第六講「儒教と神道」
第六講「儒教と神道」
日本の民族宗教である神道と、中国の民族宗教である儒教は、どのように関わりあってきたのだろうか。
何よりも儒教は、日本固有の信仰における「神道」化に影響を与えている。この歴史的事実はこれまであまり問題にされてこなかった。日本に渡来して以来、儒教は宗教としてではなく、ひたすら政治や道徳的な徳目としてとらえられてきたからだろう。
『古事記』によると、応神天皇の時代に百済王が阿直岐(あちき)を日本に派遣し、良馬を献じた。そのとき、経典に詳しい阿直岐は、皇太子の菟道稚郎子(とじのわきのいらつこ)に儒教を講じたという。その翌年、百済の五経博士である王仁(わに)が『論語』一〇巻、『千字文』一巻を持って来日し、皇太子の師になったとある。
一般にはこの記録が日本への儒教渡来の始まりとされているが、異説もある。儒教が渡来したとされる四世紀頃、日本と朝鮮半島との関係はかなり密接だった。しかも日本は軍を派遣し、三八度線近くまで進出、高句麗の好太王と戦ったりしており、文化の交流も盛んであったと予想される。儒教的知識も断片的ながら日本に伝わっていたことは間違いないだろう。だが、紀元前二世紀頃の前漢において儒教は国教となっていたが、三世紀頃の魏晋時代には道家の思想を取り入れていた。したがって、三世紀の邪馬台国の卑弥呼の時代には、儒教はすでに九州あたりに道教とともに入っていた可能性がある。卑弥呼が通じていたという「鬼道」には、どことなく原始儒教すなわち「原儒」のシャーマニズムを思わせるものがある。この想像には、古代へのロマンが強く呼び起こされる。
しかし、儒教が本格的に日本に入ってくるのは、やはり聖徳太子の時代から近江朝にかけてだろう。儒教の精神は律令に大幅に取り入れられているとされる。大陸から高度の文化を輸入した日本では、その法制を導入することで国家の骨格を作り上げたが、その際、中国で律令制度を支えていたさまざまな宗教的儀礼や習俗までを輸入することはできなかった。日本に儒教は伝来しても、その核たる「礼」抜きでの伝来だったと言われるゆえんである。
そのため、もっぱら合理的で世俗的なものとして律令制度は受け入れられた。日本の土着の信仰は従来のままで、その上に律令制度が築かれたわけだが、土着の宗教と律令との間には、当然ながらあまりにも大きな落差があった。律令制度を維持していくことは、土着の宗教が持っていた組織力や文筆の力ではとうてい不可能だったのである。
律令制度では、太政官と並ぶ形で神祇官が設けられた。しかし、式部省の管轄する大学が、律令制度そのものを維持するために必要な知識や学問を伝授する場となった。また、中務省に所属する陰陽寮が、律令制度の運用に必要な中国伝来の儀礼を掌握していた。さらには、治部省の玄蕃寮が管轄する仏教寺院が、律令とは別系統の大陸伝来の文化を総合的に管理し、仏教に対する学問と、多方面にわたる技術を継承していたのである。
律令官人は、律令制度を支えるための必要な知識や学問を身につけることを建前としていた。しかし、彼らが習得すべきであるとされた知識や学問とは、本場の中国の場合と異なり、宗教的性格の薄い世俗的なものにすぎなかった。
土着の神祇信仰は、現実の政治の場できわめて大きな役割を果たしていた。たとえば国司の任務の第一には、任国内の神祇を祀ることがあげられていた。神祇の制度が詳細に整備されるだけの現実的な裏づけがあったとしても、貴族の観念の中では、神祇の祭祀とは単に政治のために必要な儀礼であるくらいにしか考えられなかったのである。もちろん貴族が学ぶことを課せられていた中国伝来の学問から見れば、本場である中国の祭祀と神祇信仰との間には越えがたい隔たりがあったに違いない。でも、そのことは貴族にとって、思想や信仰における深刻な問題ではなかったのだ。
