第三講「儒教の世界」
第三講「儒教の世界」
儒教ほど誤解されている宗教はないのではないだろうか。多くの人は、高級官僚をつくるための教養を与える宗教であるとしか思っていない。中には儒教は道徳あるいは宗教であり、宗教ではないという人もいる。しかし、儒教くらい宗教らしい宗教はない。
宗教の大きな目的の一つが魂の救済であるとするなら、儒教はそれに大きく関わっている。中国の世界観では、人の魂(たましい)には「魂(こん)」と「魄(はく)」があるとされる。人が死ぬと、魂(こん)は天に昇り、魄(はく)は地に潜(もぐ)る。そして、子孫が先祖を祀る儀式を行えば、天と地からそれぞれ戻ってきて再生すると考えられている。
中国人にとって最大の不安は、子孫が途絶えてしまうことである。なぜなら、もし子孫が途絶え、先祖である自分を祀る儀礼を行ってくれないとしたら、わが魂(こん)と魄(はく)は分裂したままさまよい、永遠に再生できないからである。本当の意味で自分は死んでしまうのである。
ならば、どうすべきか。天下の乱れをなくしてしまえば、そのような事態を未然に防げると考えたのだ。人々がみな幸福に暮らしていれば、家が絶えるという不幸な事態も起きないと考えたのである。そこで儒教では、政治を重んじた。正しい政治が行われることによって、生者のみならず死者もが救われるというのが儒教の思想であった。
「儒」という文字にその思想が込められている。後漢の許慎が完成した『説文解字』は最も権威ある文字の解説書とされる。それによると、儒とは「柔なり。術士の称なり」とあり、柔和なことがその意味であるという。「武」に対する「文」のようなものだろう。
また、アメカンムリが入っており、雨に濡れるの「濡」という字に似ている。清の文字学者・段玉裁(だんぎょくさい)は、アメカンムリの下の「而」は下に垂れたヒゲであるとした。乾いたヒゲはごわごわして、あちこちにぶつかる。一方、雨に濡れたヒゲは柔らかくスムーズであり、よって「儒」とは人間が社会でスムーズに生活する教えということになるのである。
儒教が宗教であることの理由はまだある。中国哲学者で、儒教研究の第一人者として知られる加地信行氏によれば、宗教とは「死ならびに死後の説明者」であるという。人間にとって究極の謎である死後の説明ができるものは宗教だけだ。そして、個人のみならずその民族の考え方や特性に最もマッチした説明ができたとき、その民族において心から支持され、その民族の宗教になるのである。
中国の場合、漢民族に最もしっくりくる「死ならびに死後の説明」に成功したのが儒教であり、儒教のあとに登場する道教だった。そのため、儒教や道教は漢民族に支持され、国民宗教としての地位を得たのである。仏教は漢民族の支持を得られなかったため、中国では確たる地位を得ることができず、ついには国民宗教となることができなかった。
この三つの宗教の死生観を見てみると、仏教には「輪廻転生」、道教には「不老長生」、儒教には「招魂再生」というコンセプトがある。仏教は生死を超えて「仏」になろうとする。道教は生死を一体化して「仙人」になろうとする。そして、儒教は生きているときには、「聖人」になろうとし、死後は祖先祭祀によって生の世界に回帰するわけである。
祖先の祭祀と子孫の繁栄を何よりも重んじる儒教の世界観は、「孝」という一文字に集約される。では、「孝」とは何か。祖先は過去であり、子孫は未来である。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、その現在とは現実の親子によって表される。親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点だ。だから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもある。
そこで儒教は次の三つのことを人間の務めとして打ち出した。第一は、祖先祭祀をすること。第二は、家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと。第三に、子孫一族が続くこと。そして、この三つをあわせたものこそ、「孝」なのである。「孝」というと、ほとんどの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった誤解をしているが、そうではなく、死んでもなつかしいこの世に再び帰ってくることができるという「招魂再生」の死生観と結びついて生まれてきた観念が「孝行」だ。死は全人類に共通した不安であり、恐怖である。しかし、これによって、中国人は死への恐怖をやわらげたのだ。
加地氏によれば、招魂再生の第一目的は「慰霊」である。死を前にして恐怖に脅える人に対して、「心配しなくても、あなたをみなが忘れずに必ず呼び降ろします」という招魂再生の約束があるとき、死は怖いけれども、死後への安心感は生まれる。この「招魂再生の誓い」を現代の言葉に翻訳するとすれば、「亡き人の想い出を語る」ということだと加地氏はいう。
