開講にあたって
「混ざりあった日本の私」
日本人の宗教について話がおよぶとき、かならずと言ってよいほど語られるネタがある。
いわく、正月には神社に行き、七五三なども神社にお願いする。しかし、バレンタインデーにはチョコレート店の前に行列をつくり、クリスマスにはプレゼントを探して街をかけめぐる。結婚式も教会であげることが多くなった。そして、葬儀では仏教の世話になる。
エッセイで、講演で、または職場や酒場で、いささか食傷気味になるほど繰り返されて語られる話だが、日本人は無節操だということで批判的に言われることが多い。このような日本人の生活宗教習慣は「シンクレティズム」という言葉で表現される。シンクレティズムとは「習合信仰」や「重層信仰」と訳されるが、違うものが混じりあって、区別がつかないというネガティブな意味合いが強いようだ。
でも、日本の宗教の歴史を見てみれば、まさにその通りと言う他はない。もともと古来から神道があったところに仏教や儒教が入ってきて、これらが融合する形によって日本人の伝統的精神が生まれてきた。そして、明治維新以後はキリスト教をも取り入れ、文明開化や戦後の復興などは、そのような精神を身につけた人々が、西洋の科学や技術を活かして見事な形でやり遂げたわけである。まさに、「和魂洋才」という精神文化をフルに活かしながら、経済発展を実現していったのだ。
日本の経済発展、そして日本人の宗教は、世界にとって大いなる謎だった。一九八三年の「タイム」誌の日本特集では、日本人の宗教のあり方を一人の女性の生涯によって説明している。ある女性が、お宮参りと七五三を神社で、結婚式をキリスト教式で行ない、仏式で埋葬されるだろうと述べている例を示し、日本人の宗教について「中途半端な折衷主義」であると論じている。また、「異なったさまざまな側面を混ぜ合わせることは、太古の神道に始まる日本の伝統である」と述べている。こうした指摘は、宗教学者や社会学者をはじめ、日本人の多くにとって一般的な理解である。しかし、私たち日本人は、何の原則もなく、場当たり的に宗教を使っているわけではない。
日本に長く滞在したヤン・スィンゲドーは、
東京大学出版会から出ている『宗教学辞典』の「世俗化」の項目で、「和」と「分」の構造を用いて日本宗教のあり方を説明している。「和」は日本文化全体の特徴だが、日本人の伝統的な宗教意識は「和」に深く影響され、「和」そのものの一環をなしている。つまり、こういうことだ。原則として誕生に関連する儀礼は神道の「分」であり、死と関連する儀礼は仏教に、そして結婚式はキリスト教の「分」であるというのである。そして、それぞれの宗教はそれぞれの「分」を守ることによって、日本人の宗教全体の「和」が維持されるという。
このような日本人の宗教感覚は世界でもきわめて独特であり、それゆえ「日本教」などと呼ばれるが、その背景には日本列島の自然環境がある。和辻哲郎は、名著『風土』において、日本をモンスーン型風土としたうえで、そこに生きる人間の構造は受容的・忍耐的であるとした。そして、これを示すものとして「湿潤」をあげ、次のように書いている。
「湿潤はしかしさらに細かにさまざまの特性に分析され得る。梅雨と台風とを特徴とする我々の国土は、古代の祖先が直感的に「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)」と呼んだように、特に湿潤の国土である。が、そこでは湿潤がまた大雪としても現われる。季節の著しい移り変わりはこの国土の宿命である」
四季があって、春には桜が咲き、冬には雪が降る。梅雨には大雨が降り、台風が来て、雷が鳴り、地震が起こる。実にバラエティゆたかな自然の科学的理由を知らなかった私たちの先祖は、それらの自然現象とは神々をはじめとした超自然的存在のなせる業であると信じたのだ。
また、日本宗教のベースである神道が教義や戒律を持たない柔らかな宗教であり、「和」を好む平和宗教であったことも忘れることはできない。天孫民族と出雲民族でさえ非常に早くから融和してしまっている。
三輪の大神(おおみわ)神社は大国主命(おおくにぬしのみこと)、それから少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀ってあるが、少彦名は出雲族の参謀総長だから、本当ならば惨殺されているはずである。それが完全に調和して、日本民族の酒の神様、救いの神様になっている。その他にも、『古事記』や『日本書紀』を読むと、まさに日本は大いなる「和」の国、つまり大和の国であることがよくわかる。
神道が平和宗教であったがゆえに、後から入ってきた儒教も仏教も、最初は一時的に衝突があったにせよ、結果として共生し、さらには習合していったわけである。ルーマニア生まれの世界的な宗教哲学者ミルチア・エリアーデは、「日本人は、儒教の信者として生活し、神道の信者として結婚し、仏教徒として死ぬ」という名言を『エリアーデ世界宗教事典』に残しているが、そういった日本人の信仰や宗教感覚は世界的に見てもきわめてユニークであると言ってよい。
多くの人は、日本人の冠婚葬祭や初詣で、クリスマスを祝うことなどを慣習にすぎないものと見なし、宗教的な意味合いは低いととらえているようだ。オウム真理教事件などは例外中の例外として、日本人は一般に「無宗教」だと言われる。イラクの地でアメリカに徹底抗戦したイスラム教徒には燃えるような宗教心が宿っているが、日本人の心の底に横たわっているのはむしろゆるやかな宗教心ではないだろうか。だから、排他的な態度で特定の宗派に属して厳しい修行をするというような人間を何となく警戒する。宗派とか、教義とか、修行とか、そういうものにあまり重きを置かない。もっとゆるやかで穏やかな宗教心を好んできたように思う。
宗教学者の山折哲雄氏は、著書『宗教の力』で興味深いエピソードを紹介している。山折氏の友人で臨済宗の僧侶が檀家の人々を連れて、ヨーロッパのある国を訪れた。たまたま入国手続きの際に、係官が「あなたの宗教は何ですか」と質問してきた。臨済宗の僧侶は当然ながら「仏教徒だ」と答えた。ところが、檀家総代が同じ質問をされると、こともあろうに「無宗教です」と答えたのである。
僧侶と一緒に外国までやってきて、宗教は何かと聞かれて無宗教と答えてしまう。この不用意さというか、間抜けさというか、思わず笑いたくなる漫才のような場面だが、条件反射でそういう答えがすぐに出てしまうところがそもそも日本人なのかもしれない。
無宗教という答えを聞いた係官は、「そういう人間は入国させるわけにはいかない」と言ったという。せっかくここまできて、住職と檀家が生き別れになったら大変である。そこで僧侶は、「いま、彼は無宗教と言ったけれども、それは宗教がないという意味ではない。日本には無の宗教という宗教があるのだ」という言い訳を瞬間的に考えついた。それで何となくことなきをえて、入国できたというのである。冗談のような話だが、言い訳として考えついた「無という宗教」は言い得て妙である。
なぜ、日本人は人に問われると、「無宗教」だと答えてしまうのだろうか。山折氏によれば、その原因は大きく二つあるという。
第一にそれは、明治以降の日本人の生き方に深い関係がある。明治国家は日本を近代化するために西洋文明を取り入れて、富国強兵・殖産興業という文明開化路線をまっすぐに突き進んだ。ヨーロッパの近代文明はキリスト教と切っても切れない関係があるから、その文明を取り入れる以上、キリスト教を受け入れるのは自然なことだったはずである。しかし、当時の指導者たちはキリスト教の根本的精神を受け入れることは回避した。それにもかかわらず、キリスト教的なものの考え方は水が流れるように日本に入ってきた。ここで注意しなければならないのは、入ってきたのは「キリスト教の信仰」ではなく、「キリスト教的な考え方」だったという点である。
そのキリスト教的なものの考え方のなかで一番大きな問題が、宗教に対する考え方だった。どういうことかというと、キリスト教世界で「あなたの宗教は何ですか」と問うことは、キリスト教徒であるか、ユダヤ教徒であるか、あるいはイスラム教徒であるかを問うことである。
一神教世界だから、キリスト教徒であると同時にユダヤ教徒やイスラム教徒であるということはあり得ない。ただ一つの宗教を主体的に選びとることが一神教世界における宗教に対する基本的な態度であり、そこに一神教的な信仰の本当のあり方がある。つまり、「あれか、これか」なのであって、どちらかを選択しなければならない。それが西洋近代における宗教に対する基本的な立場である。
