平成心学塾 読書篇 あらゆる本が面白く読める方法 #016

思想編 第二講

読書でお金は儲かるのか?

ベストセラー『レバレッジ・リーディング』

少し前にベストセラーになった『レバレッジ・リーディング』という本があります。読書論としての『レバレッジ・リーディング』は、なかなか良く書けた本だと思います。だからこそ、あれだけのベストセラーになったのでしょう。

著者の本田直之氏は、読書は最高の自己投資だと言っています。

彼によれば、本を読むことは自分に投資することです。それは、このうえなく割りのいい投資であり、どんなに利率のいい金融商品に投資するよりも、確実に多くのリターンをもたらすというのです。

ビジネス書の値段はだいたい1,200円から1,800円です。仮に1冊1,500円としましょう。この1,500円の本から学んだことをビジネスに活かせば、元が取れるどころか、10倍、100倍の利益が返ってくるというのです。これはいわゆる「成功者」の人々が実感している数字だそうです。わずか1,500円の本の中に15万円分の価値が隠されているのだから、読書ほど格安の自己投資はない、というわけです。

たとえば、京セラの創業者である稲盛和夫さんの本があるとします。サンマークや致知出版などからたくさん出ています。稲盛さんは私の尊敬する経営者でもあり、実際にその著書はたいへんにためになります。私もよく読んでいます。

ところで、もし私が直接、稲盛さんから学びたいと思い立ったとしたら、どうでしょうか。4~5時間も稲盛さんを拘束して話を聞こうなんてたいへんなことです。

喫茶店で話を聞くなんてわけにもいかないから、料亭を用意して、お車代をお渡しし……などと想像力を働かせていくと、20~30万円では到底ききません。このように稲盛さんの話を聞こうと思ったら、お金がいくらかかるかわからない(当然、お金をかけたところで話は聞けないでしょうが)。

それが1,500円の本を買うことによって、4~5時間分の話を直接、聴いたのとおなじか、それ以上の内容が手に入るのです。本来なら150万円かけなくては聞けない話を、1,500円で聞けると思ったら、コスト・パフォーマンスは1000倍です。

読書ほど格安の自己投資はないという本田氏の意見に私は全面的に賛成です。

本を読まないから時間がない

よく「読書が大事なことはわかっているけれど、忙しくて読むヒマがない」と言う人がいます。

しかし、これは本当は逆なのだと本田氏は言います。本当は、「本を読まないから時間がない」というのです。この点も私の持論とまったく同じことです。

たとえば、私はPHP研究所から出ている松下幸之助さんの本を、手に入るものはすべて読みました。9歳で丁稚奉公に出てから、15歳で商売をはじめ、ついには近代日本における最高の成功者になるまでの歩みが、彼の著書には克明に描かれています。その膨大な著書を読めば、一種の仮想人生として、松下幸之助の人生を追体験できるともいえるわけです。そこには人生の悩みがあり、商売上の問題があり、他人との葛藤がある。そして、悩みの解消があり、問題の解決があり、他人との和解がある。数多い彼の著書のどれを開いても、94年間にわたって彼が体得してきた各種の(人生の、あるいは経営の)ノウハウが記されています。こんな「お得」な話がどこにあるでしょうか。

このようにビジネス書には、努力の末に成功した人の知識や経験やノウハウがたくさん書かれており、その奥義を、わずか1冊の本を読むだけで得ることができます。

そのうえで自分なりの工夫を加えれば、早くて最小の労力で成功にたどり着ける。その結果、時間の余裕が生まれるわけです。

それなのに、本を読まない人は、せっかく本に良い方法が書いてあるにもかかわらず、最初からすべて自分1人で試行錯誤しながらやろうとする。「要領が悪いこと、この上なし」と、本田氏は述べています。

そして、それは「不労所得」と「勤労所得」のようなものだといいます。

本を読まなければ「勤労所得」のように、毎回自分でゼロからいろいろ試行錯誤して、実行することでリターンを得ることになります。

しかし、本を読むことで、「不労所得」のように蓄積してきた「パーソナル・キャピタル(自己資産)」を働かせることで、少ない労力で大きなリターンを得ることができるようになるのです。ここが、まさに『レバレッジ・リーディング』というベストセラーの、良くも悪くも真骨頂だと思います。本田氏の言葉で、気になるキーワードがあります。

① 少ない労力で早く成功に辿り着けるということ。
② 本には上手いやり方が書いてあるということ。
③ 本は不労所得であり、自分でゼロから試行錯誤し実行しなくても大きなリターンが得られるというところ。
本をよく読む人、本を実務に活かす人たちが漠然と考えていたことがよく言語化できています。だからベストセラーになったのでしょう。

しかし、本田氏は「不労所得」というものを肯定しているのです。そして、読書を金儲けのための「格安の自己投資」だと割り切っているのです。

ここが、私とは全面的に意見が違います。当然のことですが、読書は金のためにするものではありません。その最大の目的は、自分を高めることにあります。

金を生まねば意味がない……?