貴族は、神祇の世界を客観的に理解しようとしなかったが、それはまた、本来は中国において律令を支えていた「礼」や「易」の儒教的世界に対する無関心でもあった。世俗的なものとして受容した律令と、土着の神祇信仰との組み合わせは、日本の貴族が中国における宗教や儀礼の持つ意味を理解する道を閉ざしてしまったのである。
しかし、律令制度が揺るぎはじめたとき、事態は変わった。貴族が習得すべきとされていた外来の知識や学問のみでは社会の現実に対処できなくなり、貴族たちは神祇の世界に関心を持つようになる。彼らはまず、古来の有力な神社とその祭礼の由来を尋ねて、知識を広くした。それに応じて、数々の縁起や祭礼の記録も作られた。
神祇に対する貴族の関心を一身に背負ったのは、言うまでもなく神官だった。全国の主要な神社は、律令的な秩序のもとで国家に厚く保護され存続していた。だが、平安時代の後半になると、社領の変質とともに古くからの有力な神社は経済的な基盤を失いはじめ、神社を支えていた神官はその再編を迫られていたのである。
また、律令制度がゆるみ宮中の祭祀が衰退しはじめると、その存在基盤が揺るぎはじめた神祇官人の間に強い危機感が生まれ、神祇についての特殊な知識や技術を伝えていることを強調する者も現れた。彼らは、伝承の一部を公開しつつも、神秘的な権威づけのために一部は秘伝とし、祭祀の伝承者として彼らが特別な禁忌(きんき)を守っていることをアピールしようとしたのである。こうして、神祇に関する記述が生まれはじめた。
神祇への重視から神道には儒教的要素が取り入れられはじめたが、それにはもう一つ理由があった。仏教に圧倒され、日本の神々が仏の脇役に転落していく中で、仏が主で神が従という「本地垂迹説」が日本人の信仰において主流となっていった。しかし、これに反逆する人々も現れ、日本の神々があくまでも主で仏を従とする「反本地垂迹説」を唱えた。
この説を南北朝の時代に展開したのは伊勢神宮の外宮(げぐう)の神主たちで、この反本地垂迹説は「伊勢神道」と呼ばれた。伊勢神道は度会行忠(わたらいゆきただ)によって理論化が進められ、度会家行(わたらいいえゆき)がさらに進めた。家行は、日本の神々を最上位に置き、儒教や仏教はそれに従うものとした。それによって、日本における天皇の地位を歴史的かつ宗教的に明らかにしようとしたのである。 家行の『類聚神祇本源』の第一巻は「天地開闢篇」となっているが、それまでの神道論が天地の聖性の経過をたどろうとしているのに対して、理論的な関心のみで貫かれている。また、構成が「漢家」と「本朝」に分けられ、「本朝」が官家・社家・釈家に細分されていることからもわかるように、中国の典籍に拠りながら仏典も参照するという方針をとっている。そこには膨大な典籍が引用されているが、その広がりは当時の神官の知識の範囲を示すものとされている。「漢家」の項では『老子』『荘子』『列子』といった書物とともに、『周易』や『周子通書』などの儒教書も見られる。
家行の神道論を受け継ぎながら、新たに儒教思想を緩用して神道的な政治思想を生み出したのが、『徒然草』を書いた吉田兼好の兄としても知られる慈遍であった。彼の『旧事本紀玄義』では一貫して儒教的な政治道徳が述べられているが、そこでは『類聚神祇本源』が『老子』や『列子』などに依拠しつつ究明しようとした天地開闢の問題から転じて、儒教的な「天」への恩恵への傾斜がはっきりと示されている。しかし、その説明はあくまで神道的な表現をとりながら進められ、最後は伊勢神道の教説で結ばれているのである。
慈遍の政治論は儒教の思想によって支えられていたが、それと土着の宗教とを結ぶ存在として天皇があった。なお、後に吉田兼倶が『旧事本紀大成経』で神仏儒一致論としての「根本枝葉果実説」を展開するが、これの原型を『旧事本紀玄義』に見ることができる。
