第七講「古事記」
第七講「古事記」
これから神道・仏教・儒教において最重要とされる書物について見ていきたい。宗教の書物には、教えを記した「経典」と、その中でも最高の経典とされる「啓典」がある。
啓典には絶対の教えが書かれており、ユダヤ・キリスト・イスラムの一神教三姉妹が啓典宗教とされる。おおざっぱにいえば、ユダヤ教は『旧約聖書』、キリスト教は『新約聖書』、イスラム教は『コーラン』を啓典とする。この三つの啓典の違いやその内容については、前作『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)に詳しく書いたので、興味のある方はそちらをお読みいただきたい。
しかし、神道・仏教・儒教には啓典と呼ばれるものは存在しない。仏教の中には経典はたくさんあっても啓典はない。経典の中の経典とされる『般若心経』でさえ啓典ではない。儒教の開祖である孔子の言行録である『論語』も啓典とは呼ばれない。ましてや、「言挙げ」せぬことを旨とし、教義すら見当たらない神道に啓典などあろうはずがない。
神道においては、『古事記』が最も重要な書物とされている。次いで重要とされるのは『日本書紀』である。ともに日本の神話が記されており、両書を総称して「記紀(きき)」といい、その神話を総称して記紀神話と呼ぶ。
『古事記』は日本最古の歴史書であり、『日本書紀』は官撰による最古の歴史書とされる。記紀においては、神話が歴史の中に含められ、神々が姿を現して日本の国を整え、やがて人の歴史へと続く流れを一連の出来事として記載されているのである。
『古事記』は、和銅五年(七一二年)に太安万侶(おおのやすまろ)という官人を撰録者(せんろくしゃ)として成立したとされる。その序文によれば、第四〇代の天武天皇が国家を治める大本にして民を教化する基本となるべき「帝皇日継(すめらみことのひつぎ)」と「先代旧辞(さきつよのふること)」の誤りを改め正して後代に伝えようとして、これを調べたうえで稗田阿礼(ひえだのあれ)という舎人(とねり)に誦み習わせた。天武天皇の死により中断したが、それを第四三代の元明天皇の命により安万侶が筆記したものという。「帝皇日継」とは皇統譜の記録であり、「先代旧辞」は神話伝承の類を指す。
構成は上中下の三巻で、上巻は天地開闢(かいびゃく)からウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)までの神話、中巻からは初代の神武天皇に始まり、下巻最後の第三三代の推古天皇までが記される。すなわち神話は全体の三分の一を占めている。
序文は漢文で書かれているが、本文は和漢混交体、歌謡は音仮名方式で書かれている。太安万侶は序文に、古代の言葉も内容も素朴ゆえに文字に写すことは困難だったと告白しており、そのため、漢字の音から読む音仮名方式と漢文とを混在させたと思われる。しかし、このことは漢文に慣れた知識人たちには評価されず、大きく取り上げられることはなかった。彼らは漢文によって記された『日本書紀』の方を『古事記』よりも高く評価したのである。
記紀の上下関係を逆転させた人物こそ、国学者の本居宣長である。彼は大著『古事記伝』によって、『古事記』そのものの再評価を図ったことで知られる。『古事記』が注目されるようになったのは、宣長以後といってよい。そして宣長は、漢文によって書かれたゆえに、さかしらな「漢意(からごころ)」に満ちた書として『日本書紀』を低く評価し、「やまと心」の書として絶賛した『古事記』の下に位置づけたのだ。
その『日本書紀』は舎人親王らによって編纂され、養老四年(七二〇年)に成立した。太安万侶も編纂に関与したといわれる。全三〇巻のうち第一・二巻に神話が収められ、天地開闢から神武天皇を経て、第四一代の持統天皇までが編年体で記述されている。『古事記』と比較して、全体に占める神話の比率が低く、歴史書としての性格が強い。対外的に中国を意識し、中国の歴史書や寺院の記録などの史料が幅広く用いられている。
『古事記』のみならず、他の書にも見られないスタイルとして、「一書(あるふみ)に曰く」といった書き出しで多くの異伝を併記していることが注目される。例えば、イザナギとイザナミに関する伝承には本文以外にも一一の異伝を掲載している。これは、同一テーマでもディテールが異なる場合の各民族の伝承を集めたものと思われる。