ある意味では、「孝」があれば人は死なないのである。それは、こういうことだ。死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転した「生命の連続」という観念を生み出した。祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することであり、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになる。また、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は存続していくことになる。とすれば、現在生きている私たちは、自分の生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、みなと一緒に共に生きていることになる。私たちは個体ではなく一つの集合生命として、過去も未来も、一緒に生きるわけである。それが儒教のいう「孝」であり、現在の言葉にすれば、「生命連続の自覚」ということだ。ここにおいて、「死」へのまなざしは「生」へのまなざしと一気に逆転する。これが儒教の死生観なのである。
この死生観は、「利己的遺伝子」という現代生物学の重要な考え方ときわめてよく似ている。利己的遺伝子とは、イギリスの生物学者であるリチャード・ドーキンスが唱えた学説だ。ドーキンスによると、生物の肉体は一つの乗り物(ビークル)にすぎないのであって、生き残り続けるために、生物の遺伝子はその乗り物を次々に乗り換えてというのである。なぜなら、個体には死があるので、生殖によってコピーを作り、次に肉体を残し、そこに乗り移るわけだ。
子は親の肉体のコピーなのである。「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなくて、文字通り「遺(のこ)した体」である。つまり本当の遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのであり、このように、「孝」はDNAにも通じる。「孝」があれば人は死なないとは、そういうことだ。祖先の祭祀を行い、子孫の繁栄を願うことは、自分の生命が死なないためでもあるのである。
儒教が宗教であることの証明に話を戻すと、それはずばり葬儀を行うことだ。葬儀を宗教ではなく、単なる習俗として見る人もいるが、葬儀とは紛れもなく宗教儀礼の根幹である。「死および死後の説明」を形にしたものこそ葬儀であり、特に儒教は葬礼を何よりも重視した。
もともと「原儒」と呼ばれた古代の儒教グループは葬送のプロフェッショナル集団であり、正式な儒教の創始者とされる孔子の母親も葬儀や占い、あるいは雨乞いに携わる巫女(みこ)だったという。雨乞いは、氏族の生活を左右する重要な農耕儀礼として、古代においては盛んに行われた。民俗学の古典中の古典であるフレイザーの『金枝篇』には、未開社会における雨乞いの儀礼が多く紹介されている。それゆえに、「儒」は需要の「需」、すなわち「もとめる」の意味でもあった。なぜなら、古代人の生活で最も切実にもとめられたのは、早魃の時の雨であるからだ。
そして、儒教の発生そのものが葬送儀礼と分かちがたく結びついていた。中国文学者の白川静氏と哲学者の梅原猛氏との対談『呪の思想』の中に、二人が儒家と墨家の対立について語り合った後、次のような会話が交わされている。
白川 孔子は葬式屋であった訳ですよ。
梅原 ほう。
白川 葬式屋と言うたらおかしいけれども、儒教の文献で、『礼記』四十九篇のうちの大部分はね、葬式の儀礼なんですよ。葬祭なんです。
梅原 そうですね。
白川 それを儒教が担当しておった。それで、墨子集団は、一種の工人集団であった。 あの、「ものづくり」です。
梅原 墨子は「ものづくり」ですか。そして孔子は葬式屋であると。
白川静氏によれば、孔子の父親と母親は正式の結婚をしておらず、孔子は私生児であったという。孔子から二00年ほど後に登場する孟子の母親は、孟子が子どもの頃に葬式遊びをするのを嫌って家を三回替えた、いわゆる「孟母三遷」でよく知られている。孟子の師である孔子も子ども時代にはよく葬式遊びをしたようだ。
私生児であり、かつ父親を早く亡くしたため、貧困と苦難のうちに母と二人暮らしをした孔子の少年時代。今でいう母子家庭である。葬送の仕事をやりながら、孔子を育てた母。そんな母親とその仕事を孔子はどのように見ただろうか。おそらく、深い感謝の念と尊敬の念を抱いたのではないだろうか。孔子は母親の影響のもと、「葬礼ほど人間の尊厳を重んじた価値ある行為はない」と考えていたとしか私には思えない。そうでないと、孔子が生んだ儒教がこれほどまでに葬礼に価値を置く理由がまったくわからなくなる。
現在では孔子の父親は山東省の下級軍人貴族であったとされているが、当時の孔子は父の名も知らず、その墓所など知る由もなかった。しかし、孔子一門の間に記録された葬礼の問題を多く集めた文献である『礼記』の「檀弓(だんぐう)篇」には、こう書かれている。それによると、孔子がその母を魯の城内に仮埋葬したとき、墓守の老婆に教えられて父の墓所を知り、合葬したという。墓所は改葬しないのが普通だが、孔子はあえてその父母を合葬したというのである。