土着の信仰であった神祇信仰は、もともと人に説く教説を持っていなかった。社領を再編して神社を建て直すことに努力を傾けた神官は、信徒を獲得するために神社の権威と神々の霊験を説きはじめた。
そこで重要なコンセプトとなったのが「禁忌」である。禁忌の論には二つの側面があった。その第一は、とりたてて教説といえるようなものを持たない神官を、一般の信者から区別する役割である。神官の呪術的な力を保障するには厳しい禁忌に服していることが必要であり、それこそが神官の権威を人々に認めさせることになるのである。また第二の側面は、その信者にとって、禁忌の一部に服することが唯一の信仰上の行為であると考えられた点である。このような背景のもとに、神道論の多くは禁忌の問題にふれ、禁忌を媒介として教説を示すことになった。
宮廷を中心として整えられていた神祇の祭祀は、律令制度が解体していく中で急速に衰微していった。そのとき、自分たちこそが神祇の伝統的な禁忌を厳重に守り伝えているという誇りが神官たちを支えていたのである。神祇の官人が守るべき禁忌の基本は、『神祇令』に定められたいわゆる「六色の禁忌」で、神事に従う者は、喪を弔うこと、病を問うこと、宍(しし)を食うこと、刑殺を判(ことわ)って罪人を決罰すること、音楽をなすこと、穢悪の事に預ること、の六項の禁を厳重に守らなければならないとするものであった。
神道論の中では、さまざまな禁忌は神の託宣という形で説かれる。『倭姫命世記』をはじめ、いわゆる「神道五部書」には、伊勢神宮の祭神の神託として六色の禁忌が取り込まれ、後の神道論に対して権威を発した。禁忌は神道にとって唯一の教説であり、神祇信仰の信者にとっては内面的な心と結びついた問題であった。そのため、禁忌は神道論において繰り返し説かれる中で、託宣としての神聖化から教義の形成へと次第に向かっていったのである。
そして、やはり『類聚神祇本源』がその流れを作っていった。同書の第一三巻にあたる「禁誡篇」は、さまざまな文献の中から禁忌に関する条文のダイジェストだが、神道論における禁忌の範囲がよくわかる。ここで注目すべきは、『礼記』を引いて禁忌というものを一般化しようとしていることだ。
こうして神道論における禁忌は、単なる祭祀参加者の守るべき禁制から、個人の修行という宗教的な存在に変化していくのである。家行は、『類聚神祇本源』の最終巻である「神道玄義篇」で、神道の目的は人間の心の「清浄」の状態を実現することであると説いた。そして、「清浄」に到達するのは「六色の禁法を以て潔斎の初門と為す」と説いた。
この主張は、神道における禁忌に対する考え方を決定づけたと言ってよい。このように禁忌の問題を媒介として、土着の神祇信仰は一気に宗教化を図ったわけだが、神道としての宗教的な形態を整えようとしたのが吉田兼倶の『唯一神道名法要集』であった。神祇の儀礼を整えることは神道家の共通の関心だったが、その方向は古い祭祀の伝統を守ることにあった。伝統的な祭祀の再解釈は繰り返し行なわれたが、積極的に新しい祭祀を創出して儀礼を組み立てていく作業は行われなかったのだ。それを神祇信仰の上に立ちながらも強行した人物こそ、中世神道界のヒーローである吉田兼倶だった。
彼は京都の吉田神社の神主だったが、日本の神々を最高として、仏教も儒教も道教も脇役であり、日本の神々に輝きを与える存在であると主張した。これが「吉田神道」である。
神道に対する兼倶の思想は『唯一神道名法要集』に要約されているが、兼倶が整えた祭祀とその儀礼のあとを追う形で唯一神道の教義が作られ、儀礼が重視されていることがよくわかる。
臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などの「鎌倉仏教」の教団が民衆の間に本科雨滴に浸透し、教団の組織を形成していくのは室町時代になってからであった。この時代になって、ようやく仏教は明確な教団の組織を通じて、宗教的な機能を発揮するようになるのである。「仏法」という漠然とした形で存在していた仏教のあり方は大きく変化していった。このライバルの変化に影響されて、神祇信仰も新しい発展を遂げる必要があるという考え方が起こり、そのためには教団の組織が不可欠とされたのである。いち早くそうした状況に対応した兼倶は、儒教的要素を取り入れて儀礼を明確にしていく中で、組織を拡大していったのである。
兼倶は学究肌ながら、すぐれた政治力にも恵まれ、室町幕府の八代将軍、足利義政の妻である日野富子の信任を受けた。彼の影響力は朝廷にまでおよび、吉田神道は幕末までの三00年もの間、神社界を支配したのである。
吉田神道からは吉川惟足(きっかわこれたる)を創始者とする「吉川神道」が出てくる。惟足は、君臣の道や徳といった儒教の倫理を押し立て、それを日本の神々と結びつけようとした。すなわち、日本の神々と儒教の合一を唱えたのである。後の会津藩主である保科正之に認められて幕府の神道方という要職に登用され、保科は惟足の弟子となった。他にも、紀州徳川家の徳川頼宣(よりのぶ)、加賀藩主の前田綱紀(つなのり)らの大物を弟子とし、吉川神道は大いに広まった。
惟足と同時代に度会延佳(わたらいのぶよし)という伊勢神宮の外宮の神官がおり、伊勢神道を発展させて「度会神道」を提唱した。伊勢神道では儒教や仏教は日本の神々に従うとされたが、延佳は日本の神々と儒教を合体させた。そして、儒教でいう君臣、親子、兄弟、朋友といった道こそが日本の神々にふさわしい道であると説いたのであった。
仏教学者の末木文美士氏は、日本の神々と儒教の関係は不思議であると述べている。聖徳太子の頃、儒教は仏教の陰に隠れた存在だった。中世以降の貴族社会では貴族や僧侶といった知識人たちの教養を担っていた。隋や唐から渡来した儒教を学び、それに親しむのが知識人の証明だったのである。そこに宗教の匂いは感じられない。それなのに、なぜ吉田兼倶や吉川惟足や度会延佳たちは儒教に関心を示したのか。末木氏は著書『仏教vs倫理』に次のように書いている。
「もともと神々の世界には教義は存在しなかった。それが渡来の神々にも寛容だった理由だったし、逆に、求心力という点では弱点だった。仏教の脇役に甘んじてきたのもそのためだった。そこで神々の側にいた人々は強力な援軍を探しはじめ、それが君臣の道や徳を説く儒教だった。儒教の論理が日本の神々の世界を補強してくれたのである」
儒教は、儀礼の形成のみならず、教義の確立という点でも神道をサポートしたわけだ。神道にとって、儒教は格好の「道具」であったという見方もできるだろう。しかし神道側からだけでなく、江戸時代には儒教側からも「儒家神道」と呼ばれる合体論が多く生まれたのである。江戸初期の朱子学者である藤原惺窩にはじまり、その門人の林羅山によって、
神道と儒教の一致を説く思想が積極的に提唱された。羅山はその著『本朝神社考』の序文において、従来の本地垂迹説や神仏混淆説を批判し、「日本が神国であり、神武天皇が天神(あまつかみ)のあとを継ぎ、その道を広めた。これがすなわち神道であり、王道である」とし、この王道こそはシナの聖賢の道と同一のものであることを唱えた。この「神道即王道」の観念によって神儒一致論を主張した羅山は、その考えを『神道伝授』において一歩進め、自らその神道説を「理当心地神道」と名づけたのである。
羅山以後、朱子学派、陽明学派、古学派、独立学派、水戸学派など学派の別にかかわりなく、神儒一致論を説く儒学者たちが現れたが、これには二つの立場があった。儒教を主とし神道を従とする「儒主神従」と、神道を主とし儒教を従とする「神主儒従」である。