「レバレッジ」とは、要するに「労せずに儲ける」「楽して稼ぐ」ということ。証券や不動産を左から右に移動させて、不労所得を得るということです。レバレッジとはそもそも金融工学の用語で、サブプライムローンを生んだ金融工学的な発想にもとづいています。

金融業界のキーワードが読書の世界に入ってきたのです。少ない労力でうま味があるという考え方を読書にまで応用しようというわけです。読書の世界に「金融」「強欲」のキーワードである「レバレッジ」を持って来たところに疑問を感じます。どうも巷にはこうした拝金主義の読書論がはびこっているのが気になります。

これとつながるのが、「年収が10倍になる○○リーディング」みたいなタイトルの本です。

こうした本にすべて共通しているのは、すべて仕事に活かさなければ、お金を生まなければなんの意味もないという考え方です。本によって、お金が生まれればそれに越したことはないし、たしかに読み方次第で、本はお金を生む打出の小槌となります。しかし、お金を生むためだけの読書を考えていて、お金を生むことができるとは思えません。

たとえば、恋人というのは、自分にお金をもたらしてくれなければ良い恋人ではない、なんて言ったらどう思うでしょうか。親子関係で、自分に小遣いをくれないから、よい親ではないと言ったとしたら……。こんなおかしな話はありませんね。

本というのは、お金や金融と反する位置にあったのに、両者を無理矢理に結びつけたのが、こうしたベストセラー群です。この人たちに共通することをひと言で言うと、「楽して儲けたい」「労せずして利益を得たい」ということなのです。

あまりにも小手先の考え方で読者をバカにしているのではないでしょうか。実際にこうした本を読んで、金儲けできた人がいるのか、私にはそうとは思えないのです。

私は無駄な本も読んでいいと思っています。役に立つ本ばかり読まなくてはいけないと思い込むことは不要です。そればかりか、害毒です。

言い方を変えれば、本の中に無駄な本はないと思っています。毎回、ゼロから試行錯誤したっていいと思っているのです。

これはもしかすると、私の行なっているのがサービス業だからなのかもしれません。私たちのサービス業はコツコツとお客様一人ひとりと信頼関係を築きながら、試行錯誤しながら、毎日働いたことで、少しずつ利益を得るという業態です。こうした考えが読書にも通じているのでしょうか。

読書は「理」の入り口?

読書はリベラルアーツへの入口です。本を読めば、真理に近づき、自由になることができます。

自由でない人間は、真理から最も遠い所にいるのです(佐藤優『功利主義者の読書術』「あとがき」にも書いてありました)。読書こそが、人間を自由にしてくれます。

そして、真理とは「ことわり」そのものです。「ことわり」すなわち「理」と言うと、まず思い浮かぶのは「論理」でしょう。この論理という語に対して、古来より「情理」という語があります。単なる知識の理ではなくて、情というものを含んだ理です。

「パスカルの原理」で知られるフランスの哲学者パスカルは、頭の論理に対して胸の情理を力説しましたが、「感情というものは心の論理である」との名言を残しています。

安岡正篤は、物識りよりも物分りが大事であると述べました。物識りというのは、単なる論理やいろんなことを知っているだけにすぎず、これに対して情理や実理、真理、道理など本当の理を解することを物分りといいます。

そして、究極の理として「天理」があります。

天理とは、天地自然の理のことです。「天」は大いなる造化、万物を創造し、万物を化育してゆきます。その名も天理教の本部を視察したことがきっかけになって天理を悟ったという松下幸之助は、「無理をしないということは、理に反しないということ、言いかえると、理に従うことです」と語りました。

春になれば花が咲き、秋になれば葉が散る。草も木も、芽を出すときには芽を出し、実のなるときには実を結び、枯れるべきときには枯れていく。まさに自然の理に従った態度です。

そして松下幸之助は、こう言いました。

「人間も自然の中で生きている限り、天地自然の理に従った生き方、行動をとらなければなりません。といっても、それは、別にむずかしいことではない。言いかえると、雨が降れば傘をさすということです」と語り、事業経営に発展の秘訣があるとすれば、やはりこの天地自然の理に従うことであるとしました。雨が降れば傘をさすごとくに、平凡なことを当たり前にやるということにつきるというのです。

松下幸之助いわく、事業というものは天地自然の理に従って行なえば、必ず成功する。いいものをつくって、適正な値段で売り、売った代金はきちんと回収する。簡単に言えば、それが天地自然の理にかなった事業経営の姿である。そしてそのとおりにやれば、100%成功するものだというのです。

成功しないとすれば、それは品物が悪いか、値段が高いか、集金をおろそかにしているか、必ずどこかに天地自然の理に反した姿がある。孫子は「彼を知り己を知らば、百戦してあやうからず」と言っているが、それが天地自然の理にかなった戦の仕方だからであるというのです

もうおわかりかと思いますが、本を読めば、成功のもとである「ことわり」を学ぶことができます。もちろん、くだらない本を読んでもダメで、やはり「いのち」の通った、それなりの本を読まなければ、「ことわり」を学ぶことはできません。