父母の合葬という行為には、孔子の想いが滲み出ているように思う。両親に対する親愛の情はもちろん、「深く愛し合いながらも生前は夫婦になれなかった二人を、せめて死後において一緒にしてやりたい」という切ない願いが込められているように見える。孔子が大切にした葬礼とは「愛と死をみつめて」、人間の真の幸福を問う行為だったのである。このような孔子は巫女の私生児であったがゆえに、神の子であったのだと私は思っている。
その神の子である孔子の生涯は、決して恵まれたものではなかった。孔子の「子」は尊称で、「孔」が姓である。名は「丘(きゅう)」、他人からの呼称である字(あざな)は「仲尼(ちゅうじ)」。紀元前五五二年に魯の陬邑(すうゆう)、現在の山東省に生まれたとされている。三0歳前後までの孔子は、魯の国に仕えて、倉庫番や牧場の飼育係をしながら学問に励んだ。そして三六歳のとき斉の国に行き、四三歳のころ再び斉から魯に戻った。この時期になって、子路(しろ)や閔子騫(びんしけん)といった弟子たちが集まってきて、孔子の名声は高まっていった。
孔子が魯の国でそれなりのポストを得たのは五0歳を過ぎてからだった。五二歳で中都の代官となり、五四歳で司法長官となった。行政官として絶頂期を迎えたわけだが、このとき孔子は一種の行政改革を試みた。それが失敗に終わったために辞職し、五六歳のときに魯の国を出る。
以後一四年間というもの、孔子は曹、衛、宋、鄭、陳、蔡、楚と、諸国を流浪して、自分の政治的理想を実現してくれる君主を探し求めたのである。では、彼の政治的理想とはどのようなものだったか。それは道徳による政治、すなわち「徳治主義」であった。徳治主義とは、法律で人民をコントロールすることによって政治を行う「法治主義」に対するものだ。魯に伝わる周の文物制度を学び、周公旦を理想の人物と敬慕した孔子は、乱世における政治を周の制度に戻すべきであると主張した。周といえば、孔子の時代より五〇〇年も昔の紀元前一一世紀の頃である。その古(いにしえ)の理想の政治を実現するために、彼は徳治主義を提唱するのである。
孔子によれば、人民を統治するのに法律と刑罰をもってすれば、人民は法律の抜け穴ばかりを探し求め、恥じらいの心というものがなくなってしまう。人民を統治するのに徳と礼をもってすると、人民は恥を知り、不正を働かなくなるという。もっとも、『論語』の為政篇を読むと、孔子は為政者の統治についてのみ政治を考えたのではないことがわかる。家庭の日常生活において、祖先や親を大切にし、兄弟が仲良くすることも大きな意味での政治であると考えていたのである
孔子の道徳的・政治的改革は、一般の人間をすぐれた人間としての「君子」に変える方法のことであり、一種の全体教育と呼ぶべきものであった。道にそった儀礼的行動をとることができるなら、つまりは礼を正しく行うことができるなら、誰でも君子になることができる。しかし、こういった行動は容易に身につくものではない。それは外面的な儀礼主義ではないし、儀式を行うことで意図的に感情を高揚させることでもない。
孔子は、正しい儀礼を行うことによって、膨大なエネルギーを持った「呪術の力」あるいは「宗教の力」が解き放たれると考えたのである。「儒」は「呪」にも通じるのだ。宇宙や社会も、人間に働いているのと同じ呪術の力、宗教の力によって支配されており、礼にのっとって正しい行動さえすれば、それで充分であると考えたのである。個人においては、『論語』衛霊公篇で有名な舜王をとりあげ、「彼はただそこに、顔を南の方に三毛、重々しく威厳をもって立つ。ただそれだけである」と君子の儀礼的姿勢について述べている。
また宇宙および社会においては、為政篇の中で「徳による支配は、あたかも北極星になったようなものである。同じ場所にとどまったままで、他のすべての星がその周囲を忠実に巡っていく」と述べている。まさに、これこそが孔子の理想であったのだ。最もありふれたことから、最も予期せぬことまで、人生のいかなる状況においても礼儀正しくふるまえる君子。それには「仁」が必要だ。孔子は人間を儒教の最高徳目である「仁」に導こうとしていたのである。そして、すべてのものに「理」という本来の性格をもたらし、社会に秩序と持続性を与え、人間を社会全体に結びつけるもの、それがすなわち「礼」なのである。
しかし、結果として孔子の理想を理解し、理想を実現すべく彼を採用する君主はいなかった。ときには生命の危険にもさらされる苛酷な旅を終えて、大いなる人生の敗北者である孔子が故国の魯に舞い戻ったとき、彼は六九歳であった。最晩年の孔子は、政界への望みを絶ち、魯の国で子弟の教育に専念した。
実に三〇〇〇人の弟子を教えたという。そして、紀元前四七九年、七四歳で没した。
孔子が残した教えを具体的に見てみると、儒教の実践道徳として「五倫」と呼ばれるものがある。これは、『孟子』の中にある「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」をさす。ただし、『中庸』では、この五倫は「五達道」と称され、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の順になっている。父子を第一とする『孟子』に対して、『中庸』では君臣を第一とするのだ。家族主義的な『孟子』と国家主義的な『中庸』と対比させることもできるが、どちらも具体的な人間関係において道徳を説いている点は同じであり、まさにこれが儒教の特色であると言える。