前者の立場をとるのは朱子学者の林羅山、貝原益軒、陽明学者の三輪執斎などである。後者のそれは朱子学者の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)、陽明学者の熊沢蕃山、古学派の山鹿素行、独立学派の帆足万里(ほあしばんり)、二宮尊徳、水戸学派の徳川斉昭(なりあき)、藤田東湖、会沢正志斎などである。
そして多くの儒学者によって唱えられた神儒一致論を内容とする神道説は、「垂加神道」を創唱した山崎闇斎という最大のヒーローを生んだ。「垂加」とは、伊勢の託宣にも見える神の降臨と加護の意味で、闇斎の神号でもあった。闇斎は朱子学を学んだのち、神道にも深く沈潜し、吉川神道や度会神道などを集大成して、独自の「神儒習合」の神道説を唱えた。その内容は、神仏習合思想を批判し、天と人との一体性を強調して、心の本性を明確にするために朱子学の理念から「敬」の尊重を主張、社会体制や秩序の安定と維持を説くものであった。
鎌田東二氏は、現在では伝説の書とされている荒俣宏編『世界神秘学事典』において、闇斎に代表される儒学神道のポイントは二つにしぼられると述べている。一つは、反仏教の立場である。現世を否定する仏教に対し、現世えの忠孝を基礎とする儒教は、同じように来世観というものを持たなかった現世主義の神道と、比較的よくなじんだ。即身成仏を説く密教が、神道教義の確立に力を貸せたのも、やはり同じような理由によるのだろうと鎌田氏は推測する。この神道が来世的宗教の性格も持つのは、キリスト教の考え方に影響された平田篤胤が出た後のことである。
そして、儒学神道のもう一つのポイントは、「理」ということだ。儒教の根本的な教えである「理」は理屈の理。この漢字の意味は、玉すなわち結晶が正しい配列で並ぶという「里」を示し、混乱や無秩序がない状態を指している。具体的にはアマテラスオオミカミのしろしめす自然の道に従うことと、心の中に宿る神の声に従うことであり、三種の神器における玉はそのシンボルであるという。
ところで、この儒学神道が成立したのとほぼ同じ頃に、もう一つのムーブメントが重なった。直接的には文学を学ぶ人々の側から、『古事記』『日本書紀』『万葉集』あるいはそれよりも古い「祝詞(のりと)」や「片歌(かたうた)」などを再検討して、中国風文芸とは一線を画した古い日本の本来的な文芸に新しいイマジネーションを求めようとするムーブメントである。言語学と芸術論を二本柱とした、このまったく新しい復古派を「古学神道」という。儒学神道のヒーローが山崎闇斎なら、この古学神道における最大のヒーローとは、国学者の本居宣長である。
よく知られているように、宣長は激しく儒学を批判したが、そこには「やまと心」と「漢意(からごころ)」の問題があった。「言挙げせぬ」神道の精神を重んじる宣長は、理論的な儒学を「あげつらい」の小賢(こざか)しい学問と見ていたのである。「近代日本最高の知性」と呼ばれた小林秀雄は、畢生の名著『本居宣長』に次のように書いている。
「宣長の正面切った古道に関する説としては、『直毘霊(ナオビノタマ)』(明和八年)が最初であり、又、これに尽きてもいる。『直毘霊』は、今日私達が見るように、「此篇(クダリ)は、道といふことの論(アゲツラ)ひなり」という註が附けられて、『古事記伝』の総論の一部に組み込まれているものだが、論いなど何処にもない。端的に言って了えば、宣長の説く古道の説というものは、特に道を立てて、道を説くということが全くなかったところに、我が国の古道があったという逆説の上に成り立っていた。そこで、『皇大御国(スメラオホミクニ)』を黙して信ずる者の、儒学への烈しい対抗意識だけが、明らさまに語られる事となった。当然、人々の論難は、宣長の独断と見えるところに向って集中した」