また神名の表記も、たとえば『古事記』では須佐之男(すさのお)命で、『日本書紀』では素戔嗚(すさのお)尊のように違っている。神名に附される尊称の「ミコト」は『古事記』では命で、『日本書紀』では尊と命の二種がある。この二種の違いについては、非常に尊い神には「尊」、その他の神には「命」を附すという註が添えられている。
このように、文体も表記法も異なる記紀だが、ともに朝廷が作成したものであり、天皇家や有力氏族の祖神たちの活動とその正当性を中心としている点では、記紀の内容は基本的に同じであるといえる。つまりは、ともに王権の由来について語られた書物なのである。
記紀には神話が語られている。神話とは何か。構造人類学者の北沢方邦氏によれば、神話は歴史ではなく、そのうえそれは、文学的価値を持っているとしても、文学でもない。神話とは、それぞれの種族が自己を取りまく宇宙や自然を、具体的な記号に置き換え、体系化した言語表現であるという。北沢氏は著書『古事記の宇宙論』で次のように述べる。
「なぜそのようなことが必要とされたのか。それは、狩猟・採集であれ遊牧であれ、あるいは農耕であれ、天体とりわけ太陽の運行や季節の循環は、生活や生業と不可分であり、それらを精密に観察し、その体系性を知ることが不可欠だったからである。こうした自然科学的知識の蓄積のうえに、人間はそれら相互の関連や意味づけをはかる。宇宙や自然の個々の法則を支配するなにものかは神々となり、名をあたえられ、あるいはそれを象徴する事物が、たとえばサクラやモミジといったように特定される」
神話はこうした具体的な記号と、それら相互の関係を、いわば「宇宙劇」として表現したものなのである。天と地、海と山、冬と夏などの記号の対立を北沢氏は「記号の対称(シンメトリー)」と名づけているが、その相互関係をとらえるのが神話の論理である。それによる宇宙の意味の解読が、記紀の深いコンテクスト(文脈)に他ならない。政治や階級社会、あるいはイデオロギーなどといった誤ったコンテクストによって神話を分析することは不可能なのである。
宇宙の意味の解読といえば、哲学が思い浮かぶ。哲学的思考とは、宇宙の中における人間の位置や、自然の秩序や人生の意味などについて深く考えをめぐらせることだと言える。
その意味で、神話とは、人間が最初に考え出した最古の哲学である。どんな領域のことであれ、人間ははじめにしか本当に偉大なものは創造しないとされている。
中沢新一氏が著書『人類最古の哲学』で述べているように、私たちが今日「哲学」という名前で知っているものは、神話がはじめて切りひらき、その後に展開されることになるいっさいのことを先取りしておいた領土で、自然児の大胆さを失った慎重な足取りで進められていった後追いの試みにすぎないのかもしれない。神話はそれほどに大胆なやり方で、宇宙と自然の中における人間の位置や人生の意味について、考え抜いてこようとした。人間の哲学的思考の最も偉大なものとは、まさに神話の中に隠されているのである。
ところが今日の学校教育は、神話についてほとんど語ろうとしない。神話は幼稚で、非合理的で非科学的で、遅れた世界観を示しているものとされているから、それについて学んだところで、今日のように科学技術が発達した時代においては、まるで価値がないと考えられている。それに日本では戦後、教育のやり方が大きく変わり、『古事記』や『日本書紀』に語られている神話を教えたがらなくなった。リベラルな思想で知られる中沢氏でさえ、これは本当に惜しいことだと述べる。
記紀は政治的意図をもって編纂されたものではあるが、その中にはきわめて古い来歴を持つ普遍的な神話が、たくさん保存されている。これは世界の諸文明の中でも、あまり例のないことだ。記紀には、北米インディアンやアマゾン河流域の原住民が語り続けてきた神話とそっくりの内容を持った神話が語られているのである。人類最古の哲学的思考の破片が、そこでキラキラと光っているのが見えるのだ。そんなに魅力的なものを子どもたちに教えないというのは、なんともったいないことだろうか。
二〇世紀を代表する文化人類学者のレヴィ・ストロースは、世界各地に散在する神話の断片が『古事記』や『日本書紀』に網羅され集成されている点に注目している。構造人類学を提唱した彼は、他の地域ではバラバラの断片になった形でしか見られないさまざまな神話的要素が日本ほどしっかりと組み上げられ、完璧な総合を示している例はないというのである。