このような具体的な人間関係における倫理規範としての「五倫」の他に、儒教には「五常」と呼ばれる徳目もある。すなわち、仁・義・礼・智・信である。もちろん「五倫」や「五常」は後世の弟子が定めたものであるが、その根本思想は儒教の開祖である孔子に基づいている。
仁義礼智にはじまる数多くのコンセプトを発見し、再編集した孔子にとって、最も重要なコンセプトとは、やはり「天」である。「天」は中国の伝統的な信仰の対象だが、中国最初の賢人である孔子もまた、天が人間界を支配するという堅い信仰を持っていたのである。孔子にとって、「天」とは「天命」の天、「天運」の天であって、畏怖すべきものに他ならなかった。そして、「礼」とは、何よりもまず「天」を祭ること。孔子の後に樹家の経典として編まれた『王経』の中の「礼」として、天神、地祇、人鬼の三つの形態に分類された神々への信仰と祭祀が詳しく記されている。
孔子の心中には、つねに「天」があったのである。そして、その「天」の秩序を地上に引き下ろすテクノロジーが「礼」であったと私は思う。「礼」はもともと古代中国の宗教から規範、および社会システムにまでおよぶ巨大な取り決めの体系である。「礼」の旧字体では「禮」と書かれるが、これは「履」の意味であり、人として履みおこなうべき道を示した。儒教は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』にも出てくることで知られる「仁義礼智忠信孝悌」のように徳目の一つとして、「礼」を礼儀とかマナーの意に落ち着かせようとした。それも確かに「礼」の一部であり、後に日本に入って、小笠原流礼法として開花したことはよく知られている。しかし、独自の視点で中国の深層を描き出すことで定評のある作家・酒見賢一氏は、「礼」の本質に迫る小説『周公旦』のエピローグにこのように書いている。
「孔子系の儒は仁を最高の徳とし、孝の実践を最高義とする。宋学は仁が徳の中心にあり、
仁はすべてを含む概念であるとさえする。が、本来は義智忠信孝悌のほうが礼の中に含まれていたものである、その逆ではない。仁は孔子が自らの理想の、曰く言い難い新しいなにかを表現しようとして採用した特別な言葉である。その概念はまたもともと礼の中にあったと言えなくもない。何故後世の学者がこんな簡単なことを逆にしてきたのか、浅学の作者には非常な疑問である」
道徳倫理、各種の祭祀、先祖供養、歴史、人間の集団における序列の意味などはすべて礼の中にあったのである。礼は儒教のみならず、黄老、仙道、方術、民間宗教の母体なのだ。そして、『論語』には、「礼」「礼を履(ふ)む」「礼を聞く」「礼を学ぶ」「礼を知る」などの語がたびたび出てくるが、孔子ほど「礼」の重要性を知りつくしていた人物はいない。母親が葬儀をいとなむ巫女であった孔子は、何よりも葬礼を「礼」の中心に置いた。しかし彼は、礼制に詳しい単なる知識人や学者ではなく、「礼」に関わる事実の持つ意味を徹底的に考えたのである。
たとえば、古代中国の礼制に「三年の喪(そう)」というものがあった。これは、父親が亡くなったとき、子が喪に服する期間のことだ。弟子の宰我(さいが)という秀才が、三年では長すぎると意見を述べた。すると孔子は、「いや必要だ。自分は赤子、幼児として父母にたいへんお世話になったから、そのお返しをするのだ」と言っている。これは、三年という期間の意味づけをしているのである。「三年の喪」を、宰我のように事実問題として扱うのではなく、意味問題として扱って、それを主張しているのだ。これは、きわめて重要なことであると言えよう。
孔子は、「仁」や「孝」によって人間愛の重要性も説いたが、孔子の後に登場した墨子はそれを批判した。墨子集団すなわち墨家は「兼愛」という博愛主義を主張し、儒家の愛はかたよった「別愛」であると攻撃したのである。「別愛」とは、「愛」する相手を区「別」するということだ。では、どのように区別するのか。儒家は、愛情は親しさの度合いに比例するという。すなわち、最も親しい人を最も愛し、その後、親しさが減ってゆくのに比例して、愛する気持ちが減ってゆくとするというのだ。しごく常識的な考えである。
そして孔子はこう考える。人間にとって最も親しい人間とは、その字の通り「親(おや)」である。だから人間は誰よりも親を愛するのが自然なのだ。よって、親から遠くなってゆく家族、あるいは親族に対して、その割合で愛情が薄くなってゆくとする。親に対するときを頂点とするこの愛情のあり方は、親しさのあり方に比例している。すると、死の場合、実感としてその死を傷(いた)む悲しみもまた親しさに比例することとなる。はっきり言えば、見知らぬ人の死は悲しくないことを認めるわけである。
「博愛」主義者ならば、その立場からいって、見知らぬ人の死も悲しむこととなるだろう。しかし、儒家はそれを偽(いつわ)りだとする。最も親しい、そして最も親しいがゆえに最も愛する親(おや)の死が最も悲しいというのである。このように徹底して常識的な考え方をするのだ。
この常識の延長線上に、最も親しい親(おや)の葬儀をきちんとあげるということが人間としての最優先事という儒教的価値観がある。孟子も、親の葬儀に最高の価値を置いた。