第二の原因が、日本の伝統的な宗教、あるいは宗教心というのはそのような二者択一によるのではなく、「あれも、これも」という対し方だったということだ。神と仏を同時に信仰してきたのが伝統的な日本人であり、正月には初詣でに神社にお参りし、人が亡くなって葬儀をあげるときにはお寺でやることは何ら不自然なことではない。家には神棚があり、仏壇が飾ってある。これも自然だ。
そもそも日本には「宗教」という言葉はなかったのである。明治になって、Religion(レリジョン)という英語が入ってきた。そのとき、訳語として「宗教」という言葉が選ばれたわけだが、「レリジョン」という言葉は本来、一神教を意味し、もっと狭い意味ではキリスト教のことである。だから「宗教」というコンセプトは、明治以前の日本人には意識もされなかったことだった。私たち日本人は、家に神棚と仏壇が共存するような生き方を神信心、仏信心で済ませてきたのである。
しかし、明治になって「宗教」という一神教の色で染めあげられた言葉を使用するようになった。その結果、その時代の日本人はキリスト教徒でないにもかかわらず、自分自身の内面をキリスト教徒のまなざしで眺めようとした。つまり、本当の宗教というのは、「あれか、これか」の宗教、一つを選びとる宗教だと考えるようになったのである。その結果、それまでの日本の伝統的な宗教、すなわち「あれも、これも」の宗教を、迷信とか俗信とかあるいは低次元の宗教と考えるようになってしまったのである。
といっても、日本人は決して「あれも、これも」の信仰を捨てなかった。あいかわらず家には神棚と仏壇をまつり、信者でなくとも平気でキリスト教会で結婚式をやってきたのだ。「あれか、これか」と宗教の建前を受け入れながら、しかし他方で、その実態を覆い隠してきたと言えるだろう。
ところがそのうちに、一つの信仰を主体的に選びとって自分の宗教にしてはいけないという意識が強くなっていったのである。そして、いつのまにか「おまえの宗教は何か」と尋ねられると、「無宗教です」とか「無神論者です」と、つい条件反射のように答えるようになったと山折氏は分析する。
明治時代に、こういう日本人の生き方を批判した人物が内村鑑三である。彼は、日本人はヨーロッパ文明を受け入れたけれども、そのヨーロッパ文明の「魂」であるキリスト教を受け入れず、宗教抜きの文明だけを追求したとして日本の行き方を批判している。事態はまさに彼の批判どおりに進行した。その後、日本は文明のみを追求し、その基盤となる精神原理をなおざりにしたまま一〇〇年の歳月が流れ去ったからである。
宗教抜きであったおかげで、日本は効率よく近代化を進め、経済大国になることに成功したということも言える。では、なぜそれほどまでに明治の日本社会で宗教が力を持たず、社会が世俗化していたのだろうか。
山折哲雄氏によれば、時代はさかのぼるが、織田信長がやった仕事の影響が非常に大きかったためであるという。
宗教の面で、信長は二つの大仕事をやった。一つは比叡山を焼き討ちにして、たくさんの僧侶を殺し、寺院と仏像を破壊したことである。それによって旧来の仏教が持っていた伝統的な権威を地上に引きずりおろした。というより、ほとんど息の根を止めたと言えるだろう。なにしろ比叡山といえば、平安時代の仏教エリートであった最澄が開き、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった錚々(そうそう)たる人材を輩出した仏教界の最高権威だったのである。
もう一つの大仕事は、日本各地で燃えさかっていた一向一揆の民衆のエネルギーを一つひとつ潰していったことである。そして、最後に大坂の石山本願寺に結集した一揆勢力を正面から攻め、陥落に追い込んだ。民衆から湧き上がった宗教エネルギーをそこで根絶やしにしたのである。上も潰して、下も潰すという、まさに「魔王」とも呼ぶべき信長の二つの大仕事によって、日本の社会は急速に世俗的な社会に変容していった。
山折氏は、日本人は「宗教嫌いのお墓好き」あるいは「信仰嫌いの遺骨好き」と述べているが、そういった墓信仰と遺骨信仰が一般的な日本人の信仰になるのは徳川時代以後のことである。その徳川時代に今日まで続く檀家制度ができあがった。それが宗教の世俗化を促進した決定的な要因だが、その地ならしをした人物こそ織田信長だったのである。
さて、いま墓信仰や遺骨信仰と言ったが、それらは仏教ではなく、「招魂再生」を掲げる儒教の影響を強く受けている。儒教はよく、古臭い倫理道徳の話と誤解され、宗教ではないと思われているようだ。しかし、本当は儒教ほど宗教らしい宗教はない。
宗教とは何か。中国哲学史の第一人者で儒教に詳しい加地伸行氏によれば、宗教はその人にとって必要ということがあって、はじめてその姿が現れるものであるという。宗教とはそのように「自分にとって」という実存的なものであり、必要としない人には宗教は無縁である。まさに「馬の耳に念仏」といったところだろう。
それでは、いつどういうときに宗教を意識し、求め、必要とするのかということになる。もちろん人それぞれだろうが、大半の人において宗教が意識にのぼってくる大きな機会がある。それは「死」だ。もちろん死の前に「老い」や「病い」もあり、そのときに宗教を意識する場合も多いが、自らの死を前にするとき、ほとんどの人は確実に宗教を意識するものではないだろうか。
加地氏によれば、宗教とは「死ならびに死後の説明者」に他ならないという。ふだん、死は不安であるにすぎないが、それが近いという現実になると恐怖となる。とすれば、その恐怖や不安を取り除くやめに「死とは何か」と考えるのが人間だが、大半の人間は心弱く、ただうろたえるばかりである。そして行きつくところ、誰かにすがって説明を求めるようになる。
それでは、いったい何が死について語りうるのだろうか。人々は死から逃れるために医学にすがりつく。でも、生物であるかぎり、人間はかならず死ぬ。医学は人が死ぬまでを説明することができても、死んだ後はまったく無力である。そのとき、死後について説明している、あるいは説明できるものは、ただ宗教だけなのだ。
葬儀は、まさに死と死後についての説明を儀式という「形」にしたものであるが、ほとんどが仏式とされている日本の葬儀には実は儒教の影響が色濃く見られる。詳しくは本書の「冠婚葬祭」の章をお読みいただきたいが、葬儀だけでなく、墓もお盆の行事もすべて仏教というより儒教が生み出したものだ。つめり、日本仏教そのものが儒教の影響を強く受けているのである。
また、儒教だけでなく、神道や仏教も含めた宗教性について考えてとき、前作『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』で述べた宗教の真の定義を紹介したい。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教はいずれも唯一絶対神を信じ、啓典を持つ三姉妹宗教であり、買う宗教の表層にはそれぞれの神学がある。
しかし、神学とはアリストテレス論理学などの影響が強く、哲学がその正体であると言ってもよい。そして、各宗教の深層にあって哲学の影響を受けていないもの、すなわち神秘主義が真の宗教であると言える。宗教の究極の目的が、神と人との合一、すなわち「神秘的合一(ウニオ・ミステイカ)」であるなら、神秘主義こそが宗教の純化した姿である。ユダヤ教におけるカバラ、キリスト教におけるグノーシス、そしてイスラム教におけるスーフィズム。あらゆる宗教は、その神秘主義において神もしく神的存在と直接的に接触し、交流し、秘められた神智の獲得をめざすのである。
神道・仏教・儒教もしかり。今日、日本人の私たちが知っている三教の姿は、きわめて表層的なものであると言える。その深層にはオカルティックな神秘主義の世界が潜んでいるのだ。神道においては、鎮魂法と帰神術で異界の神々や死者の霊とダイレクトに交流する「古神道」。仏教においては、生きながら仏の境地に達する即身成仏を最終目標とする「密教」、そして儒教においては「原儒」と呼ばれる儒教の源流がある。
原儒とは、学問としての儒学になじんだ日本人からは想像もつかないシャーマニックな世界で、一種の霊媒術でもある。孔子の母が原儒の流れを汲む巫祝であり、かつ葬祭業に携わっていた事実を、わが国における中国学の最高権威である白川静氏が名著『孔子伝』で初めて明かした。孔子は巫祝社会に成長し、同時代の誰よりも葬礼に精通していたのである。白川氏は、次のように書いている。
