閉講にあたって
本講を書きあげて、わたしはいま、大きな喜びを感じています。というのも、中学時代に渡部昇一氏の『知的生活の方法』を読んでから、読書そのものに強い興味を抱き、さまざまな読書に関する本を読み漁ってきたからです。ようやく自分でも読書本を出すことができ、本当に感無量です。
本講でも述べましたが、わたしは本当に本が好きで、本のない人生など考えられません。わたしにとって、何より本は愛の対象です。読む前に、人は本を愛さなければならないと思っています。といっても、わたしは世にいう「愛書家」ではありません。珍しい稀覯本とか初版本とかにマニア的な興味はありません。わたしが愛しているのは即物的な本そのものではなく、その本の内容であり、つまりはその本を読む行為としての「読書」なのです。
ですから、わたしは「愛読書」ではなく、いわば「愛読家」なのだと思います。
本は恋人であるのと同時に用心棒でもあります。わたしはとにかく読書によって、人生のさまざまな難所をくぐり抜けてきました。
社長に就任してすぐ読んだのは、『ネクスト・ソサエティ』をはじめとするドラッカーの一連の著書でした。40歳になる直前には『論語』を40回読みました。これらの読書経験が、新米社長にどれだけの智恵と勇気を与えてくれたか計り知れません。
世界のクロサワの名画に「七人の侍」と「用心棒」という作品がありますが、わたしには「七人の用心棒」がいます。すなわち、マネジメントの祖であるピーター・ドラッカーを筆頭に、マーケティング論の大家であるフィリップ・コトラー、同じく競争戦略論の大家であるマイケル・ポーター、それから安岡正篤、中村天風、松下幸之助、稲盛和夫の7人です。孔子、孟子、王陽明といった超大物は別格として、何か経営上で困った問題が発生したら、この7人の本を読めば、たいていの問題は解決します。
わたしは本を読むときに、その著者が自分ひとりに向かって直接語りかけてくれているように感じながら読むことにしています。高い才能を持った人間が、たいへんな努力をして勉強をし、ようやく到達した認識を、2人きりで自分に丁寧に話してくれるなんて、なんという贅沢でしょうか。ですから、わたしは、昔の日本の師弟関係のように、先生の話を姿勢を正して1人で聞かせていただくのです。7人の用心棒は、7人のコンサルタントであり、7人の心の師なのです。
もちろん、この7人以外の本も読みます。もともと哲学や文学には目がないほうですし、最近では歴史書や伝記を努めて読むようにしています。
プロイセンの鉄血宰相ビスマルクに「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という有名な言葉がありますが、西欧の人々はおもにローマ帝国の衰亡史などを参考に人間理解をしてきました。生物の中で人間のみが、読書によって時間を超越して情報を伝達できるのです。人間は経験のみでは、一つの方法論を体得するのにも数十年かかりますが、読書なら他人の経験を借りて、一日でできます。つまり、読書はタイム・ワープの方法なのです。
わたしはお気に入りの書見台を入手したこともあって、最近では中国の書物を漢文で読む時間が増えました。
幕末維新までのわが国の教育に大きな力となったものは、漢籍の素読、儒学の教養でした。なかんずく中国の歴史とそれに登場する人物とが、日本人の人間研究に大きく役立ったのです。『史記』『十八史略』『三国志』『資治通鑑』『戦国策』などは当然読むべき教養書でした。
あの漢籍嫌いで知られた福沢諭吉ですら『左伝』15巻を11回も読んで、その内容をすべて暗誦できたといいます。漢籍でまず鍛えられた頭脳で、蘭学や英語をやったからこそ、福沢は西洋事情をたちまち見抜くことができたように思います。
広大な中国は、異民族による抗争の舞台でした。その興亡盛衰における権力闘争は、それ自体が政治の最高のテキストでした。これに登場する人物は、大型、中型、小型、聖人もいれば悪党もいて、そのバラエティたるや、まるで万華鏡のようです。
まさに人間探究、人物研究の好材料を提供してくれるわけで、日本人は中国というお手本によって人間理解の幅を大きく広げ、深めてきたといえるでしょう。
わたしは現在、北陸大学未来創造学部の客員教授として、100人を超える中国人留学生のみなさんに『論語』の読み方をはじめとした読書の指導をさせていただいています。本当に名誉なことであり、関係者の方々には深く感謝しています。
読書とは、何よりも読む者の精神を豊かにする「こころの王国」への入り口です。もちろん、読書によってビジネスや人生で成功をおさめることも可能です。でも、わたしは読書の神髄は「お心肥」という江戸しぐさの言葉にあるように思えてなりません。つまり本とは、心を太らせる「こころの食べ物」なのです。
わたしが経営者として、作家として客員教授として、なんとかやっていけているのも、すべては本のおかげです。本講を開講して、わたしはますます読書が好きになり、ますます本を読みたくなりました。本講を読まれたあなたが、少しでも本を読みたくなってくれれば、こんなに嬉しいことはありません。