その孟子は、孔子の死後、約一〇〇年が経過してから生まれ、孔子の思想を継承し、発展させた。孟子は「孔孟」として孔子と並び称されるほどの儒教における重要人物である。彼は「性善説」で知られ、人間誰しも憐(あわ)れみの心を持っていると述べた。
幼い子どもがヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとする。誰でもハッとして、井戸に落ちたらかわいそうだと思う。それは別に、子どもを救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではない。周囲の人にほめてもらうためでもない。また、救わなければ非難されることが怖いためでもない。してみると、かわいそうだと思う心は、人間誰しも備えているものだ。さらに、悪を恥じ憎む心、譲り合いの心、善悪を判断する心も、人間なら誰にも備わっているものだ。
かわいそうだと思う心は、「仁」の芽生えである。悪を恥じ憎む心は、「義」の芽生えである。譲り合いの心は、「礼」の芽生えである。善悪を判断する心は、「智」の芽生えである。人間は生まれながら手足を四本持っているように、この四つの芽生えを備えているのだ。あまりにも有名な性善説の根拠となった「四端の説」である。孟子は「人間の本性は善きものだ」という揺るぎない信念を持っていた。
しかし、この孟子の性善説では、悪の起源を説明することが困難である。人間の本性の中に悪の性質がまったくないのであれば、どんな劣悪な環境にあっても、人間が悪を働くことはありえないからだ。後の宋代になって、その問題を解決しようとした人物が朱子である。朱子は、人間の性を二つに分けた。宇宙の普遍的な性である「本然の性」と、個別的かつ具体的な性である「気質の性」である。
孟子の性善説に対して、荀子は「性悪説」を唱えた。荀子いわく、人間は放任しておくと、必ず悪に向かう。この悪に向かう人間を善へと進路変更するには、「偽」というものが必要になる。「偽」とは字のごとく「人」と「為」のこと、すなわち人間の行為である「人為」を意味する。具体的には、礼であり、学問による教化である。なお、この「偽」を排して自然な生き方を提唱した人物こそ、道教の創始者とされる老子であった。
よく荀子の性悪説は誤解される。悪を肯定する思想であるとか、人間を信頼していないニヒリズムのように理解されることが多いが、そんなことはまったくない。人間は放任しておくと悪に向かうから、教化や教育によって善に向かわせようとする考え方なのである。人間は善に向かうことができると言っているのだから、性悪説においても人間を信頼しているのである。ユダヤ教やフロイトが唱えた西洋型の性悪説とは、その本質が異なっているのだ。孟子の性善説にしろ、荀子の性悪説にしろ、「人間への信頼」というものが儒教の基本底流なのである。
とはいえ、人間の主体性を信頼せず、法律で人民を縛る法治主義を唱えた韓非子や李斯(りし)といった法家の巨人もまた、荀子の門人であった。中国を初めて統一した秦の始皇帝は、韓非子や李斯の意見を取り入れたが、「焚書坑儒」として知られる儒教の大弾圧を行ったことで知られる。しかし、始皇帝に影響を与えた法家の師である荀子は、漢代において孟子よりも儒教の正統とされたのである。
紀元前二世紀には、董仲舒(とうちゅうじょ)が現れ、前漢の武帝に重用された。儒教のみを認めて他の学派を排除し、官吏採用試験では儒学だけから出題するという、いわゆる儒教の国教化を実現した人物が董仲舒である。国教化に伴い、儒教の基本的な経典として『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の「五経」が定められた。この「五経」は、古来から孔子が編纂したとされていたが、それは『書経』と『詩経』の二経のみで、あとの三経は違うとされている。
董仲舒は「災異説」の大家としても知られる。これは、儒教の教えに反し、人民を苦しめる政治を行えば、天は災害と怪異を引き起こして為政者に警告するというものである。専制的な体制であった秦の後に成立した漢王朝において、皇帝の権力が肥大化しすぎないように抑制するのが目的であったとされる。また董仲舒は、当時流行していた「陰陽五行説」を取り入れ、人間の社会にも陰陽があると考えた。そして、君主の政治においても陽としての「徳」だけでなく、陰として「刑」も必要であるとして、刑罰の必要性を説いたのである。
紀元前一世紀には、儒家思想の研究家として名高い揚雄(ようゆう)が出た。彼は、前漢末の漢王朝および、王莽(おうもう)が建国した新に仕えた。最初は詩文の作家として名を馳せたが、後年は文学から離れて、仁義道徳を熱心に説いた。この当時、五経のそれぞれについて多くの種類の解説や解釈の書ができ、それらを使いながら長い年月をかけて五経を学ばなければ、儒学を習得できないとされていた。揚雄は、煩瑣な枝葉末節の学説を習得することを鋭く批判し、なんといっても儒学の中心は孔子であり、その孔子の教えは簡易にして平明であると主張したのである。
宋代になると、新儒学の名で知られる運動が起こり、儒教は再び合理的・思弁的な道を進みはじめた。その原因は、後漢の明帝の治世に伝わった仏教と、その仏教から多くのシステムを借りて成立した道教が、国教化された儒教を襲ったことにあった。新儒学を代表する主な人物は北宋の五子、すなわち邵雍(しょうよう)、周敦頤(しゅうとんい)、張載(ちょうさい)、程_(ていこう)と程頤(ていい)の兄弟であり、さらに朱熹すなわち朱子が続く。