「古代の思想は、要約すれば、すべて神と人との関係という問題から、生まれている。原初的な信仰から、思想が生まれ、また宗教が生まれるのであるが、それは民族的な精神の自覚の方向によって、そのいずれかが選択されるのである。私はここでも、デルフォイの神託の意味を問いつづけたという、ソクラテスのことを想起する。それはやがて、その門人たちによってみごとな形而上学に展開するが、これに対して儒教は、きわめて実践性の強い思想として成立した。それはおそらく孔子が、巫祝たちの聖職者によって伝えられる古伝承の実修を通じて、その精神的様式の意味を確かめようとしたからであろう」
孔子が開いた儒教とは正真正銘の宗教なのである。古代の中国世界を描く特異な作家である酒見賢一氏の『周公旦』や、同じく特異な漫画家である諸星大二郎氏の『孔子暗黒伝』などを読めば、儒教がいかに宗教の中の宗教かということがよく理解できる。「礼」とは、土地の神々や妖怪の類を霊的に封じ込めるサイキック・テクノロジーであったのだ!「礼」は「霊」に通じるのである。
それにしても、このような深さを持つ神道・仏教・儒教をその体内に納めている日本人の宗教的胃袋の強靭さに改めて感嘆せざるをえない。
宗教を含む日本の特性については、「文明の終着駅」「文明の十字路」「文化の溶鉱炉」「文化の組立工場」など、今までに多くの言葉が与えられてきた。このような日本の文明や文化における把握は決して間違ってはいない。宗教哲学者の鎌田東二氏は、著書『神と仏の精神誌』で次のように述べている。
「極東という言い方に端的に示されているように、日本列島は確かにユーラシア大陸の東の果てに浮かぶ小さな島々の集合域であり、その先は太平洋やオホーツク海が果てしなく広がっているばかりであった。日本に対するいくらかロマンティックな幻想はそうした日本の置かれている地理的特性と条件に由来するところが少なくない」
そこは文明の終着駅であり、いろいろな文化・文明が流れついてメルトダウンする文化の溶鉱炉であった。またそこは、インド文明と中国文明の交差する場所であり、近代化の課程においては、東洋文明と西洋文明が激しく衝突し、かつ交錯し合う十字路だった。そうした意味では、まさしく日本は文化・文明の組立工場であったと鎌田氏は述べる。
そして、このような日本文化の特性が培われてきた根幹に「神神習合」というものがあったと鎌田氏は主張している。「神神習合」とは、日本の宗教文化を根本特性を表わすため、「神仏習合」という言葉の概念を拡張してつくられた鎌田氏による造語である。
「神仏習合」とは、本来、起源も成り立ちも意味内容もまったく異なる「神」と「仏」の信仰が、いつしか次第に重なり合い、融合したり表裏をなしたりする現象をさす。鎌田氏はかねてより、「神は来るモノ、神は立つモノ、神は祭るモノ」、そして「仏は往く者、仏は座る者、仏は成る者」と見事に対置し、両者を正反対なくらいに違う存在ととらえてきた。そして、その対極的な神と仏が「習合」するメカニズムおよび背景として、仏教渡来以前の一万年以上にわたる「神神習合」のプロセスがあり、その「神神習合」の一ブランチとして「神仏習合」文化が派生してきたとの説を提起してきた。
言い換えれば、「神神習合」とは、異神同体説ないし異名同神説といえる。つまり、本来、起源も成り立ちも名前もその働きも違う神と神とが、一つの神に統合されてゆく事態をさすのである。鎌田氏は述べる。
「神と仏はアルファとオメガほども違う。その正反対ともいえるものが一つとなり、三位一体ならぬ二位一体の表裏をなすものに変容し、一つの統合された神格としてイメージされるようになる。それは悪くいうと、御都合主義のようにもみえるが、多様性のなかに秩序と調和と統一性を見てとろうとする創造的共生の論理ともいえるであろう」
「神神習合」そして「神仏習合」とは、こうした創造的共生の論理と情念に支えられて生まれた文化現象なのである。そして、鎌田氏が「神仏習合」について三位一体ならぬ「二位一体」と表現しているところが興味深いが、私は日本人の宗教のメインストリームは「三位一体」そのものだと思っている。
前作『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』でも書いたように、三位一体説は三姉妹の啓典宗教にとって、信仰の根幹に関わる大問題である。まず、イスラエルの地でユダヤ人が唯一絶対神であるヤハウエを信仰した。ユダヤ教の誕生である。それをキリスト教徒が引き継いだ。ユダヤ教もキリスト教も、同じ唯一絶対の神を信じることに変わりはないが、ユダヤ教が徹底して唯一の存在としての神を信奉するのに対し、キリスト教では後世、多くの緩やかな神についての解釈が採用された。その代表が、三位一体説である。
すなわち神とは、「父」と「子」と「聖霊」。父なる神、人の罪を贖(あがな)うキリスト(救世主)としての神の子イエス、個々の信仰者に現れる神の化身的存在あるいは神の霊としての聖霊の三つで、それら三者が曖昧(あいまい)に微妙なバランスをもって、ともに神として存在しているというのである。
しかし、同じく唯一絶対の神を信じるユダヤ教とイスラム教は、イエスが神であるという教義に真っ向から反対した。イスラム教においては唯一絶対神アッラーの存在がすべてである。その他にイエスなどという神を立てるようでは一神教とは言えないとして、キリスト教を激しく批判する。イエスもただの人間であり、それはムハンマドも同様だ。ただし、イエスもムハンマドも、ともに神の言葉を預かる偉大な預言者なのである。
イスラム教は、イエスは神であるという教義だけでなく、父と子と聖霊、つまり神とイエスと聖霊は一体であるという三位一体説も否定した。第一、一神教の神の他に、イエスという「神」を立てると二神教になるではないか。その他にさらに聖霊などというものが存在すれば、三神教である。事実、『コーラン』には、「キリスト教は自らを一神教と言っているが、現実は三神教ではないか」と記されている。さらには、キリスト教のカトリックにはマリア信仰まで存在するので、なんと四神教になってしまう。
このような三位一体説、つきつめればイエスの存在をどうとらえるかでユダヤ・キリスト・イスラムの三姉妹宗教は見方を異にし、対立して、血を流し合ってきたと言える。
ところが、私は日本こそ三位一体説の国ではないかと考えている。それは、父と子と聖霊によるものではなく、「神」と「仏」と「人」による三位一体説だ。宗教や信仰とは結局、何かの対象を崇敬し、尊重することに他ならないが、日本人は森羅万象にひそむ神を讃え、浄土におわす仏を敬い、かつ先祖を拝み、君主をはじめ他人に対して忠誠や礼節を示してきた。
かつてプロ野球で、西鉄ライオンズの黄金時代には「神様、仏様、稲尾様」と言われ、阪神タイガースでも「神様、仏様、バース様」といわれた。日産自動車のV字回復を果たしたカルロス・ゴーン氏、自民党の歴史的大勝を導いた小泉潤一郎首相、石原慎太郎東京都知事も神や仏と並び称されるようなカリスマ的人物であるし、彼らの活躍によって恩恵を受けた人々からすれば、ためらいなくそのように呼ぶであろう。考えてみれば、生身の人間を神仏と並べるなど、まことに恐れ多いことである。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教といった一神教においては、神と人間を並べるなど、絶対にありえないことだ。しかし、日本ではそれが当たり前に行なわれてきた。
さかのぼれば、西郷隆盛や徳川家康といった歴史的英雄がそうであったし、そもそも、日本では天皇そのものが神仏と並び称される存在である。なにしろ天皇とは、『古事記』に出てくる神々の子孫でありながら、仏教も信仰してきた歴史を持つのであるから。
日本人は、「神様、仏様、○○様」と、現実に生きている人間を神仏と並べる。これは、まさに神、仏、人の三位一体であり、それらの容器となった宗教こそ、神道、仏教、儒教ではないだろうか。
「神神習合」があって、「神仏習合」があり、さらには「神仏儒習合」がある。これが日本人の伝統的な宗教意識を形づくっていると私は思う。そして、日本流「三位一体」をなす「神仏儒」を一つのハイブリッド宗教として見るなら、その宗祖とはブッダでも孔子もなく、やはり聖徳太子の名をあげなければならないだろう。
