第四講「神道と仏教」
第四講「神道と仏教」
日本に仏教が伝来したのは、六世紀半ばとされている。五三八年の欽明天皇の時代に、百済の聖明王が使者を遣わして、「釈迦仏(しゃかほとけ)の金銅像一_(かねのみかたひとはしら)・幡蓋若干(はたぎぬがさそこら)・経論若干巻(きょうろんそこらのまき)」を献上してきた公伝をもって、わが国への伝来の最初としている。
五木寛之氏などはこの通説に異論を唱え、すでにその前から仏教は民衆レベルに伝わっていたはずだとしている。いずれにしろ、朝鮮の王から伝えられてきた「仏教」を前にして、天皇がその受容の可否を群臣にたずねたことは間違いないだろう。そのとき、蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教の受容、すなわち「崇仏」を答申した。諸外国でも仏教を採用しているのだから、日本だけがその流れに乗り遅れてはならないというのである。
それに対して、物部尾輿(もののべのおこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、「廃仏」を主張した。その論拠は、日本には日本固有の神である「国神」がおられるから、「蕃神」という外国の神を崇拝する必要はまったくないというものだった。
相反する答申を得た天皇は、「試しに拝んでみよ」と仏像を稲目にと仏像を稲目に授けたという。かくして稲目は、自宅を寺にして、授かった仏像をそこに安置した。ところが、しばらくして疫病が流行し、廃仏派はそれを仏教のせいであるとした。異国の神を崇拝したために、日本の神が怒ったというのである。彼らは、稲目に授けられた仏像を難波の堀江に流し捨て、寺も焼き払った。
その後、五八四年の敏達天皇の時代にも、百済から二体の仏像が届けられ、稲目の子の蘇我馬子(そがのうまこ)がいただいて、個人的に崇拝した。しかし、このときもまた疫病が流行したのである。廃仏派は再び仏教のせいにして、天皇から破仏の命令をもらって仏像を焼き、さらに出家していた三人の尼を笞(むち)で打ったという。しかし、今回は疫病はおさまらず、それどころか、病人たちから「身が焼かれ、笞で打たれる思いがする」といった声がでてきたのである。
ここに形勢は逆転した。逆に、仏像を焼き、尼を笞打ちにした祟(たた)りによって、疫病が流行したのだとされたのである。馬子は新たに願い出て、自分だけは仏教を信じてもよいという許可を得て、寺を建立する。
敏達天皇の後に即位したのは、仏教に心を寄せる用明天皇だった。しかし、まもなく疫病で没し、その後は崇峻天皇を経て女帝の推古天皇が即位した。
推古天皇の摂政こそは、日本宗教における偉大な編集者である聖徳太子であった。 太子は自ら仏典の注釈書である『三経義疏』を著すほどの崇仏論者で、ここにおいて、わが国の仏教はようやく軌道に乗ったのである。太子が日本仏教の道を開いたのだ。太子の時代の七世紀以後、神道と仏教の間に存在した当初の対立・緊張関係はなくなり、両宗教は平和的に共存しはじめる。
奈良時代になると、日本の神々も仏教を信仰し、仏道修行をするといった考え方が起こってくる。常盤国鹿島大神や伊勢国多度大神、若狭国若狭彦大神などが「神の身を受けているゆえに苦悩は深い。よって仏法に帰依して神道から逃れたい」という内容の告白を行ったのである。中世日本史を専門とする歴史学者の義江彰夫氏は、著書『神仏習合』に次のように書いている。
「八世紀後半から九世紀前半にかけて、全国いたるところでその地域の大神として人々の信仰を集めていた神々が、次々に神であることを苦しさを訴え、その苦境から脱出するために、神の身を離れ(神身離脱)、仏教に帰依することを求めるようになってきたのだ」
このような動きを的確にとらえた仏教側は、民間を遊行(ゆぎょう)する僧たちの手で神々を仏教へ説教的に取り込むよう働きかけた。こうして遊行僧による神々の仏教帰依の運動がはじまるのである。九世紀半ばには、元興寺(がんごうじ)の僧であった賢和が遊行の途上で近江国奥津島に堂宇を構えた。そこで、夢の中で奥津島大神の声を聞き、「世俗のしがらみを脱しえない神霊の身を救ってほしい」との告げにしたがって、神宮寺を建てた。神宮寺とは、神社のうちに建立された寺院のことである。こうして賢和は、配下の村々と国家を鎮護したいという大神の願いを実現させたのである。
すなわち、神宮寺とは仏教に帰依して仏になろうとする神々の願いをかなえる場だった。文献に出てくる神宮字の最初は、奈良時代の気比(けひ)神宮寺であるが、神宮寺は主として遊行僧たちの手によって、その核となる部分、すなわち神像を設置した堂宇が建てられることから出発したのである。
そして、神宮寺においては神前読経が行われた。神に仏法を教え聞かせるわけである。
この神宮寺こそは世界宗教史上に特筆すべきもので、義江氏も次のように同書で述べる。
