一条真也の人生の修め方 『日本経済新聞電子版』連載 04

『好老社会』の源流を求めて

前回、堺屋太一氏の唱えた「嫌老好若社会」という考え方を紹介しました。

近代工業社会では老人が嫌われ、若者が好まれました。ところが、人類がつねに「嫌老好若社会」であったわけではありません。若いことが喜ばれたのは古代と近代だけの特色で、そのあいだの中世は逆に「好老社会」でした。

洋の東西を問わず、聖者の像は年齢以上に老けて描かれています。老けて見えることは、神の恩顧には必要なことだ、聖者たるべきものは経験と知恵を備えるべきだ、と思われていたわけです。東洋には「年長尊敬」という伝統があり、尊敬する人は、実際の年齢にかかわらず「先生」と呼びました。禅の師は若くても「老師」と呼びます。

堺屋氏の著書『高齢化大好機』などを読むと、ギリシャ・ローマをはじめ古代社会では「若さ」が好まれたと書かれています。しかし、わたしは古代にも「好老社会」というか、とてつもない「好老文明」とでもいうべきものが存在したと思っています。

それは、古代エジプトです。古代エジプトにおいて、人類史上最も「死」の文化が栄えました。たとえば、『死者の書』というものがあります。さまざまな試練が待つ死後の旅路で死者に守護の力を与え、来世に導く古代エジプトの呪文集です。また、死者にとっての未来への旅のガイドブックでもあります。

ほかにもピラミッドをはじめとした壮大な「死」の文化を誇った古代エジプト人は「老い」に対しても豊かな文化を持ち、老人を非常に大切にしました。それは、年を取り経験を積むと、人間は賢くなると考えられていたからです。

賢くなった老人は、知恵の宝庫であり、技術の伝承者でもある。つまり、社会の貴重な財産として扱われていました。残された壁画の多くには、1人の老人のまわりに何人もの若者が集まっている様子が描かれています。ブドウを摘んだり、小麦を収穫したり、水を怖がるロバに川を渡らせようとしたりする老人を若者たちが見ているのです。

当時、いかに老人が若者たちにとっての知恵袋であり、人生の師として尊敬されていたのかがよくわかります。老人は「弱者」だからいたわり、大切にするのではありません。何より「経験」と「知恵」を持っている老人を尊敬するからこそ大切にするという、本物の敬老精神が古代エジプト人にはあったのです。

そして、古代エジプトには「老人のつえ」という警察官までいました。もし、「あそこの家では老人をいじめているようだ」などという情報が入ったら、それを聞きつけた「老人のつえ」が乗り込んできます。「老人のつえ」は、嫁姑(よめしゅうとめ)問題、親子の虐待、夫婦げんかなど、家庭内のさまざまなトラブルを取り締まる組織で、つねに国民の生活に目を光らせていました。

隠密に聞き込み調査をして、その家で若者が老人をいじめているという噂が事実だとわかれば、堅い木材のつえで若者を百たたきにするのです。このように古代エジプトでは、老人は社会全体から尊敬を受けていただけでなく、実質的に守られていたのです。

しかし同じ古代社会でも、ギリシャになると「老人は邪魔」「社会は若者のもの」という発想になりました。ギリシャの文化を継承したローマも「嫌老好若社会」であったと堺屋氏は述べています。

ギリシャ・ローマ時代の彫刻では、相当の高齢だったはずの皇帝や将軍も、筋骨隆々とした若々しい体格に彫られています。中高年風の出っ腹や痩身の人物像はほとんど見当たりません。写実主義のなかで顔は見事なほどに個性的に描かれても、身体は若々しく描いたのは、若々しく壮健なことを好む「好若社会」のせいだろうというのです。

でも、古代ローマには60歳以上の高齢者しか参加できない「元老院」という組織があり、実質上のローマの政治をとり仕切っていました。また、一般に高齢者は風呂を好みますが、ローマには有名なカラカラ浴場やディオクレティアヌス浴場など「風呂文化」がしっかりと根づいていました。

わたしは、古代ローマにはいくらか「好老社会」の要素があったと思っています。キケロは晩年、カエサルとポンペイウスとの政争に巻き込まれ、失脚して隠遁していたときに『老境について』という本を書きました。ここでキケロは大カトーを前にして、「老人には体力がない」「老人にはすることがない」「老人には何の楽しみもない」「老人は死が近い」という4つの悲観論を、ひとつひとつ実例をあげて一蹴します。

この『老境について』こそ、実践の知恵にあふれる老年のための幸福論としてよく知られています。キケロがこんな本を書いたこと自体は、背景に「嫌老社会」があったのかもしれません。

でも、まったくの「嫌老社会」であれば、その価値観が完全に浸透しており、キケロのような思想は出てきようがありません。おそらく、古代ローマでは「嫌老」思想と「好老」思想の両者がせめぎ合うようなところがあったのではないかと思うのです。