神道や仏教のみならず、儒教までをその体内に取り入れている日本人の精神風土を私は全面的に肯定する。別に「無宗教」とか「宗教の世俗化」ということで卑屈になる必要はまったくない。一神教の世界では戦争が絶えないが、日本人はあらゆる宗教を寛容に受け入れる。その広い心の源流をたどれば、はるか聖徳太子に行き着くのである。
日本の歴史については、実にさまざまな見方がある。戦前の歴史教育と現在の歴史教育とでは違うし、現在の歴史観に関しても意見は分かれている。しかし、いかなる歴史的立場にあっても、否定できない事実が一つある。それは日本という国が歴史の上において一つのまとまったものとして現れたのは、聖徳太子以来であるということだ。
それ以前の日本は、いくつかの有力な豪族の支配の下に分割されており、聖徳太子こそは実質的な意味において日本の建国者であると言える。太子は従前の氏族制度を根底から革新して、統一国家としての新しい日本を建設した。そして、このような革新を達成するための政治の基調として、仏教を採用したのである。
仏教は日本に渡来してから、わずか数十年が経過したばかりで、大陸の文明と節食していた一部の人々によって奉ぜられていたのにすぎなかったが、太子は仏教を政治の基調に置いた。それによって、諸部族の間の対立を緩和し、宥和して、民衆の生活における倫理性を高めようとしたのである。当時の仏教は、進歩した学問・芸術・技術の総体であったので、仏教を盛んにすることは、学問や芸術を振興し、技術を進展させることでもあった。
太子は自ら経典を講義するとともに、「法華経(ほけきょう)」「維摩経(ゆいまきょう)」「勝鬘経(しょうまんきょう)」という三つの経典を注解した。その結果は、『法華義疏(ほっけぎしょ)』四巻・『維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)』三巻・『勝蔓経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』一巻として今日に伝わっている。
政治の面においては、冠位十二階を制定した。これは群臣を、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・大義・小義・大智・小智という一二の位に秩序づけたものである。「徳」「礼」「信」「義」「智」といったコンセプト群には明らかに儒教の強い影響を見ることができる。
太子が冠位十二階を定めたのは七世紀初頭だが、儒教が日本に伝来したのは六世紀初頭であるとされている。応神天皇の時代、百済(くだら)王が阿直岐(あちき)を使節として良馬を献じた。この阿直岐は学問に通じた人物で、天皇は皇子の稚郎子(わさいらつこ)を学ばせた。翌年、さらに阿直岐の勧めにより百済の博士である王仁(わに)を招き、王仁は『論語』一0巻、『千字文』一巻を持参し、稚郎子の侍講になったという。
この皇子は大変に気性の激しい人物で、高麗(こま)王の表文に「高麗王、日本国に教う」とあるのを大変怒って、使者に無礼を詰責し、そのうえ表を破ってしまったと『日本書紀』に記されている。一方、王仁の子孫は河内にいて、西史部(こうちふびと)となり、次いで帰化した後漢の霊帝の子孫と称する阿知使主(あちのおみ)の子孫は東史部(やまとふびと)となり、ともに朝廷の記録を司ることになった。それから、欽明天皇の頃までに多くの博士たちが日本にやってきて、大和朝廷の学問や芸術を盛んにしたのである。
儒教に次いで仏教も日本に入ってきた。その年代については五三八年、五五二年など諸説あるが、六世紀の中頃であることはおおむね間違いない。『日本書紀』によれば、欽明天皇の時代、百済の聖明王から金銅(こんどう)の釈迦像一体と経綸・仏具などがもたらされた。贈った側の使者が、「この法は、周公・孔子も知り給わなかった」と重々しく述べ、「福徳果報を生ず」とも言った。これについて司馬遼太郎などは、本来「空」であるべき仏教について、いきなり現世利益を説くのは笑止だが、いまさら六世紀の使者に文句を言ってもはじまらないと、著書『この国のかたち』で述べている。
さて、それ以上に当時の日本人を驚かせたのは、彫刻だった。六世紀といえば、古墳におさめるための埴輪がしきりに生産されている時代である。その程度の技術しか持たなかったこの時代に、まるで生きているような人体彫刻が、釈迦像の形をとってもたらされたのである。しかも、鋳銅に金メッキがほどこされていた。日本人が金メッキを見たのもこのときが初めてであり、欽明天皇は非常に驚いたそうである。
ブッダの頃のインド仏教には仏像はなく、金銅仏を含めた仏像は二世紀頃にガンダーラで初めてつくられたとされている。つまり、四〇〇年もかかって、仏像は日本にやってきたのだ。
儒教も仏教も伝来する以前、日本人が信仰の拠り所にしていたのは神道だった。司馬遼太郎は、『この国のかたち』第五巻の「神道」の項目を次の書き出しではじめている。
「神道(しんとう)に、教祖も教義もない。
たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも海底の底つ磐根(いわね)の大きさをおもい、奇異を感じた。
畏(おそ)れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れて汚さぬようにした。それが、神道だった。
むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」
さし昇ってくる朝日に手を合わし、森の主の住む大きな楠にも手を合わし、台風にも火山の噴火にも大地震にも、すべての自然が与える偉大な力を感じとって手を合わす心。自然の営みのリズムそのものの発動、地球の律動の現われに対する深い畏敬の念を、あらゆるネイティブな文化と同じように神道も持っていたのである。「グレート・スピリット」とか「自然の大霊」とか世界中でさまざまに表現される存在を、神道では「八百万(やおよろず)の神」と呼んだ。
自然に対するシンプルな畏れの儀礼化。古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益の卑しさはなかった。このように長いあいだ自然をもって神々としてきた日本人だったが、仏教が伝来したときは、従来の神々が淡白すぎて迫力に欠けると思わざるをえなかったのである。
この「仏教インパクト」に朝廷は大きな衝撃を受けた。さまざまな神を崇拝し、素朴な「ひもろぎ」の信仰を持つ日本人に、七宝荘厳の仏像や、その礼拝形式はいかに驚きを与えたことか。神ながら「言挙げせぬ」、無口な日本人にとって、表現もゆたかに想像と論理の大じかけな経綸の説明はどんなに感動を与えたことか。
この仏教の受け入れをめぐって、豪族の間に激しい対立・抗争が引き起こされた。物部(もののべ)氏は、古来の神々の怒りを買うことを恐れ、仏教打倒、すなわち廃仏を主張した。一方、帰化人の系統で異質な氏族もいた蘇我氏は仏教を必要とし、自らの館を寺として仏像を安置した。この両者が衝突したのである。この対立・抗争は、やがて蘇我馬子が物部守屋を討伐して終わった。ここに大勢は仏教容認と決められ、たちまち仏教は日本中に普及してゆくのである。
仏教が日本に根をおろすことができたのは、何と言っても聖徳太子の功績である。太子は五七四年、用命天皇と、その異母妹である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に生まれた。名を厩戸皇子(うまやとのみこ)あるいは豊聡耳命(とよとみみのみこ)という。用命天皇は欽明天皇を父とし、蘇我稲目(そがのいなめ)の子の堅塩媛(きたしひめ)を母とする。そして間人皇女の父も欽明天皇であり、母は堅塩媛の妹の小姉君(おあねぎみ)であった。つまり、太子は欽明天皇と蘇我稲目の血を二重に受けているのだ。
欽明天皇以上に、蘇我稲目は仏教を熱烈に崇拝した。太子の中に流れる崇仏の血は、蘇我氏の血である。また、幼い頃からの父母の影響で、仏教崇拝の心が太子の中で強くなっていった。仏教に懐疑的だった敏達天皇が亡くなったため、太子の父である用明天皇が即位した。しかし、その用明天皇も亡くなり、崇仏派の蘇我氏、廃仏派の物部氏の間に戦争が起こったのである。