朱子は儒教に本格的観念宇宙哲学ともいうべき「理気説」を導入して、中国思想における二元論を展開した。朱子によれば、天地を形成する宇宙の根源には「理」と「気」の二元がある。「理」とは宇宙を生成する根本的な原理であり、「気」とは宇宙を生成する材料である。朱子は、「気は形の源、理は性の源、この理ありてのちこの気を生ず」と、まるでデカルトを思わせるような合理化をきわめた人工宇宙論を唱えたのだ。
朱子が従来の「天」にかわる根本理念とした「理」は、その字を見ると、結晶(玉)が整然と並ぶ(里)ことであり、転じて条理や法則を示す。「宋学」あるいは自身の名から「朱子学」と称された彼の学問は、この「理」を重んじたことから「理学」とも呼ばれたのである。
また朱子は、その著書『中庸章句』に「道は日用事物の当(まさ)に行うべきの理なり。みな性の徳にして心に具(そな)わる」と書き、「道」は「理」であるばかりでなく、本姓の徳でもある、つまり人は生まれながらにして理を備えていると述べた。人間の本性はとりもなおさず理そのものであるというこの説は、「性即理」の説として朱子の思想における中心をなした。
日本では、朱子学といえば文献の学という印象が強いが、実際、四書五経の「四書」を定め、これを重んじた。すなわち、『大学』『中庸』『論語』『孟子』である。唐の太宗の命で編集された『五経正義』に代表されるように、宋以前の儒教の経典は五経が中心であった。しかし、新儒学としての宋学が儒教の開祖としての孔子の地位を高めたために『大学』や『論語』が重んじられ、朱子が『四書集注』を著すに至って、五経よりも四書が中心となっていったのである。
そして儒教の歴史は明代へと至り、孔子や孟子と並んで最重要人物の一人とされる王守仁すなわち王陽明が登場する。彼は朱子学に疑問を抱き、庭にあった竹を割って、その中に理があるかどうかを知ろうとして、その余りに病に倒れたという伝説を持つ。
陽明の最終的な悟りとは、理は外界にあるものではなく、心の内にあるということ。すなわち「心即理」の説であった。この説はもともと南宋の儒家・陸象山(りくしょうざん)が用いているが、王陽明はそれを受けて、自己の学の基本とし、主著『伝習録』で広く示したのである。心こそが万事・万物の根本であり基本であるということは、彼の学問すなわち「陽明学」が唯心論であることを示す。
陽明学の「心即理」の説は、朱子学の「性即理」の説と対比される。朱子学が理をきわめるために、知によって外界の理の追求から始めるのに対し、陽明は心を高めること、すなわち修行がそのまま「理」につながるのだと主張した。彼の「知行合一」説は、こうして朱子の学問的情熱から実践的情熱へと儒教を転回させたのであった。陽明学は明代に起こったことから「明学」とも呼ばれ、人の心こそ理とすることから「心学」とも称された。
王陽明の後に朱子学に対抗した人物として、清代の載震(たいしん)がいる。彼は考証学の各方面で業績を残したが、特に文字・訓古の学に優れた。哲学者でもあり、「理」を中心とする朱子学に反対して「情」を重んじる「気の哲学」を説いた。
しかし考証学、つまり文献学の様相を呈してきた儒教は次第にそのパワーを失っていく。その原因は二つあり、一つは清が異民族による王朝であったため思想弾圧がなされたこと、もう一つはキリスト教をはじめとした西洋思想の流入によって新しい風潮が生まれてきたことである。
一九一二年、中華民国が成立して共和制が宣言され、天および孔子に対して供犠を行うことは一時的に廃止されるが、一九一四年には復活する。当初は儒教に対し好意的でなかった中華民国の知識人たちも、ほどなく儒教が中国の歴史において果たしたその根本的な役割を理解するに至る。一九四九年に中華人民共和国が成立し、六〇年代は共産主義体制のもとで弾圧を受けるが、秦儒学は香港、台湾、あるいはアメリカの中国人社会においてもその役割を担い続け、今も活力にあふれている。
中国の外を見てみよう。儒教はまず西暦の紀元以前に朝鮮に伝わっている。秦儒学が四書五経とともに李朝の国家哲学として、また教育試験制度として定着したのは一五世紀になってからのことだ。韓国では、最近はキリスト教に押され気味であるとはいえ、儒教の王国ぶりを現在に至るまで見せ続けている。
儒教が朝鮮半島の百済を経て日本に伝来したのは、三世紀の終わり頃とされる。『日本書紀』によれば、応仁天皇の時代に百済の五経博士・王仁(わに)によって『論語』が伝えられたという。四世紀のことである。『論語』が伝わる以前に日本に渡来し、儒教の教えを説いた人々がいたわけである。
儒教を通じて大陸の先進文化にふれた大和朝廷では、大いに教養を身につけ、文化を興す必要を痛感した。天智天皇の時代に学校を建てて、百済の鬼室集斯(きしつしゅうし)を大学頭(だいがくのかみ)に任じ、博士や学生を置いて教育事業を始めた。また、天武天皇は京に大学、諸国に国学を設置した。七〇一年に文武天皇の命によって大宝律令が制定されると、それとともに京の大学、地方の国学・府学などの学制が備わった。そこでは、『論語』『孝経』をはじめとし、『左傳(さでん)』『礼記』『詩経』『周礼(しゅうらい)』『儀礼(ぎらい)』『周易』『書経』『文選(もんぜん)』『爾雅(じが)』『史記』『漢書』『後漢書』『晋書』などが教授され、もっぱら官吏の育成に努力した。