後年、『直毘霊』を刊行して間もなく、宣長は還暦を向え、自画自賛の肖像画を作った。その賛が、名高い「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」の歌であった。宣長は国学の専門家として、また生涯に自ら一万首を詠んだ歌詠みとして、よく知っていたこの古歌を取り上げたまでであった。しかし、ここに出てくる「やまと心」という言葉は、儒学者には耳障りで挑発的な響きを持ったのである。
そして、宣長は「漢ごころ(漢意)」を排斥した。宣長の師である賀茂真淵がまず、『古事記』などの神典を正しく理解するには古えの心(古意)(いにしえごころ)を得なければならず、その古意を得るためには漢意を除き去る必要があると教えた。この教えは宣長において「漢意批判」として体系化される国学の思想方法論である。
『古事記』の伝承における古えの心(古意)は、漢意を取り除くことによってはじめて明らかにされるというのである。つまり、古意とは漢意を排除することによって明らかにされる日本古代固有の心意なのである。言うまでもなく、漢意とは、外部から日本に導入された漢字文化にともなわれた儒教に代表される考え方であり、物の見方のことである。
現代における宣長論の第一人者で、倫理学者の子安宣邦氏は、著書『本居宣長とは誰か』に次のように書いている。
「漢意の問題とは、国学思想のもっとも重要な側面を形成するものであることが明らかになります。国学とは日本文化の固有性をもった学問であり思想だと規定することができますが、この固有性への志向は、文化における外来的なものの排除的剔出(てきしゅつ)の傾向をともなうのです。このように漢ごころの問題は、国学的イデオロギーを特質づけている固有と外来、内部と外部、そして自己と他者といった二項対立的な思考の枠組みを形成するものとしてあったのです」
宣長の漢意批判は漢字そのものへの批判にもつながり、漢字によって書かれた『日本書紀』を漢意的な解釈に汚染されたものとして低く評価し、彼が「あるが中の最上(かみ)たる史典(ふみ)」と呼んだ『古事記』よりも下に位置づけた。宣長以前は、ずっと『日本書紀』の方が上だったのである。宣長は、千年以上も「久しく心の底に染着たる漢籍意(からぶみごころ)のきたなきこと」に気づき、『古事記』の「古語のままなるが故に、上代の言の文も、いと美麗(うる)はしきもの」であることを悟ったのである。そして鎌田氏の表現を借りれば、古学から古道への真の正しき回路が開けるという古学革命を達成したのだ。
このように、儒学を徹底的に批判した宣長の人生には一つの大きな謎があった。彼が、書き遺した「遺言書」である。死の一年ほど前の一八〇〇年七月に長男の春庭と次男の春村宛に書かれたものだが、日本人の「遺言書」の歴史があるとしたら、その中でも最も異例な、異様とさえいえる内容のものであった。自らの死に備えた「遺言書」といえば、死を迎える者の感慨が何らかの形で書かれていることを予想するが、宣長の「遺言書」は人の予想をまったく超越したものである。
その内容とは、納棺・埋葬・葬送・葬式・戒名・墓地・祥月(しょうつき)などについての詳細な指示書そのものであった。自身の葬儀や墓地のあり方をディティールに至るまで事細かに図入りで指示しているのである。 彼は世のしきたりにしたがって葬儀は樹敬寺で仏式で行われることを指示しながら、自分の遺骸は生前自ら定めた山室山の「本居宣長之奥津紀(おくつき)」に前夜内密に葬るように指示している。また納棺についても、蓋の閉め方、釘の打ち方まで述べている。
墓地についての指示に続いて、墓参についての指示がある。さらに毎月の祥月の供え物の内容、祥月に一度は歌会を催すべきであること、歌会の客に対しての支度は「一汁一菜」であることまで指示しているのである。まさに異様としか表現できない「遺言書」である。