このとき、まだ一四歳だった太子は、仏教の守護神である四天王像を木でつくり、戦勝を祈願した。戦争は蘇我氏すなわち崇仏派の勝利に終わったため、崇峻(すしゅん)天皇が即位した。このとき、日本が仏教国になったことを宣言するべく「法興(ほうこう)」という年号が制定された。やがて崇峻天皇は蘇我馬子と対立して、馬子に殺されることになる。次に即位したのは敏達天皇の皇后の推古天皇だった。推古天皇は用明天皇の同母妹であり、太子の叔母にあたる。推古天皇が即位すると、太子は摂政となり、馬子とともに国政を司った。
太子が天皇にならなかったことは日本史上の大きな謎とされている。生涯「太子」の地位にとどまって、歴史に輝く偉大な事業をなしとげた実質的帝王という存在が、はたして世界中を見渡してもどれだけあるだろうか。聖徳太子は自分が天皇になろうと思えば、なれたと言われている。少なくとも実質的に権力の確立した晩年においては、きわめて容易であったはずである。それなのに、天皇にならなかったのはなぜか。
そのあたりの謎が、巷(ちまた)に「聖徳太子はいなかった」と主張する人々を登場させるのだろうが、仏教学者の中村元などは、「いろいろと事情はあったのであろうが、叔母の推古天皇を上にいただいて、自分は終生皇位につかなかったということは、うるわしいことである」と、著書『聖徳太子』に書いている。一四00年後の今日では、むしろ「太子」と呼ぶことによって、人々はかえって親しみを感じるのかもしれない。
さて、推古天皇は即位後まもなく、三宝興隆の詔(みことのり)を発した。その前年には有名な難波の四天王寺が落成している。多くの群臣たちは、詔に応じて、上は天皇のため、下は各自の父母の恩に報いるため、競って寺を建立した。この勢いに乗じて朝鮮半島からも僧侶が次々に布教に訪れ、わが国最初の大寺といわれる法興寺(ほうこうじ)も落成した。そのとき、六0四年に聖徳太子によって憲法十七条が発布されたのである。
六0四年に儒教精神に基づく冠位十二階を制定した翌年のことであり、この憲法十七条こそは太子の政治における基本原理を述べたものとなっている。日本における成文法の最初のものであり、国家の官吏の遵守すべき原則的な心がまえが書かれている。はるか時代は下り、明治になって国家の根本法典である「コンスティテューション」の訳語をこの憲法十七条の「憲法」としたのは、そのような性格を持っていたからである。
鎌田東二氏は、『神と仏の精神史』に収められた「聖徳太子――宗教国家構想」において、『先代旧事本紀大成経』という文献に憲法十七条が実は五種類ある憲法のうちの一つを伝えているにすぎないという伝承が明記されていることを紹介している。そこには、その憲法十七条中の第二条、すなわち「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」としてよく知られている条文が、実は「篤く三宝を敬へ。三宝とは儒・釈・神なり」の改竄であったとさえ記されているという。
『先代旧事本紀大成経』は一般の歴史学者からは「偽書」として無視されている。しかし、「正史」と「偽書」の境目とは極めてファジーなものだと私は思う。大和書房社主にして古代史に詳しい大和岩雄氏などは、『古事記』でさえ偽書説を唱えているくらいだ。鎌田氏も、『先代旧事本紀大成経』の伝承をまったく根拠のない、捏造された「偽史・偽伝」として捨て去っていいと考えるとしたら、歴史研究や思想研究はきわめて貧弱で皮相なものにならざるをえないであろうと述べる。
聖徳太子伝にかぎっていうなら、そもそも「正史」の筆頭に置かれた『日本書紀』の聖徳太子伝承ですらはなはだしい神話化・神格化がほどこされているのだから、聖徳太子の「実像」は謎という他はない。単に太子の「実像」を明らかにするのではなく、かえって太子の「虚像」ないし神話の奥にあって、そうした「像」を生み出し、かつ支える歴史的構想力や神話的思考こそが必要だろうと鎌田氏は主張する。
実際、聖徳太子ほど神話的思考に彩られた人物はいない。太子説話は、すでに早く『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』と『日本書紀』のうちに見出される。『法王帝説』には、後の夢殿伝説の萌芽ともいうべき金人来教の説話と恵慈(えじ)追死の説話が記されている。また、『日本書紀』には、この恵慈追死の説話の他、厩戸(うまやど)生誕、豊聡耳(とよとみみ)、片岡山の飢人遭遇などに冠する説話をあげている。この点から、太子は当時すでに神格化、神話化されていたと言えるだろう。
太子説話は、思託(したく)の菩薩伝や淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』の南岳慧思後身説、さらに『日本霊異記』の聖武再生説などを経て、平安中期の『聖徳太子伝暦』に集大成される。これを基本として太子の伝記を絵画化したものが「太子絵伝」で、後世広く流布し、太子信仰の一つの担い手となった。『伝暦』に登場する太子信仰に関するエピソードには、次のようなものがある。
入胎のとき、母后が夢に金色の僧を見た。僧は、「われは救世の菩薩なり。家は西方にあり」といい、母后の許しを得て口中に入った。そのとたんに母后は目を覚ましたが、喉の中にはまだ物を飲み込んだときのような感触があった。入胎一二か月を経て、母后は宮園内の厩の前で太子を産む。殿内に入った後、赤い光、黄色い光が西方より射しこんだ。太子には香気があった。
二歳のとき、太子は合掌し、東に向かって「南無仏(なむぶつ)」と唱え、再度礼拝した。三歳のときに花園で遊んだときには、「桃花は一旦の栄物、松葉は万年の貞木なり」といって、松葉を賞した。
一四歳のときに、蘇我馬子が塔を建てた。太子の言葉を機縁として、馬子の願いに応じて仏舎利が突如として出現した。
二六歳のときに、百済より阿佐王子来朝に際し、太子はその眉間から長さ三丈あまりの白光を放った。三五歳のとき、「勝鬘経」を講じ終わった後、長さニ、三尺の蓮花が雨ふり、三、四丈四方の講説の地に満ちあふれた。
四二歳のとき、片岡山の飢人に会う。飢人が没した後、その墓をひらいたところ、彼の遺体はなく、衣服がたたんで置いてあった。ただ、太子の与えた紫の袍(わたいれ)だけはなかったという。
これらの太子の事蹟はそのまま史実とは受け入れがたい。しかし、すべてがフィクションであると断定することもできない。ともかく、ここに描かれる太子には、仏伝その他の仏教伝説や、さらにはキリスト教伝説の影響まで見ることができることは明らかである。太子研究の第一人者である久米邦武は、唐代の大陸に渡ったキリスト教の一派である景教によって、ベツレヘムの馬小屋で誕生したキリスト伝説がわが国にも伝わり、それが混入したのではないかと推定している。このように聖徳太子は民衆によって理想化されていった。この「暦伝」こそは、初期の太子信仰を見事な反映であるとともに、それ自身が太子信仰をつちかっていったと言えよう。
さて、鎌田東二氏に戻りたい。鎌田氏の考えでは、『先代旧事本紀大成経』の思想的要諦は、神儒仏一致論にあるという。神儒仏一致思想とはいっても、神道を根本とし、統合のかなめと考える神道中心主義、もしくは神国主義が見てとれる。五憲法伝承の本質も、このような神儒仏一致思想の表現しあると考えられる。そして、その神儒仏一致思想の設定者を聖徳太子に見ているために、太子像がますます神聖化され、思想性を担う先達として表われてくるという。
『先代旧事本紀大成経』においては、聖徳太子は仏教思想家としてではなく神儒仏習合思想家として登場する。この太子に対して鎌田氏は、「神儒仏習合思想のファウンダー」という呼び名を与えている。ファウンダーとは、企業などでよく使われるが、創始者のことである。それでは、太子の神儒仏習合思想のファウンダーとしての根拠はどこにあるのか。そして、その神儒仏習合思想は太子の宗教国家構想にどのようにつながっているのだろうか。
晩年の親鸞が「皇太子聖徳奉讃」をはじめ、三種類の聖徳太子和讃をつくっていたことはよく知られている。まさに親鸞は、太子を「和国の教主」として、日本仏教のファウンダーの位置にまで高めた。また父母のごとき慈悲を持つ救世(くせ)観音の示現としてたたえているのである。同時代の明恵も、叡尊も、やはり「太子和讃」で聖徳太子の功績をたたえている。彼らは、いずれも聖徳太子を救世観音菩薩の化身・示現として尊崇していた。
