シネマの街を世界へ 『西日本新聞』連載 003

理想の「葬」の一歩かも

逃げきれた夢

 

北九州市では多くの映画作品が撮影されています。オール北九州ロケの映画の一つには、今年公開の「逃げきれた夢」(二ノ宮隆太郎監督)があります。5月の第76回カンヌ国際映画祭で、先鋭的な作品を紹介するACID部門にも出品されました。現地での公式上映でも喝采を浴びたそうです。主演の光石研さんは北九州出身で、わたしと同い年。小倉昭和館の樋口智巳館主とも親しいとか。
さて、本作の主人公である定時制高校の教頭・末永周平(光石研)は、ある出来事を機に、自分の記憶が薄れていっているのに気づき、将来を悲観していきます。
末永はこれまで、上辺だけで生きてきました。妻や娘、親友、生徒にはそれを見透かされ、関心がないとか、自分勝手と思われていました。末永もそれを自覚しています。
末永が医師から病気を宣告されたとき、自身の「死」だけでなく「葬」も想ったとわたしは考えます。自分の葬儀を想像し、過去を振り返って「これでは誰も自分の弔辞を、心を込めて述べてくれない」と思ったかもしれません。その焦りからか、彼が家族に醜態を見せ、妻と娘だけには自分を好きでいて欲しいと自身を嘲笑しながら懇願していたシーンが印象的です。
自分の葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれや、その心中を想像することは大切だと思います。みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった」、子どもからは「心から尊敬していた」といわれたいものです。
そんなシーンを頭に描いてみると、葬儀の場面とは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものだということがわかります。そんな理想の葬儀を実現するためには、残りの人生をそのように生きざるをえないのです。
クライマックスで、末永はある登場人物に上辺だけではない正直な言葉を投げかけます。わたしは、末永が自らの理想の葬儀に向けて、小さな第一歩を歩み始めたように感じました。