「八世紀から九世紀半ばまでの神宮寺生成確立の歴史を通して、何よりも注目したい宗教構造上の特徴は、日本各地に、他国に例を見ない、神社(基層信仰)と寺院(普遍宗教)が正面から結合し、仏になろうとして修行する神(菩薩)のための寺というかたちの神宮寺が、本来の神社の一隅または近接地に生まれてくるという事実であろう」
インドにおいては、大局的には仏教はヒンドゥー教に丸ごと取り込まれる道をたどった。中国仏教は老荘思想と統合することはあるけれども、仏教寺院内に道教の寺院が建てられた例はない。またヨーロッパでは、キリスト教の教会と接してケルトの聖地が併存することなど考えられない。この意味において、神宮寺の出現は、普遍宗教としての仏教と基層信仰としての神祇信仰すなわち神道が、それぞれ独自の信仰と教理の体系を維持したままで、開かれた形で結ばれるという、日本独自の宗教構造のあり方を示している。
義江氏は、怨霊信仰、浄土信仰、本地垂迹説など、神仏習合に関わる諸問題は、いずれも神宮寺に見られた神仏の関係を基礎として発展的に生まれてくる問題であるとし、「神宮寺の出現は、まさに神仏習合を歴史学的に解明しようとするさい、第一に解くべき鍵なのである」と述べている。
ここで考えてみたいのが、「神仏習合」という言葉である。似たものとして、「神仏混淆」という言葉がある。この二つの言葉は一般には同じこととされており、辞典や百科事典でもそのように解説しているものが多い。しかし、宗教評論家ひろさちや氏などは、この二つは厳密には異なるものだと主張する。
神宮寺における神前読経に代表されるような、神道と仏教の平和共存的あり方を「神仏混淆」と呼ぶべきで、それに対し「神仏習合」とは神と仏がまったく一つに融合してしまうことだと、ひろ氏は著書『仏教と神道』で述べている。
ことわざに「神と仏は水波の隔(へだ)て」というものがあるが、神と仏は水と波の関係で、形は違っても元は同じだと見るのである。そのような見方や考え方が「本地垂迹説」であり、だいたい一〇世紀頃からこのような思想が成立した。本地垂迹説とは、本地すなわち真実の姿である仏や菩薩が、民衆を救済するために迹(あと)を垂(た)れて、わが国の神々となって現れるというものである。まさに仏が水であって、その水が現実的には神という波になるわけだ。そこで、日本の神々には「権現(ごんげん)」という呼び名がつけられた。
本地垂迹説のルーツは仏教の仏身論で、垂迹は神に限らない。しかし日本では、仏教伝来当初から神仏の関係が問題とされた結果、神を護法神と位置づけ、または仏によって救済されるべき存在とする段階をへて形成されてきたのである。
平安中期からは、八幡宮の本地は阿弥陀仏や釈迦仏であり、伊勢神宮の本地は大日如来であるとするなど、個別の神社について本地仏を特定するようになった。また、平野・春日・日吉・北野・熊野・祇園などの主要神社で相次いで本地の仏や菩薩が定められ、それらを祭る本地堂が建立された。
中世に入ると、この関係を絵画化した「神道曼荼羅」も現れたが、一方で天台本覚思想の影響で神仏ともに本地とする説も生まれた。さらに鎌倉中期には、「神が本地で仏が垂迹」というように神仏関係を逆転させた伊勢外宮神官の度会(わたらい)氏による「反本地垂迹説」も登場したのである。
また、神道と仏教は「修験道」という混血児を生んだ。修験道は、もともと神道の縄張りであった日本古来の山岳信仰に仏教、特に密教の影響を受けて、平安末期頃に実践的な宗教体系を作りあげたものである。密教色が最も濃いとはいえ、そこには儒教や道教の影響さえ見られ、まさに混ざり合った宗教と呼べるものだ。山岳修行による超自然的霊力の獲得と、呪術宗教的活動を行う山伏に対する信仰が中心である。
宗教学者の中沢新一氏は、著書『芸術人類学』所収の「山伏の発生」というスリリングな論文を次のような書き出しではじめている。
「発生期の修験道について考えようとするときに見逃せないのは、東九州の修験霊場に伝承されている記録類である。宇佐がその地帯の文化のひとつの中心地であり、そのあたりは早くから百済・新羅系の帰化人集団の活躍が見られたところである。多数の技術者を擁していたその集団は、まず田川郡の香春岳(かわらだけ)の周辺に定着している。香春岳には銅が産出するので、そこが開発の中心となった。そして、彼らはおいおい国東半島に向かって拠点を拡大していったのである。五世紀後半から六世紀にかけての話である」
しばらくして、中央の記録に宇佐出身の宗教者とおぼしき人々の記事が登場する。彼らは「豊国法師」と呼ばれる行者であった。五八七年に用明天皇の病気平癒祈願のために、豊前から豊国法師と称する一行が宮中に召されている。彼らの正体は謎に包まれているが、それより百年ほど前に雄略天皇が御不慮であったさいに宮中に召された「豊国奇巫」の後身ではないかと推測されている。豊国奇巫といえば、明らかに朝鮮半島系のシャーマンであろうから、その後身である豊国法師も、おそらくシャーマニズム的な奉仕だったのだろうと中沢氏は述べる。豊国法師には験力があったのだ。