とりわけ、親鸞の聖徳太子に対するリスペクト(尊敬)の深さはただごとではない。親鸞は、叡山仏教の腐敗に腹を立て、どう生きるべきかに悩んでいた。そして、京都の六角堂にこもった末、二度までも六角堂の本尊である救世観音のお告げを聞いた。一度目は、法然のところに行けという内容であり、二度目は、妻帯に踏みきれというお告げであった。この六角堂本尊の救世観音は、長く秘仏とされた法隆寺の夢殿の救世観音と同じく、聖徳太子そのものであるとされる十一面観音である。
つまり、親鸞は聖徳太子のお告げによって仏教の道を進んだことになり、これは日本仏教史においても革命的な事件であった。親鸞は師の法然以上に太子を深く尊敬しているが、もちろん太子が妻帯して子どもをもうけながら仏道を歩んだことも大きな理由だろう。九〇歳という当時では常識を超えた寿命を生きた親鸞は性欲を含めた身体エネルギーも桁(けた)外れに大きかったはずであり、妻帯はきわめて重要な問題だったと考えられる。しかし、それにもまして、太子を日本仏教の開祖と心底信じていたからであると私は思う。そのことは、明恵や叡尊とちがって、親鸞がはっきりと和讃美冒頭に「和国の教主」とうたっていることからもうかがい知れる。親鸞にとっての聖徳太子像は、単なる仏教を受容し、紹介し、実践した人物などではない。それよりもはるか高い位置にあり、ブッダに等しい者として日本仏教を創始した菩薩の化身として光り輝いているのである。
このような仏教者側のいわば神話的思考に対して、中世の神道家たちはどのような神話的思考をもってこれに対処したのだろうか。彼らははたして聖徳太子の仏教受容とその実践をどのように位置づけ、評価したのであろうか。
聖徳太子によって開かれたといってよい神仏習合思想は、「本地垂迹(ほんちすいじゃく)説」や「反本地垂迹説」という新しい習合思想を生み出した。「本地垂迹説」とは、仏が本体で、民衆を教化し救済する仮の姿となって現われてきたのが神であるという思想だ。仏が本で神が従であるとの説ゆえに「仏本神従説」とも呼ぶ。この「本地垂迹説」に対抗するようにして登場したのが、「反本地垂迹説」である。それは日本の神が本で、インドに現われた仏は仮の姿であるという。
この「反本地垂迹説」を強く主張したのは、応仁の乱の頃に登場した吉田兼倶(かねとも)である。唯一宗源神道(吉田神道)の提唱者で、京都の神楽岡にある吉田神社を拠点として、そこに大元宮という正八角形の神殿を建立した。おそらく吉田兼倶はこの「八」の数字に、八百万の「八」という象徴的な意味合いを込めたのだろう。「八」はすべてのものを包んでおさめる秘数であり、万物の栄、弥栄(いやさか)を表わす数字であった。そのような八角のシンボリズムを通して、兼倶は宇宙の全体を大元宮という八角形の社殿におさめたのである。それは、いわば「神道曼荼羅」づくりと言えるだろう。
兼倶は『唯一神道法名集』という本の著者だが、その中で「根本枝葉花実説」という興味深い思想を展開している。根本すなわち根っこが日本の「神道」で、枝葉すなわち枝や葉っぱが中国の「儒教」で、花実すなわち木の実がインドの「仏教」であるとの説だ。
「神道」の根から生え、生い茂った「儒教」の葉から実った花実として熟したものが「仏教」であるとする。それがやがて大地に落ち、もう一度、元の根源である「神道」の大地に戻る。これが「仏法東漸(ぶっぽうとうぜん)」の因縁のメカニズムであると説明するのである。つまり、神道、仏教、儒教という三つの宗教がここでは植物の根と枝葉と花実にたとえられ、そのつながりと循環のプロセスが描かれ、それによって根である神道の根本的優位性が主張されたわけである。
鎌田東二氏は、この「根本枝葉花実説」を単純な神儒仏一致思想ではないと述べている。三教一致ではなく、三教の間に厳然たるヒエラルキーをもうけ、中でも神道を根本として三教の関係構造を定式化したものであるという。このような論は慈遍にも見られるというが、仏教家サイドの神仏習合思想すなわち本地垂迹思想に対して、主として神道家サイドの神仏習合思想すなわち反本地垂迹思想として逆提起されてきたものなのである。
そして注目すべきは、この「根本枝葉花実説」の本当の考案者が聖徳太子とされていることである。また、それが秘密の奏上として位置づけられていることである。つまりここでは、神仏習合の隠された意味が説き明かされるという仕組みになっているのだ。「唯一宗源神道」という神道の中の「隠幽教」なるものを提示することが吉田兼倶の主張だった。
兼倶の思考スタイルとは、神道のいわば密教の部分、つまりエソテリズムをちらつかせることでその根源性や優位性、そして正統性を強調するというものだったのだ。
かくして、聖徳太子が仏教を受容したことの隠された意味や真意が説かれ、そこでの太子像は「和国の教主」ではなく、神道を枢軸とした神仏儒習合思想の主唱者として、そのファウンダーの位置を獲得するのである。太子は、神道、仏教、儒教の三教というアジア的思想の調停者であり、統合者となったのである。
鎌田氏はさらに、『日本書紀』に描かれている幼少期からの太子の異能についての記述に注目する。すなわち、「兼ねて未然を知りたまへり。且つ内教を高麗の僧慧慈に習ひ、外典を博士覚_に学びたまふ」という箇所は、はっきりと太子が神道と仏教と儒教を身につけたことを示している。すなわち、知未然=神道、内教=仏教、外典=儒教の三教習得を示しているのである。そして鎌田氏は、この順序が『日本書紀』における思想的位置の高低を表わしていると述べる。建前としては、律令体制は、上から神道、仏教、儒教の順にその高低を位置づけたのだ。それはいわば、霊の領域を神道に、心の領域を仏教に、そして体の領域を儒教に任せるという宗教的分業体制ないし相互補完体制の確立を意味しているというのである。
「審神(さにわ)」という言葉がある。もともと古神道の用語だが、平たく言えば、神々の正体を判定することである。かねてより「仏教は世界宗教における審神の役割を担っている」と広言している鎌田氏は、聖徳太子は仏教と仏菩薩をもって日本の神道と日本の神々を審神したという。少なくとも、太子は多神教で雑多な神道的な伝承と習俗だけでは普遍的な理法に基づいた統一国家は生まれないと考えていたであろう。それだからこそ、冠位十二階と憲法十七条という普遍的な理法に基づいた制度と精神原理を確立しようとしたのではないか。そしてその普遍的な理法のうえに、あるいはそれをもって中国の「西皇帝」に対して日本の「東皇帝」を確立し、アジアの中に位置づけようとしたのではないか。このように鎌田氏は推測するのである。
つまるところ、憲法十七条の最初の三条が、普遍思想に基づいた聖徳太子の宗教国家構想をよく示している。
「一に曰はく、和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗(むね)と為よ。人皆党有りて、亦達者(またさとれるもの)少し。是を以て或は君父に順はず、乍隣里(またさととなり)に違へり。然れども上和ぎ下睦びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)へば、則ち事理自(ことはりおのずから)に通ふ。何事か成らざらむ」
この第一条は、儒教による人間の身体の領域の制度化を説いている。
「ニに曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世何れの人か是の法を尊ばざる。人尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し。能く教ふるときは従ふ。其れ三宝に帰りまつらずば、何を以てか枉(まが)れるを直さむ」
この第二条は、仏教による人間の精神の領域の立脚点を説いている。太子が普遍的な究極の理法としているのは、この第二条でいう「三法」である。
「三に曰はく、詔(みことのり)を承りては必ず謹め。君をば則ち天とす。臣をば則ち地とす。天覆ひ地載す。四時順行き、万気通ふことを得。地、天を覆へさむと欲(す)るときは、則ち壊(やぶるること)を致さむのみ。是を以て、君言(のたま)ふときは臣ら承る。上行けば下靡く。故れ詔を承りては必ず慎め。謹まずば自ら敗れなむ」
この第三条は、天皇中心主義的な神道による人間の霊魂の領域の原則を説いているのである。鎌田氏は「聖徳太子――宗教国家構想」の最後に次のように書いている。