また、二〇世紀を代表する宗教哲学者のミルチア・エリアーデによれば、日本の神話は、日本以外でも認められるさまざまな神話の「結合変異体」のように見えるという。
ストロースとエリアーデという偉大な二人の学者がともに、世界の神話の集大成が日本神話であると述べているわけだ。ざっと、『古事記』のストーリーをながめてみよう。
天地が分かれたとき、高天原(たかまのはら)に最初に現れたのがアメノミナカヌシ(天之御中主)神、次にタカミムスヒ(高御産巣日)神、カミムスヒ(神産巣日)神の、いわゆる「造化三神(ぞうかさんしん)」である。その後、「誘う男」を意味するイザナギノミコト(伊邪那岐命)とその妹で「誘う女」を意味するイザナミノミコト(伊邪那美命)が生まれる。彼らは天の浮橋の上から、海水をかき混ぜて最初の島を創造する。その島に降り立つと鶺鴒(せきれい)を観察することで、性の区別とその使いみちを発見する。
彼らの交わりの際に、ある過ちが生じたために、ヒルコ(蛭子)が生まれる。蛭のように手足がない、または骨がない神とされ、同様に人類の祖である兄妹の間に最初に生まれた子がこのような障害児であるという伝承は、東南アジアに広く見られる神話素である。この蛭子が海に流し棄てられるという話には、海上他界に向けての水葬儀礼が反映されているという見方もある。
あらためて交わることで、彼らは日本の島々と神々を生むが、最後に生まれ出た火の神が母親の女陰を焼いたため、イザナミは死んでしまう。怒り狂ったイザナギがこの粗忽(そこつ)な神の頚(くび)を刎(は)ねると、その血からさらに大勢の神々が生まれた。
ここで、ギリシャ神話との共通性が強くなるが、イザナギはそれからオルフェウスと同様に、イザナミを連れ戻しに冥界、つまり黄泉の国へと旅立つ。イザナミは冥界の食物を口にしたために、そこに留まらざるをえなくなっている。これはペルセポネの神話と同じである。
それにもかかわらずイザナミは、イザナギが夜間は自分を探しにこないことを条件として、黄泉の国の神の協力を得ようと交渉する。ところがイザナギは約束を破って、にわか仕立ての松明(たいまつ)の明かりで照らし見てしまい、愛する妻がもはや蛆(うじ)のたかった腐った屍でしかないことに気づくのだ。
黄泉の国の八人の醜女たちがイザナミを追ってくるが、彼が蔓(かずら)を後ろに投げると、それは葡萄の木へと変わる。醜女たちは葡萄を貪り食っているあいだに遅れてしまう。こうしたエピソードが三度くり返されるのは世界中の神話や伝説と同じであり、葡萄の木に続く障害物として竹林が生え、さらに大河が出現する。
イザナギがようやく難を逃れると、イザナミは八柱の雷神と一五00の黄泉の国の軍勢をみずから率いて、イザナギを探しだすために出発する。しかしイザナミは黄泉の国とこの世との間の道を岩で塞ぎ、その岩の上からイザナミに非情な別れの言葉を伝える。イザナミは毎日一000人の生者を黄泉の国に引き入れることにするが、この世の人間が絶滅しないようにイザナギは毎日一五00人の生者を誕生させることにする。死者との接触による汚穢から身を浄める際に、イザナギは神道のパンテオンにおける最重要な神であるアマテラスとツクヨミ、スサノオを誕生させる。
最初の神々と人間との間には隔たりがあったが、それを何世代にもわたる神々が次第に埋めていく。中でも最も重要なのが出雲と九州の神々である。日本の最初期の天皇となったのは、大和の国に移り住んだ九州の人々であると考えられている。
記紀は私たちの祖先の残した貴重な文化的遺産である。特に『古事記』は、『日本書紀』よりもさらに神話の書としての色が濃い。北沢方邦氏によれば、世界的に見ても、これだけまとまった神話が、しかも統合的に残されている例は珍しいという。中国では、神話は非合理なものとして排除され、それはわずかに『山海経』に断片の集成として残されているにすぎない。ギリシャ・ローマ神話やゲルマン神話、あるいはインド神話としての『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』などは、古典文学として生き残ってきた。だが、とりわけ西欧では、キリスト教とその合理主義の支配によって、それらを生み出した神話的思考の体系そのものは解体され、排除されたのである。