「ことわり」は、つまるところ、天地自然の理です。

天地自然の理を体得すれば、松下幸之助の言うように、事業経営は順調に行くのです。

私が、「本は打ち出の小槌」と書いたのは、そういう意味です。

そして、当然のことながら、読書によって天地自然の理を体得すれば、ただ金儲けだけで終わってはもったいない。真の心の自由を得て、心ゆたかなになって、幸せに人生を送ったほうがいい。人間関係のインテリジェンスの代表される「心のインテリジェンス」を得たほうがいい。そして、その目的地としての「精神の王国」があるのです。

すなわち、天地自然の理さえ体得すれば、事業の成功も人生の幸福も思いのままなのです。そのための最も有効な手段として読書があるのです。

利益を得る読書、拝金主義の読書

私は「読書とは拝金主義とは無縁の行為」という表現で、拝金主義的読書術を否定しました。

しかし、この表現とプロローグの「本は打出の小槌」という表現とは決して矛盾しません。

私は、拝金主義的欲望から読書したわけではありません。読書によって暴利を貪ったわけでもありません。読書によって「天地自然の理」を知り、事業を赤字から黒字に転換しただけです。つまり、経営を正常化しただけです。

正確には「稼がせてもらった」というよりも「借金を返させてもらった」であり、「打出の小槌」というより「借金返済の秘密兵器」というべきでしょうか。

もちろん、以前は240億円もあった借入金がほぼ無借金になったわけですから、これまで返済に充てられていた利益が、今後はそのまま蓄えとなるわけです。「打出の小槌」という表現もまんざら誤りではありません。

そもそも、利益を出すことは「拝金主義」とは関係ありません。単なる正常な経済活動です。弊社の社員が汗をかき、智恵を出した結果、利益が出たにすぎません。それと、金融工学に象徴される拝金主義とはまったく無縁です。

そもそも、企業とは何でしょうか。一般には、利益を追求する存在であるとされています。

では、利益とは何か。「利」という言葉は『論語』にも登場します。

「利によって行えば怨み多し」行動がつねに利益と結びついている人間は、人の恨みを買うばかりである。

「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」君子はまっさきに義を考えるが、小人はまっさきに利を考える。

孔子は、「完成された人間とは?」と問われて、「目の前に利益がぶら下がっていても義を踏みはずさない」ことを、その条件の1つに挙げています。

どうも、「利」と「義」はセットで語られてきたようです。

そう、経済と道徳は両立するのです。利と義、つまり経済と道徳というものは両立する、と多くの賢人たちが訴えてきました。

アリストテレスは「すべての商業は罪悪である」と言ったそうです。

商行為を詐欺の一種と見なすのは、古今東西を問わず、はるかに遠い昔からつい最近まで、あらゆるところに連綿と続いてきた考えでした。

しかし、かの『国富論』の著者であり、近代経済学の生みの親でもあるアダム・スミスは、道徳と経済の一致を信じていました。   「神の見えざる手」というスミスの言葉はあまりにも有名ですが、彼は経済学者になる以前は道徳哲学者であり、『道徳感情論』という主著まであるのです。

これは『論語』や『孟子』の西洋版のような本です。

スミスは、道徳と経済は両立すべきものだと死ぬまで信じ続けていました。

スミスの後には、マックス・ウエーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で明らかにしたように、資本主義はもともと倫理や道徳というものを内に秘めていたのです。

日本では、江戸時代に石田梅岩が現れて、商業哲学としての「石門心学」を説きました。そして時代は下り、幕末明治にかけて渋沢栄一が登場します。

渋沢は日本史上最高・最大の実業家でしたが、父の影響で幼少のころより『論語』に親しみ、長じて志士から実業家になってからも、その経営姿勢はつねに孔子の精神とともにありました。

「義と利の両全」「道徳と経済の合一」を説いた彼の経営哲学は、有名な「論語と算盤」という言葉に集約されます。

特筆すべきは、あれほど多くの会社を興しながら財閥をつくろうとしなかったことです。

後に三菱財閥をつくることになる岩崎弥太郎から「協力して財閥をつくれば日本経済を牛耳ることができるだろうから手を組みたい」と申し入れがありましたが、これを厳に断っています。

利益は独占すべきではなく、広く世に分配すべきだと考えていたからです。

ドラッカーは、あらゆる企業家の中でも渋沢栄一を最も尊敬し、「彼ほど、社会的責任を知っていた人物は世界にいない」とまで絶賛しています。

孔子とドラッカーは、私が最もリスペクトする2人ですが、その間には両者を結ぶ「ミッシンクリンク」として渋沢栄一という偉大な日本人がいたのです。

やはり、「利の元は義」であると、私は確信します。

自分の仕事に対する社会的責任を感じ、社会的必要性を信じることができれば、あとはどうやってその仕事を効率的にやるかを考え、利益を出せばよい。

読書によって、経営を健全化し利益を出すことは拝金主義とは無縁どころか正反対の行為です。そして、それは精神の王国を築くことと矛盾するどころか、適正な利益が出る正常な経営は精神の王国に直結しているのです。