「こうして太子は、天皇(制)をつくるとともに、天皇(制)を相対化するしくみと基準をも同時に設定した。聖徳太子は、仏教を普遍性の基準として儒教と神道を接木したのである。少なくとも、そう解釈できる余地と暗示をのこしているために、吉田兼倶をはじめとして、後世の神道家は太子をもって神・儒・仏習合思想のファウンダーに位置づけたのである」
いみじくも、『旧事本紀大成経』が記すように、聖徳太子は篤く三宝(仏・法・僧)=三法(神・儒・仏)を敬ったのだ。かの書は偽書とされたけれども、正史の中の正史とされる『日本書記』の聖徳太子伝承がその解釈が成り立つことを証明しているのである。
私は、この聖徳太子にはじまる神・儒・仏習合思想を「神」「仏」「人」の三位一体説と呼びたいのである。荀子もはっきりと述べているように「儒教」とは「人道」を力説したものであるからだ。神道とは「神の道」、仏教とは「仏の道」、そして儒教とは「人の道」なのである。
さて、神道における鎌田東二氏の存在は「現代の折口信夫」というべきフロントランナーであるが、仏教においてフロントランナーとなっているのは、何と言っても臨済宗の僧侶にして作家の玄侑宗久氏であろう。宗派にとらわれず、仏教を根源からとらえなおす玄侑氏の透徹な眼力は「現代の鈴木大拙」と言えるかもしれない。もっとも、現代人が直面する諸問題を禅の視点で解き明かす作家としての一面は「現代の夏目漱石」的であるとも言えるが。
その玄侑氏に『私だけの仏教』という著書がある。「ヴァイキング」式と称して、さまざまな料理にたとえながら仏教を紹介していきユニークきわまりない本だが、その中の「日本風」という項目には次のように書かれている。
「和風の料理と言えば、何より素材の味や風味を大事にするのが特徴だろう。日本風の仏教も、それの例外ではない」
つまり、さまざまな仏教が統合されたり整理されたりせず、いわば「八百万」的に咲きにぎわっているというのだ。ところでこのことを日本仏教最大の特徴と見るときに、どうしても思い出すのは仏教流入の立役者であった聖徳太子のことだと玄侑氏は述べる。そして、太子は憲法十七条の冒頭に「和を以て貴しと為し」と謳(うた)うが、これはまさに「和(あ)え物」の思想ではないかという。例えば「ホウレン草のゴマ和え」はゴマとホウレン草とがお互いの味や香りを引き立てあっているわけだが、日本の仏教事情、いや、もっと言えば宗教事情そのものが「和え物」状態ではないだろうか。また同憲法の第十条には「人の違(たが)うことを怒らざれ」とあるが、この態度も「八百万」を促すだろうし、もっと言えば「宗教的寛容心」を基礎づけていると玄侑氏は述べている。
玄侑氏は言う。この「宗教的寛容」の心こそ、すべての宗教を信奉するうえで最も大切なことではないか。他人が何を食べていようと、「それよりこっちの方が美味しいから食べてみなさいよ」と言って口元まで運んでいくような態度は、厳に慎むべきである。それは釈尊の「不害の説法」にも反するし「和」も乱しかねない。
日本仏教の在り方を考えた場合、古代神道の「八百万」という基盤と聖徳太子の精神に深く規定されている気がして仕方がないという玄侑氏は、そのものずばり『やおよろず的』という本も書いている。そこでは、日本人について、いわば古代神道の「やおよろず」という基本ソフトの上に、仏教やキリスト教、儒教や道教というアプリケーション・ソフトを開いている民族であると表現されている。仏教はかなり「やおよろず」ソフトには不可欠であり、仏教ソフトをインストールしないと「やおよろず」がうまく動かないという面があるという。なにしろ神道は「言挙げせざるの教え」であり、自分で自分のことを説明しない宗教であるため、仏教者が説明しないといけないわけである。
玄侑氏によれば、「やおよろず」というのは、いわば「正義」を認めない考え方であるから貴重であるという。「正義」というのはいつでも戦争を起こす原動力になってきた。だから、「あれもいいしこれも面白いね、と言っていれば恐らくテロも戦争も起こらないのではないでしょうか」というのである。
そうした「やおよろず」の考え方に、私たちは誇りを持ってよい。無節操なのではなく、意識的に「やおよろず」なのであると玄侑氏は力説し、「みんな違った歴史があるんです。人もみんな違うんです。それを、それぞれに認めるためには、もうウインドウズなんていうソフトじゃダメなんですね。マッキントッシュでもダメなんです」と述べる。これからは、太古から滅びない日本の基本ソフト、「やおよろず」の時代である。「初めは何か新手のウイルスかと思われるかもしれませんが、辛抱強くそのことを主張していけば、いつかは理解してくれて、やがては絶大な支持を得られるんじゃないでしょうか」と締めくくっている。
この「やおよろず」に代表される日本的精神は現代の世界が求めているものでもあると私は確信する。この一00年間、私たちは、ヨーロッパやアメリカの文明を取り入れるのに急であった。しかし、日本を打表する哲学者である梅原猛氏によれば、日本人は、おそらく世界の他のどのような国民ももたないような一つの精神的能力を持っており、それは自己忘却能力であるという。梅原氏は、著書『仏教の思想』で述べる。
「日本人は、外国の優秀な文化に面したとき、いつもおのれをむなしゅうして、外国文化の移入に全力をあげた。ほとんど自己自身を忘却しつくすほどの外国文化に対する熱中によって、日本は、なんとか外国文化の移入に成功した。奈良時代に始まる仏教文化の移入、あるいは徳川時代の儒教文化の移入、そして明治以後のヨーロッパ文化の移入。しかもこうした移入の時代が過ぎると、やっと日本人は自己自身をとりもどす時代が来るのである。そして、伝統に復帰しつつ、そこに一つの創造を行なうのである。じこの伝統への復帰が同時にそこに一つの創造を成し遂げるのである。ちょうど、平安時代がそのような創造の時代であり、文化文政時代が、そのような創造の時代であったかもしれない」
明治以後一00年以上にわたる忘却のときを経て、今や、日本におのれの伝統思想を想起すべきときが来ていると梅原氏は言う。世界が、東洋思想の伝統の中から、一つの新しい思想原理を必要としているとき、伝統をもう一度正しい姿においてとらえ、それを新しい世界史的立場において評価しなおすことは、ただ日本のみに必要な思想的課題ではなく、世界史的な思想的課題なのである。
私たちは、有史以後、中国文明とインド文明という巨大な文明を学びとった。そして明治以後はヨーロッパ文明をどの非ヨーロッパ諸国よりも熱心に学び取った。敗戦後は不本意ながらもアメリカ文明を学び取った。私たち日本人の中に、世界中ほとんどすべての文化の蓄積があるのである。この蓄積された文化を、二一世紀の世界の秩序の創造に生かしてゆかなかったら、まさに宝の持ち腐れではないか。
特に、現在の世界情勢は混乱をきわめている。二00一年に起こった九・一一同時多発テロからイラク戦争へとつながった背景には、文明の衝突を超えた「宗教の衝突」があった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三宗教は、その源を一つとしながらも異なる形で発展したが、いずれも他の宗教を認めない一神教である。宗教的寛容性というものがないから対立し、戦争になってしまう。
一方、八百万の神々をいただく多神教としての神道も、「慈悲」の心を求める仏教も、思いやりとしての「仁」を重要視する儒教も、他の宗教を認め、共存していける寛容性を持っている。自分だけを絶対視しない。自己を絶対的中心とはしない。根本的に開かれていて寛容であり、他者に対する畏敬の念を持っている。だからこそ、神道も仏教も儒教も日本において習合し、または融合したのである。そして、その宗教融合を成し遂げた人物こそ、聖徳太子であった。
考えてみれば、世界における日本思想の受容性を説く梅原猛氏は、かつて著書『隠された十字架』が大ベストセラーとなり、社会現象ともいえる聖徳太子ブームを巻き起こした張本人である。玄侑氏が高く評価する「やおよろず」も結局は、聖徳太子の「人の違うことを怒らざれ」の思想に行き着く。
偉大なり、聖徳太子。
本書に登場する最重要人物ともいえる聖徳太子こそは、宗教と政治における大いなる編集者であった。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を実現する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う。三つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を説いたのである。