ところが驚くべきことに日本では、『古事記』の根底にある神話的思考の体系は、今日まで生きているといっても過言ではない。『古事記の宇宙論』で北沢氏は述べる。
「たとえばオホトシ(大年)の神を迎える正月の行事は、明治以後グレゴリオ暦に変更されたにもかかわらず、つづいている。風神(気象の女神)にまつわる桜狩りや紅葉狩りの風習も、いまなお行われているし、貝の女神にかかわる桃の節句や、アマテラス(太陽の女神)の衣服を織るタナバタツメの祭りも、あるいは雑穀の女神の死と再生を執行した月の男神(おがみ)を祀る仲秋の名月も、たとえ中国の節句の日時と合わせられたといっても、なおも継続している」
神道の本質は「祭り」にあるが、その祭りの中にはまさに「神話」が今日に至るまで生き続けているのである。日本文化のなんと豊かなことだろうか。
さて、『古事記』は本居宣長によって輝きを得たと述べた。宣長は『古事記伝』において、『古事記』を「あるが中の最上たる史典(ふみ)」と絶賛し、それまで評価の高かった『日本書紀』を『古事記』の下に位置づけた。鎌田東二氏も指摘しているように、宣長のこの弁は、仏教でいう「教相判釈」に似ている。例えば、空海は金胎両部の経典すなわち『金剛頂経』と『大日経』を所依の経典とし、日蓮は『法華経』を宇宙第一の書と見て、「法乗一乗」を説いた。もちろん宣長はこのような教相判釈を「仏心」として「漢意」と同じく否定するに違いない。そもそも宣長は、『古事記』を仏家や儒家が解釈するような「法則の書」ではなく、すべての事実を説明しうる「原型の書」であるという見方を確立したのである。しかし『古事記』を「あるが中の最上の史典」とするところには宣長独自の教相判釈的古典観と神道神学があると、鎌田氏は断言する。
氏は昔から、『古事記』を最上の神典とする宣長の根本認識がその根っこのところから幻想に取り込まれているのではないかと疑ってきたと、著書『霊的人間』で告白している。今でもその疑いが消えることはなく、日本古典史上における『古事記』の株価は鎌田氏の中で下がり続けている。変わりに『日本書紀』の特異さと面白みがいや増し、宣長が漢文で書いているからと低く見た『日本書紀』の方にこそ日本的な構造が秘められていると確信するようになったという。
『古事記』に対する幻想性といえば、『古事記』そのものが偽書であるという『古事記』偽書説を紹介しなければならない。かなり古くからある説で、江戸時代の国学者・沼田順義がすでに文政一二年(一八二九年)刊行の『級長戸風』で『古事記』の和銅五年成立説に疑問を投げかけている。その理由はいくつかあるが、最大の理由は序文に不審な点が多いことである。
『古事記』序文が、和銅五年に書かれたかどうか疑わしいことは、賀茂真淵が弟子の本居宣長に宛てた手紙の中でも述べられている。真淵は『古事記』の序は太安万侶とは違う人物が、和銅年間より後で書いたものと推測しているが、宣長はあくまで安万侶が書いたものとし、「後人のしわざなりといふ人もあれど、其は中々にくはしからぬひがこころえなり」と断じている。
『古事記』序文のどこが疑わしいのだろうか。古代史の第一人者である大和岩雄氏が著書『増補改訂版 古事記成立考』において、先学の疑問点を「『古事記』序文を偽作とみる十の理由」として見事にまとめている。少し長くなるが、それをそのまま紹介したい。
一、『古事記』成立より後で完成した『日本書紀』が『古事記』を参考にしていないこと。また『続日本紀』の和銅年間の条に、『古事記』撰録のことが、まったく記されていないこと。
二、序では天武天皇が稗田阿礼の聡明を激賞したと書いているが、『日本書紀』の天武天皇の条にはそのことが記されていないし、稗田阿礼や稗田姓は天武紀以外にも『書記』には見あたらず、『続日本紀』にも記されていない。このように実在性の薄い人物である稗田阿礼に、重要な役割を果たさせていること自体が、『古事記』序文を疑わせる要因になること。
三、稗田阿礼はまったく文献に現れてこないが、太安万侶は『続日本紀』には記されている。しかし、安万侶が元明天皇の勅命で撰録したという重要な勅撰書編纂の事実が、安万侶のことを数カ所も記している『続日本紀』はまったく書き落としており、不可解であること。
