健康・長寿に腐心した家康 養生について考える
「養生」という言葉があまり使われなくなってきました。しかし、人生をきれいに修めるうえで大事なキーワードであると思います。そもそも「健康」は現代人の抱くもっとも大きな願望のひとつですが、古代から人々は健康と長命を切に願い続けてきました。
日本では、好老社会を築いた江戸時代が大いなる健康指向の時代でした。もともと江戸に幕府を開いた徳川家康が健康や長命に異常な関心を示しました。織田信長亡き後、天下人となった豊臣秀吉と信長の同盟者であった家康とのあいだには奇妙なパワー・バランスがありました。互いに恐れ、機嫌をとりあい、「いつ、あの男が死ぬか」とひそかに思ってきたに違いありません。
もし家康が先に死んだとすれば秀吉はえたりかしこしと理由を設け、その諸侯としては過大すぎるほどの関東二百五十余万石の大領土を削るか、分割し去ってしまったでしょう。しかし、実際は秀吉のほうが先に死んだ。家康は内心、「勝負はついには寿命じゃ」と思ったに違いありません。
天下人を目指した信玄、謙信、信長、そして秀吉がいずれも天寿をまっとうすることなく世を去ったのを見てきたから、勝利をつかむには、何としても長生きしなければと養生に励んだのでしょう。
関ケ原のころは、体重がどんどん増えて、ついに自分でも褌(ふんどし)も締められず、毎朝、待女が前後から彼の褌を締めるという滑稽な状態にまでなりましたが、その後家康は懸命に痩せようとしました。痩せることが長命のためにいいということを家康が知っていたということは、保健思想史からみて、家康は世界史的な存在かもしれない、と司馬遼太郎などは述べています。
家康は若いころから医学に対して異常なほどの関心を持ち、老いてのちは独特の医学観を持ち、むしろ自分の侍医たちの考えの浅さを笑うほどにまでなっていました。さらにまた、この人物は17世紀初頭の人間でありながら、運動が保健のもとであるということを体験的に知っており、しかもそれが彼の日々の生活規律にまでなっていました。
鷹狩りが大好きで、晩年はもっぱらこれに興じています。鷹狩りは野山を疾走して筋骨を動かし、手足を敏捷(びんしょう)にさせ、帰れば夜ぐっすり眠れて閨房(けいぼう)からもおのずと遠ざかります。なまなかの薬を用いるよりは、はるかにまさる養生の要諦であると家康は言っています。鷹狩りは家康にとって体力を維持しストレスを解消する最高のレジャーだったのです。いわば、現代のゴルフに相当する楽しみと言えるでしょう。
そんな家康が切り開いた江戸時代には、一人の保健思想の巨人が誕生しました。貝原益軒です。彼ほど「養生」について考え抜き、具体的な技術を示した人はいません。
「養生」は、益軒や杉田玄白をはじめ、西鶴、蕪村、一茶、上田秋成、滝沢馬琴たち、そして他の多くの江戸の人々が日頃から口癖のように使っていた言葉でした。江戸という好老社会を理解する重要なキーワードであり、コンセプトだったのです。
この「養生」というコンセプトに江戸の健康観は集約されますが、その基本思想を最もトータルに述べた『養生訓』には、いたるところに「常に畏れ、慎みあれば、自然に病なし」「つつしみおそれて保養すれば、かへつて長生きする」といった言葉が出てきます。自然に対する畏れと慎み、この孔子の説く「礼」にも通じる精神が「養生」の出発点でした。
そして、『養生訓』には「楽しむ」という言葉もたくさん出てきます。楽しむことが「養生の本」であるというのです。楽しむとは、ただ欲望を満足させることではありません。むしろ欲望を制して、真の人生の楽しみを楽しむことです。それには長命でなければなりません。
ここには、「先憂後楽」という、人生の目標を若いときに置かないで、人生の後半に置いていた江戸の人々の人生観が読み取れます。健康で長命でありたいのは、ただ長生きするだけでなく、老年において真に人生を楽しむためなのです。
江戸時代には、隠居してから大きな仕事を成し遂げた人物がたくさんいましたが、益軒もその一人でした。現代のように「若さ」に価値があるのではなく、むしろ「老い」に価値があったのです。益軒をはじめ、多くの江戸の人々は幸福で毅然とした老年を送りました。彼らの実人生から、「養生」という健康観が生まれたのです。
『養生訓』とは、ただ病気をせずに長生きするという健康願望に応えるだけのものではありませんでした。「老い」に価値を置く江戸時代の社会や文化に根ざした死生観に立脚した人間の生き方を説いたものでした。生き方の哲学に裏打ちされた健康の思想と実践、これが「養生」ということだったのです。
そして、「養生」の基本とは、「身をうごかし、気をめぐらす」ということでした。貝原益軒自身、老いても各地を訪ね歩き、知友と交わり、弟子たちを教え、多くの本を書いて、85歳の生涯を悠然と生ききったのです。