この太子が行なった宗教における編集作業は日本人の精神的伝統となり、鎌倉時代に起こった武士道、江戸時代の商人思想である石門心学、そして今日にいたるまで日本人の生活習慣に根づいている冠婚葬祭といったように、さまざまな形で開花していった。
日本文化のすばらしさは、さまざまな異なる存在を結び、習合していく寛容性にある。それは、和え物文化であり、チャンプルー文化であり、ハイブリッド文化である。かつて、ノーベル文学賞を受賞した記念講演のタイトルを、川端康成は「美しい日本の私」とし、大江健三郎は「あいまいな日本の私」とした。どちらも、日本のある側面を的確にとらえていると言えるだろう。たしかに日本とは美しく、あいまいな国である。しかし、私ならば「混ざり合った日本の私」と表現したい。衝突するのではなく、混ざり合っているのである。無宗教ではなく、自由宗教なのである。
『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』では三大宗教の共通項を月に求めたが、世界のさまざまな宗教は月信仰から生まれたという説がある。地球上のあらゆる古代人たちは、月は死後の魂のおもむくところと考えた。月は天国や極楽そのものだったのである。多くの民族の神話と儀礼の中で、月は死、もしくは魂の再生と関わっている。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然である。
神道においては、ツクヨミノミコト(月読命)という月の神がいる。この神は、太陽神であるアマテラスオオミカミ(天照大御神)およびスサノオノミコト(素佐之男命)と並んで「三貴子」とされ、神々のパンテオンの最上位に位置している。アマテラスとスサノオといえば日本神話界の二大スーパースターだが、そのニ神と並ぶツクヨミの活動の記録は記紀にもほとんど残っておらず、いまだ謎に包まれている。しかし、アマテラスとスサノオが対立関係にあるのに対して、ツクヨミは無為の神としての平和的なイメージを発している。
仏教においては、ブッダことゴータマ・シッダールタは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったという。南方仏教の伝承によると、ブッダの降誕、成道、入滅の三つの重要な出来事はすべてインドの暦でヴァイシャーカの月(太陽暦の四―五月に相当)の満月の夜に起こったというのである。東南アジアの仏教国では、ヴァイシャーカの月の満月の日に、現在でも祭りを盛んに行っている。また、毎月二回、満月と新月の日に出家修行者であるビクシュ(比丘)たちが集まって反省の儀式も行われている。
儒教においては、どうか。月と儒教を結びつける決定的な証拠はない。しかし、儒教と並ぶ中国の宗教である道教においては月との関連はきわめて深い。道教では、月は真実すなわち「闇に輝く眼」であり、超自然的存在の象徴でもある。だからといって、儒教と月が無縁なわけではない。社会学の巨人マックス・ヴェーバーは、儒教について「本質的に平和主義的な性格のものであった」と、大著『儒教と道教』に明記している。まさに儒教の平和主義的傾向はライバルであった道教を否定せず、逆に取り入れていった部分さえあるのだ。
さらに、儒教や道教に代表される中国宗教の底流には中国神話があり、そこには「異教崇拝」を意味するペーガニズムが漂っている。つまり、東洋合理主義および現実主義的な儒教や道教で充満する中国となる以前の、非合理的で呪術的あるいは神秘主義的なもう一つの中国の顔があるのである。そこでの月は、自然界の中の女性的すなわち太陰の原理の本質である。受容的ではかないものの象徴でもあるが、同時に不死を表す。乳棒と乳鉢を持った月のウサギは、不老不死の霊薬を調合しているのである。こういった信仰から中国神話が生まれ、そこから儒教も道教も生まれてきたのである。
ちなみに、キリスト教では、月は大天使ガブリエルの住処とされ、「イエス・キリストの磔刑(たっけい)」の見事な象徴でもある。毎月、月は三日間だけ私たちの視野から消えるが、また姿を現し、次第に大きくなって満月になる。かのキリストは、人類のために死に、やがて復活して三日目に姿を現し、人間の命に光を当てた。
そのキリスト教と血で血を洗ってきた歴史を持つイスラム教においては、月は最も重要な存在とされる。特に三日月は楽園のイメージであり、復活の象徴とされる。『コーラン』には月に関する記述が多いが、神とムハンマドの関係について、「月が太陽の光を映すように、預言者ムハンマドは、神アッラーを映す」と神秘詩人ルーミーは表現している。
この他にも、世界のありとあらゆる宗教の原点にはいずれも月への信仰があるのだ。また、潮の干満によって人間が誕生したり死亡したりすることからもわかるように、月は人間の生死をコントロールしているという事実がある。さらには、月面に降り立った宇宙飛行士の多くは、月面で神の実在を感じたと報告している。
エド・ミッチェルは月に行く前は熱心なキリスト教原理主義者だったが、月体験後、キリスト教が教える人格神は存在しないと思うに至った。彼はあらゆる宗教の神は本質的には同じであるとし、宗教発生の秘密を次のように語っている。
「宗教はすべて、この宇宙のスピリチュアルな本質との一体感を経験するという神秘体験を持った人間が、それぞれにそれを表現することによって生まれたものだ。その原初的体験は本質的には同じものだと思う」
しかし、それを表現する段になると、その時代、地域、文化の限定を受けてしまうわけである。残念なことにその原初的体験を共有しているはずのユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、共生していくことができずに不幸な歴史を世界各地において刻んできたが、日本においては奇跡的にさまざまな宗教が共生している。月信仰より生まれた神道、仏教、儒教、さらには道教やキリスト教を日本人は受け入れてきた。
今後、さらに加速する国際化の流れの中で、イスラム教さえも受け入れていくかもしれない。でも、心配はいらないだろう。すべての宗教は月を源とし、時代、地域、文化によって形を変えたものにすぎない。ならば、日本人は受け入れることができるはずである。
そもそも、多神教と一神教という違いはあれど、神道とイスラム教には共通点が多いと私は見ている。教義というよりは人々の慣習や生活の隅々にまで宗教が入り込んでいる点や、お伊勢参りとメッカへの大巡礼ハッジなども似ている。おそらく十六世紀にキリスト教の代わりにイスラム教が日本に入ってきていれば、織田信長などは大いに気に入ったのではないだろうか。
日本は「やおよろず」の国である。そして、玄侑宗久氏も述べているが、月こそ「やおよろず」を支えるものだと言える。太陽は明確な意識の世界であり、月は無意識の世界である。明治以降、日本は近代国家として成長していく中で、太陽のような合理主義を取り入れ、月の非合理を駆逐していった。しかし、日本人にはより深く月の文化への親近性が根づいている。
長い歴史の中で、「やおよろず」という基盤の上に、さまざまなものを入れてきた。インドや中国や朝鮮からいろいろな文物が入り、それを「もののあはれ」として花咲かせてきた。あるいは「幽玄」として「秘すれば花」という花まで見つめてきた。
「幽玄」というのは、禅の影響を受けながら発展してきた文化である。その禅とは、玄侑氏によれば、明らかに月というものが素晴らしい仏性を象徴しているという。「水を掬(きく)すれば月手に在り」、「清風明月(せいふうめいげつ)を払う」、あるいは「月落ちて天を離れず」など、枚挙に暇がないほど、そういう禅語があるという。
キリスト教のミサで使う布なども、日本人は茶道の袱紗(ふくさ)という形で採り入れている。そのように、いわば太陽の小道具を月の小道具に変えてきたのである。能をはじめ、日本の伝統的な芸能や芸道の多くも太陽の文化ではなく、月の支配する文化ではないだろうか。このように日本文化の本質は、月の文化に他ならない。
そして、月とは「やおよろず」の根底にあるものであり、まさに「異文化のミキサー」の役割を果たしてきたのである。やわらかな月の光を浴びながら、各宗教は平和に混ざり合ってきたのである。これからも混ざり合っていくのである。
混ざり合った日本の私。
神道も仏教も儒教も、その体内に潜ませている私は、日本人であってよかったと心の底から思っている。