地方の教育制度がどれほど普及し実行されたか、現在ではよくわかっていない。しかし、これに刺激されて、大氏族が私立学校を設立して、教学に努めはじめたことは注目すべきことである。仏教が伝来し、天武天皇の時代、諸国に仏寺が作られ、七〇二年には国師が配置された。そして聖武天皇の時代には、有名な国分寺が創建されるにしたがって、ここに京より派遣される講師、または寺僧から任命される読師らが仏教ばかりでなく、盛んに儒教の講義も行った。これらのことは日本人の精神世界に大きな影響をおよぼしたものと考えられる。
しかし儒教が本格的に日本で受容されたのは江戸時代、幕藩体制を支える思想的基盤に用いられるようになってからである。このとき日本に入ってきたのは、宗教としての儒教ではなく、「儒学」という名の学問としての儒教であった。江戸前期に儒学が台頭した背景には、朱子学を中国で学んだ禅僧たちによって、すでに中世日本に持ち込まれていたことがある。このような儒学を学ぶ禅僧を「禅儒」と呼ぶが、彼ら禅儒の活動が江戸期における儒学発生の基盤となったのだ。
もちろん、江戸時代そのものを開いた徳川家康の存在を忘れることはできない。家康は非常な読書家として知られている。読書から得た歴史の知識などを活用した行動で、戦国の乱世を勝ち抜いて成功したとされている。その家康は儒学の書物を好んで読んだという。家康の侍医であり側近でもあった板坂卜斎(いたさかぼくさい)が、その著『慶長記』で明らかにしたところによれば、『史記』や『漢書』などの歴史書や、『貞観政要』『群書治要』などの政治書と並んで、『論語』『中庸』『大学』『周易』などの儒学書を愛読していたというのだ。
家康が儒学を好み、儒学を受容したからこそ、江戸時代の日本に儒学は大輪の花を咲かせたのである。いわば、はるか昔に日本に仏教を受容させた聖徳太子に似た役割を家康は果たしたのである。仏教における太子の働きを、家康は儒学において行ったのだ。日本人の宗教とは、神道・仏教・儒教が混ざり合った宗教であり、そこにおける最重要人物の地位には、聖徳太子、織田信長、そして徳川家康らが名を連ねるのではないだろうか。なにしろ、家康は死後、日光東照宮に祀られる東照大権現という神道の神にさえなったくらいである。日本人の信仰を最も象徴する一人であることは間違いない。
その家康は儒学を学ぶうえで、二人の師を持った。藤原惺窩と、その弟子の林羅山である。惺窩は禅儒からの脱却を最初にめざした儒学者であった。家康は惺窩に惚れ込み、召し抱えるつもりだったが、惺窩はそれを断って、代理として弟子の林羅山を推薦した。以後、徳川家の儒学の師は羅山となるのである。
師の惺窩が儒教の諸学派における普遍性に注目したのに対し、羅山が力を注いだのは朱子学の正当性を明確にすることだった。そのため、陽明学との区別を明らかにしたり、仏教を排斥したりする行動に出た。近世朱子学は羅山によって確立されたのである。
惺窩の弟子では、もう一人、松永尺五(せきご)が名高い。京都に春秋館、講習堂、尺五堂などを創設し、経学・歴史・兵法などを講じた。門弟は五〇〇〇人を超え、木下順庵、貝原益軒といった逸材を輩出した。
その後、山崎闇斎(あんさい)や、その弟子の佐藤直方(なおかた)ら崎門(きもん)学派と呼ばれる一派の出現によって、朱子学は本格的に社会に受容されていく。山崎闇斎はもともと僧侶だったが、還俗して純正朱子学を講じ、また吉川惟足(これたり)より神道を学んだ。その結果、神儒一致の垂加(すいか)神道を唱えたが、その日本主義的な神儒合一朱子学の思想は、幕末の尊王論に影響を与えた。あくまでも純正朱子学を追及した佐藤直方は、師の垂加神道に反対して破門された。また直方は「敬」を中心とした朱子学的な秩序論を説くうえで、赤穂浪士の討ち入りを義挙にあらずとして論難した。
朱子学を批判し、古典に帰ることを提唱したのが、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠といった古学派の人々であった。
古学派の先覚者である山鹿素行は、武士のあり方を追求し、儒学を基礎とした「士道」を提唱した。また、それを中心とした山鹿流兵法を完成させた。素行は、朱子学では否定的にとらえている人間の情欲を、人間の本来的なあり方であるとした。そして、物事それぞれの条理を経験的にとらえることを「格物到知」というが、本来的な情欲を格物到知によってコントロールしようとしたのである。外的な行為を重視する素行にとって、武士が修養するべきものは心ではなく、日常的行為そのものであった。
朱子学に疑問を抱いた素行は「周公孔子の道」に直接つくことを唱え、『聖教要録』を刊行したが、そのために保科正之らの怒りを買い、播磨赤穂に流された。