生前の宣長は「死」について、わが古えにあって人は「ただ死ぬればよみの国へ行く物とのみ思ひて、かなしむより外」なかったのだとドライに言い切っている。この言い切り方には、死の不安を抱き、仏教に救いを求める世の人々の心を斟酌(しんしゃく)する趣きはいささかもない。一般に、死に関心を抱かない者は葬儀にも無関心である。唯物論者がその好例だ。しかし、宣長の「遺言書」には、偏執的ともいえるほどに葬儀への関心が示されていたのである。
宣長の「遺言書」は大きな謎とされ、小林秀雄の『本居宣長』でも冒頭に出てくる。その『本居宣長』の新潮文庫版の下巻の最後には「『本居宣長』をめぐって」と題する小林と江藤淳の対談が掲載されている。この対談には、次のように「遺言書」の話題が出てくる。
「小林 ああいう遺言を書いたという事は、これはもう全く独特なことです。世界中にないことです。それがとてもおもしろい::。
江藤 宣長の葬儀のときには、やはり遺言のとおりにはいかなかったのでしょうね。
小林 それは幕府の奉行所から文句が出て、あのとおりにはいかなかった。空(カラ)で行くというような奇怪な事でして、後で、どういう申しひらきが出来るかという事でね。
江藤 冠婚葬祭といいますが、葬いというものは、やはり人生の終わりの儀式ですから、あらゆる文化の中で葬儀とか葬礼というものは、その文化の表現として重要なものだと思います。たとえば『礼記』の中にも葬いのことは細かく規定されていますが、お葬式というものは大変大切なものだと思います」
結局、二人は宣長の謎の「遺言書」および葬儀についての結論を出していない。江藤の「宣長の学問の一番深いところにつながっている」とか小林の「あの人の思想のあらわれ」などの簡単なコメントの後、他の話題に移っている。謎は謎のままである。しかし、私には思い当たる節がある。江藤淳が述べているように、葬儀や葬礼は重要な文化の表現である。そしてそれを細かく規定した『礼記』とは言うまでもなく儒教の書物である。儒教こそは最も葬礼に価値を置く宗教に他ならない。もうおわかりかと思うが、宣長の「遺言書」の葬儀についての尋常ならぬ思い入れは、きわめて儒教的なのである。
実は、「遺言書」は葬儀、墓地、墓参についての長々とした指示の後、最後に「家相続跡々惣体(そうたい)の事は、一々申し置くに及ばざるに候。親族中随分むつまじく致し、家業出精、家門断絶これ無き様、永く相続の所肝要にて候。御先祖父母への孝行、これに過ぎざるに候、以上」という言葉をもって閉じられる。この最後の言葉だけがいかにも「遺言書」らしいなどと言われているが、これはもう明らかな儒教思想以外の何物でもないではないか。
私は、宣長は学問としての「儒学」は否定しても、宗教としての「儒教」は肯定していていたのではないかと思う。そのように考えると、「遺言書」の謎が解ける。宣長の「遺言書」はまさに儒教思想のエッセンスだ。
儒教の核心は「礼」の思想にあるが、それは葬礼として最高の形で表現される。日本に儒教が伝来し、それによって律令制度が作られたが、あくまでも「礼」抜きのものであった。宣長は逆に、腹周りの贅肉のようにまとわりつき臍(へそ)である「礼」を隠している儒学的な理論には反発したが、「礼」そのものには深い共感を覚えたのではないか。
彼は気軽に古歌を取り上げたところ、そこに出てくる「やまと心」が儒学者たちを刺激し、彼もまたそれを受けて「漢ごころ」批判れたが、その根本の根本において儒教をリスぺクトしていたように思えてならない。
日本史上において儒学の最大の批判者であった本居宣長は、儒教の最高の理解者にして実践者でもあったのだ!
葬儀について詳細に指示しつつ、最後は先祖や父母への孝行を指示した宣長の「遺言書」こそは、死の直前にその根本においての儒教肯定をカミングアウトするという、「ダ・ヴィンチ・コード」ならぬ「宣長コード」であったと私は思う。