0七年に土佐に流罪となった。
このとき、彼の最も重要な弟子である親鸞も一緒に流刑に処せられた。しかし、東国の田舎に住んだ親鸞は、妻帯して五人の子をもうけた。つまり「非僧非俗」となった彼は多くの弟子を持った。親鸞は、悪人さえもが往生できるという「悪人正機説」を唱え、法然より急進的な教えを説いた。それは、念仏を唱えることは揺るぎない信頼と阿弥陀への感謝の念に他ならず、念仏だけが救われる唯一の方法であると主張し、ついには浄土真宗を開いた。八代目の教主として蓮如が現れ、組織づくりにおいて天才ぶりを発揮した。こうして本願寺教団とも呼ばれる浄土真宗は大成功を収めたのである。今日の日本で、浄土真宗は、仏教のあらゆる宗派の中で、約一五〇〇万人という最も多くの信者を抱えている。
この他、浄土系の人物としては、一遍がいる。彼インド各地を遊行し続けたブッダのように寺を持たず、念仏しながら行脚(あんぎゃ)したが、その行為は歓喜を伴い、やがて踊念仏として流行した。念仏によって阿弥陀仏との一体化をめざし、阿弥陀仏と自己との無分別状態で踊ったという。
禅宗は、すでに中国でいくつかの分派を生んでいたが、日本には二つの系統が伝来した。一つは栄西によって伝えられた臨済宗で、武士のあいだに多くの信徒を得た。もう一つは道元によってもたらされた曹洞宗で、より瞑想的な禅が行われ。民衆のあいだに広まった。この二つの宗派の信徒の社会構成は、「臨済将軍、曹洞土民」という言葉に要約される。つまり、臨済宗は武士に、曹洞宗は農民に広まったということだ。
玄侑宗久氏によれば、栄西と道元の関係はある意味で法然と親鸞に似ているという。栄西は禅以外の方法論も認める。道元は栄西に師事し、その弟子である明全とともに入宋するが、約四年後に持ち帰ったものは妥協を排した純粋な禅、ひたすらに坐禅をする「只管打坐(しかんたざ)」の心で修するという厳しい生活哲学だった。それがまるで、浄土宗門下から生まれた親鸞の絶対他力の徹底ぶりに似ているというのである。
禅宗には臨済宗と曹洞宗の他に黄檗宗(おうばくしゅう)がある。これは、中国明代の禅僧であった隠元隆_(いんげんりゅうき)によって江戸時代に伝えられたものである。宇治の万福寺を本山とし、中国風の作法を強く残している。本来、禅ほど中国仏教色の濃いものはないといえるが、禅はまたきわめて日本的な茶道・華道・能などのベースとなり、日本文化の基本となっていった。
日本仏教における独自の宗派として日蓮宗がある。安房国小湊の漁師の子に生まれた日蓮は、一五歳で天台宗の僧侶となった。しかし、改革の意志を実現するには天台宗はあまりにも偏狭であるとし、またブッダの権威を失わせた阿弥陀仏信仰を批判した日蓮は、『法華経』の中に真理を見つけたと確信する。この『法華経』の題そのものがブッダの悟りに呼応していると言明し、「南無妙法蓮華経」を唱えるだけで充分であるとした。
日蓮は、民衆と同じく時の鎌倉幕府をも改宗させることを強く望み、たくさんの警告文を書いた。また、自らを一菩薩、さらに同時に複数の菩薩であると信じた彼は、他のすべての宗派を糾弾しながら、鎌倉の路上で説教しはじめた。激しい言動のために一二六一年に伊豆半島に流罪に処せられたが、恩赦を受け、再び攻撃を開始した。死刑になる危険をぎりぎりのところで逃れたが、一二七一年に再び追放された。
三年後に鎌倉に戻った日蓮は、弟子たちに囲まれ、富士山西部の身延山に行って暮らした。それ以来、身延山は日蓮宗の信者が足繁く通う巡礼の場所になっている。
現代の日本では、仏教は数多くの宗派に分かれ、戦前は一三宗五六派とされていたが、戦後になるとさらに数を増やした。基本的な宗派が一三宗というのは現在でも変わらないが、これは華厳宗、法相宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、日蓮宗である。
なお、江戸時代の仏教宗派の中で活発な信仰活動が行われたのは、浄土真宗と日蓮宗である。このうち日蓮宗の在家信仰は近代になって新宗教という形に発展した。公称信徒数が日本で一番多い創価学会と二番目に多い立正佼成会をはじめ、霊友会、仏所護念会教団、妙智会教団、本門仏立宗などの大規模な教団がいずれも日蓮系(法華系)に属する。その他の仏教系教団では、真如苑、阿含宗、幸福の科学などがよく知られている。かの一九九五年に地下鉄サリン事件という空前のテロ犯罪を犯した、あのオウム真理教も仏教を名乗っていた。
仏教学者の玉城康四郎は、巨視的なスケールを持つ著者『仏教の根底にある者』に次のように書いている。
「聖徳太子から空海までまさに二百年、空海から鎌倉まで四百年、鎌倉から今日まで八百年。いったい、二百年、四百年、八百年というのは何を意味するのであろうか。それは、仏教の展開をも含めて日本思想のさまざまな、複雑な諸問題をはらんでいることはいうまでもあるまい。しかし、鎌倉から今日までの八百年は、前の二百年、四百年に比べて、日本仏教として余りにも不毛であったことは隠し得ないであろう」
この文章が書かれたのは一九七三年だが、事態は変わっていない。いや、変わっていないどころか日本仏教は、オウム真理教事件という途方もない業(ごう)を抱え込んでしまった。私たち日本人は、今日的な新しい人間の問題の中で、新しい仏教を生み出さなければならなかった。その結果が、あの不幸な事件だとしたら、あまりにも虚しい。
そもそもオウムは仏教ではなかったという見方もできる。オウムは地獄が実在するとして、地獄に堕ちると信者を脅して金をまきあげ、拉致したり、殺したり、犯罪を命令したりしたのだった。本来の仏教において、地獄は存在しない。魂すら存在しない。存在しない魂が存在しない地獄に堕ちると言った時点で、日本の仏教者が「オウムは仏教ではない」と断言するべきであった。ましてやオウムは、ユダヤ・キリスト教的な「ハルマゲドン」まで持ち出していたのである!
日本人の宗教的寛容性を私は全面的に肯定するが、その最大の弱点であり欠点が出たものこそオウム真理教事件であった。
浅原彰晃こと松本美津夫に死刑判決が出た今、私たちは五木寛之氏のごとく、悪人正機を唱えた親鸞に問うてみなければならない。
「御聖人、浅原彰晃もまた往生できるのでしょうか」と。
仏教ブームであるという。その背景には一神教への不安と警戒が大きくある。キリスト教世界とイスラム教世界の対立はもはや非常に危険な状態に立ち入っている。この両宗教の対立の根は深く、このまま憎しみ合えば、人類は滅びてしまうかもしれない。それを避けるには、彼らが正義という思想のもとにある自己の欲望を絶対化する思想を反省して、憎悪の根を断たなければならない。この欲望や憎悪の思想の根を断つということこそ仏教の思想に他ならないのである。
曼荼羅に描かれている神々が示すごとく、仏教は本質的に多神教である。そして多神教は正義より寛容の徳を重視する。いま世界で求められるべき徳とは、正義の徳でなく寛容の徳、あるいは慈悲の徳である。この寛容の徳や慈悲の徳を世界に発信できるのは、日本仏教を置いてないと私は思う。