伊藤仁斎は、朱子の注釈を排除し、『論語』や『孟子』の本分を直接読むことによって聖人の原義をさぐる古義学を提唱した。彼の思想の中心は、その号の通りで「仁」である。君臣、親子、夫婦、朋友といったすべての人々に対する愛情と思いやりとしての「仁」に最高の価値を置き、それを実践する者こそ「仁者」であると説いた。また、道徳の基準を人情に置いたため、元禄期の庶民における倫理思想の形成に大きな影響を与えたとされる。私塾として「古義堂」を開いたが、その門人は三〇〇〇人を数えたという。
荻生徂徠は、徳川綱吉の侍医の次男として生まれたが、自身は儒学者として柳沢吉保に仕え、綱吉の学問相手でもあった。赤穂浪士処断など政治上も献策している。当初は朱子学を修めたが、四〇歳頃から古文辞学を提唱し、詩文革新に努力した。日本橋茅場町に私塾「_園(けんえん)」を開き、太宰春台や服部南郭ら多くの門人を育てた。新井白石とはライバル関係にあった。
徂徠は、さまざまな社会問題に対応できなくなっていた当時の幕藩体制に危機感を抱き、人の心に基盤を置く朱子学の政治論に対し、「先王の道」を説くことによって幕府のあるべき姿を明らかにしようとした。世界を生々流行(せいせいるこう)する「活物(かつぶつ)」としてとらえ、人の「気質」の多様性を認める一方で、外側から人間社会に意味を与えるものとして、「先王」に「作為」された政治の道を訴えたのである。
徂徠の学問は江戸中期に一世を風靡したが、大規模な批判が反動として起こり、「寛政異学の禁」によって朱子学のみが幕府の正学と定められた。しかし、徂徠の徹底した朱子学への批判は、のちの「国学」の成立に大きな影響を与えたのである。
庶民にも儒学は広まった。石田梅岩は儒教を基本としながらも、神道や仏教も重んじる「石門心学」を唱え、商人の倫理を説いた。大阪商人が生み出した学問所である「懐徳堂」の中井竹山、中井履軒も活躍した。
その二人に儒学を学んだ山片蟠桃(やまがたばんとう)は、主著『夢ノ代(しろ)』を二〇年かけて書き上げた。そこには、地動説や、神代史や霊魂の存在の否定など、きわめて合理主義的な思考が見られる。
さらに、富永仲基(なかもと)は、宗教を超え、儒教・仏教・神道にこだわらない普遍的な「誠」の道を求めた。仲基の思想は、本居宣長や平田篤胤などの国学者にも影響を与えた。
しかし、日本における儒教を考えたとき、きわめて重要な役割を果たしたのが陽明学の影響を受けた人々である。当然ながら、朱子学を批判する立場をとり、行動を重視する人々が多かった。
日本における最初の陽明学者は、近江の人で、自宅の藤の木にちなみ藤樹先生と呼ばれた中江藤樹(とうじゅ)である。一七歳で禅儒の『論語』講義聴講をきっかけに、『四書大全』を読んで朱子学を独学。一九歳で大洲(おおず)藩に郡奉行(こおりぶぎょう)として奉職、二七歳のとき病弱な母に仕えることを理由に官を辞するが許されず、やむなく脱藩して帰郷した。後に主著『翁問答』において、「明徳(めいとく)をあきらかにするが孝行の本意にて候(そうろう)」あるいは「身を離れて孝なく、孝を離れて身なき」と述べた藤樹は、まさに「孝」に生きた人であった。なお、「明徳をあきらかにする」とは、『大学』の冒頭の言葉「明明徳」のことであり、「徳」の定義は、儒者にとって需要なテーマだったのである。
藤樹にとっての「孝」は、「天」と一体の無限の至徳であった。彼は、その「徳」が良知に基づいて本来完璧な形で人間に内在されていると考え、それを宇宙大にまで拡大させていくことこそ「孝」の実践であるとした。
三七歳のとき王陽明の全書を得た藤樹は、その思想に傾倒、後世になって「日本陽明学の祖」と呼ばれた。「実践に裏づけられた知こそ真の知であり、そこで初めて知と行は合一する」というのが陽明学の「知行合一」説であるが、「孝」の実践においてそれを実現した藤樹の人柄に心酔した多くの人々が彼の弟子となった。
その中の一人である熊沢蕃山(ばんざん)は、岡山藩主に仕え、治山、治水、飢饉対策など数多くの献策を行った。「経世済民」を志した行動派であったが、晩年、幕府批判で禁錮に処され、下総古河(しもうさこが)で没した。彼も師である藤樹と同じく、「明徳を明らかにする」ために生きた人であった。
中江藤樹、熊沢蕃山に始まる日本の陽明学は、その後、淵岡山(ふちこうざん)、「忠臣蔵」で有名な浅野内匠頭長直や大石内蔵助良雄、さらには窮民救済のため「大塩平八郎の乱」を起こした大塩中斎、春日潜庵(かすがせんあん)、河合継之助、玉木文之進、吉田松陰、西郷隆盛、乃木希典(のぎまれすけ)といった巨大な精神の山脈を作り上げていったのである。明治維新は陽明学が引き起こしたという見方もあるほどである。昭和においても、多くの宰相や大実業家を指導した碩学・安岡正篤(まさひろ)や、かの三島由紀夫も陽明学に生きた人々であった。
明治維新後、幕藩体制の中で発達した儒学は福沢諭吉ら啓蒙的知識人によって否定された。そのまま衰退するかと思われたが、一八九〇年に発布された「教育勅語」は仁義忠孝を核とした。いったん否定された儒教は近代国家主義の中で再生され、戦後に事情は変化したけれども、今日も日本人の精神構造に儒教は大きな影響をおよぼしている。
なお、沖縄は琉球王国時代に「守礼之邦」と呼ばれたように儒教の影響が強く、現在でも祖先を非常に大切にする。沖縄の人々は現在でも、祖先の墓の前で宴会を開く。祖先と飲食を共にし、そこは祖先と子孫が交流し、一体化する空間となる。「孝」を求めた孔子の理想は、現在でも沖縄に生きているのだ。