四、他の多くの序文上奏文では、学識才能について謙辞を用いている。謙辞らしい書き方より、稗田阿礼の聡明ぶりを強調したり、自己の表現技術の苦心を吹聴したりする、宣伝臭の濃い異例な書き方は、もし『古事記』が正史に記載されない私本的性格のものとしたら、矛盾すること。
五、序えは天武天皇即位以来修史のことなしと書いているが、天武十年には川嶋皇子等に勅して帝紀を記させているのだから、『古事記』序文はおかしいこと。
六、序文の太安万侶の署名には「官」が落ちており、稗田阿礼の「姓」の書き方は「氏」と混同しており、このような不完全、不明瞭な記載は、安万侶が書いたものとは思えないこと。
七、勅撰書の性格からして、正五位下程度の位階の者の単独署名は異例であり、『古事記』のみが特異な任命、単独編纂というのみ、あまりに異例すぎておかしいこと。
八、序文が、上奏文の形式をとっているが、このような書き方は、主に平安朝以降からであるから、和銅年間成立は疑わしいこと。
九、和銅五年の日付の序文が和銅六年以降に書かれた文章を参考にしていることからみて、『古事記』の序は、和銅六年以降に書かれたと考えられること。
一〇、本文で厳密に使い分けている用語が、序文では精密さを欠くなど、本文と序文に統一性がないこと。
このように、あらゆる角度から見て『古事記』序文が和銅五年に書かれたというのは、どうにも疑わしいと言わざるをえない。大和氏は、『古事記』はこれまで定説えあった奈良時代ではなく、平安時代の初期にまとめられたと推測し、その真の編集者についても『増補改訂版 古事記成立考』に次のように書いている。
「私は『古事記』の実際の編集者は弘仁年間に『日本書紀』について講義をし、その講義内容を記録した多人長と推測するが、多人長は今でいう国語学者であって歴史家ではなかったと書いた。したがって、上代特殊仮名遣のような古語は特に留意して残したが、奈良時代には使われていなかった神名は、歴史的事実についての欠如からうっかり記載してしまったので、以上書いたような新しい神名が、現存『古事記』には残っているのであろう」
樋口清之や梅原猛といった世の常識を覆し続けててきた知のトリックスターたちでさえ『古事記』偽書説を否定したが、序文を問題にする限り、『古事記』は偽書である可能性が高いだろう。大和氏の推測するように、その本文も平安初期にまとめられたと思われる。だからといって、『古事記』の持つ文化的遺産としての価値はいささかも損なわれない。
大和氏の説は学界から「妖説」として批判されたそうだが、批判者がアレルギーを起こす「偽書」という言葉は、『古事記』に序文がついているからである。序文がなければ、『万葉集』のように成立論となり、偽書説とは言わない。『古事記』に序文さえなければ、大和説も成立論の一つなのである。
その序文の中でも最も疑惑の集まるのが、和銅五年正月二十八日という『古事記』撰進の日付である。『続日本紀』が書く国史撰進の和銅七年二月十日の日付が、二年引き上げられた干支紀年法によれば和銅五年正月二十八日になる。これを「剽窃」したものであると思われる。なぜ剽窃したかは、これはもう王権の成立事情に関わる問題であるとしか言う他はない。
偽書論者が「偽書」という場合、その書物には古典として価値がないという意味がある。大和氏は、「偽書」がこのような意味を持つ言葉なら、現存『古事記』の最終成立時期が平安期初期であったとしても、「古事記を偽書であるなどと主張する気はさらさらない」と述べている。なぜなら、序文が誤りであっても、現存『古事記』の古典としての価値は、消えるものではないからである。大和氏は『増補改訂版 古事記成立考』の「あとがき」に次のように記している。
「信じて疑わないのは古事記信仰だが、『古事記』に関しては、戦時中の聖書化の影響か、このような傾向の人が多い。だが、宗教ならともかく、すべての学問は、疑うことから出発する。私は、『古事記』研究のために、『古事記』序文をまず疑った。そして、『古事記成立考』を書いた」
大学に籍を置かず在野にあろうとも、あくなき探究心を持つ大和岩雄氏こそ真に「学者」と呼ぶに値する存在であり、心からの敬意を表したい。
それにしても、『古事記』のすべてを信じて疑わない古事記信仰というものがあるなら、その意味では『古事記』は経典であり、啓典となりうる。まさに本居宣長は『古事記』を啓典とする宗教の開祖かもしれない。しかし、それが閉鎖的な国粋的イデオロギーへとつながっていく危険性を秘めていることは言うまでもないだろう。