中沢氏は、柳田國男の巫女研究の跡をたどりながら、「修験道の原初をあきらかにしていくためには、どうしても東九州から朝鮮半島の南部までをひとつに包み込んだ大きな圏域のことを考えにいれなければならないという認識に、たどり着くことになる」と述べる。
このような発生をした修験道の開祖は、七世紀から八世紀にかけて活躍した役小角(えんのおずの)であるとされている。一般には「役行者(えんのぎょうじゃ)」と呼ばれる彼は不思議な霊力を持っていたようで、山中にあって鬼神を自由自在に使役していたとか、超能力で空中を飛行したといった類の伝説が多く残っている。彼の正体は山岳修行者であることは明らかで、吉野の金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)やその他の山々を開いた。だが、土着の山岳修行者との間に軋轢が生じ、彼らによって伊豆の大島に流刑されたのである。
中沢氏は、国家権力と無関係に次々に各地修験の開山をなした役行者は、「権力の獲得」という点に関して、天皇と鏡の像のようにそっくりな姿をしていると述べている。天皇は魔術的儀礼と神話の力によって、自然の懐から力の源泉を持ち去って、それを社会ノただ中に「国家の権力」としてとらえることに成功した人物である。
これに対して、修験者である役行者は、聖なる山や森に踏み込んで得た力の秘密を、社会の中に持ち込んで、それを自分の政治権力とすることを拒絶したとして、中沢氏は次のように書いている。
「途中まではこの列島の『王』として出現した天皇とまったく同質の行為をおこなって、力の源泉に近づいていった修験の祖は、いつまでも聖なる山と森の中にとどまり続けることによって、王のなした行為の最大の批判者となる可能性さえもった。役行者という存在は、原初の修験が突き動かされていた思想の本質を、もののみごとに表現しているからこそ、列島修験すべての祖となったのであろう」
山岳は、もともと神道の縄張りであった。山そのものが神であると考えるのが神道であり、各地の霊山には土着の山岳修行者がいた。もちろん、神道系の修行者である。奈良時代になって、そこに仏教系の修行者が加わったのである。私度僧や聖(ひじり)といった人々が主で、正式な僧侶ではなかったが、彼らが山岳で修行して呪力を身につけ、陀羅尼(だらに)や経文を唱えて、民間で呪術や祈祷を行ったのである。役行者も、もともとはこのような人々の一人であったのだろう。
平安時代になると、最澄と空海がともに唐から新仏教としての密教を伝えてきた。この密教は特に山岳修行を重視した。密教僧が山岳修行によって加持祈祷の力を身につけることは「験(げん)を修める」と呼ばれ、それを修めた者は「修験者」「験者(げんざ)」あるいは「山伏」と呼ばれたのである。修験道はまさに、「山伏道」なのだ。
中世期になると、修験道は天台系の「本山派」と真言系の「当山派」に編成される。本山派は京都の聖護院(しょうごいん)を本山とし、熊野一帯を修験霊場とする。当山派は京都の醍醐寺三宝院を本寺とし、吉野の金峰山、大峰山を修行道場とする。その他、出羽三山、九州の英彦山、四国の石鎚山など地方でも独自の山岳霊場がつくられ、修験集団が形成された。
江戸時代になると、幕府は全国の修験者を本山派か当山派に所属させ、山伏の遊行を禁止したため、彼らは町や村に定着して、加持祈祷などの呪術的活動を専門にした。
このように、本地垂迹説に基づく神仏習合にしろ、修験道にしろ、ともに神道と仏教が混ざり合い、神と仏が共生するという離れ業を日本人は行ってきたのである。しかし、もともと神と仏は原理的に異なる存在である。その違いを鎌田東二氏は三つの標語にして非常にわかりやすく説明している。すなわち、
第一に、神は在るモノ、仏は成る者
第二に、神は来るモノ、仏は往く者
第三に、神は立つモノ、仏は座る者
つまり、神とは森羅万象、そこに偏在する力、エネルギー、現れであるが、それに対して、仏は悟りを開き、智慧を身につけて成る者、すなわち成仏する者である。
また神は祭りの二羽に到来し、訪れてくつモノであるが、それに対して、仏は悟りを開いて彼岸に渡り、極楽浄土や涅槃に往く者である。
さらに神は祭りの場に立ち現れるがゆえに、神の数詞は一柱、二柱と数えるのに対して、仏は悟りを開くために座禅瞑想して静かに座る者で、その座法を蓮華座などと呼ぶ。たとえば、諏訪の御柱祭や伊勢神宮の心の御柱(みはしら)や出雲大社の忌柱に対して、奈良や鎌倉の大仏の座像などは、立ち現れる神々の凄まじい動のエネルギーと、涅槃寂静に静かに座す仏の不動の精神との対照性を見事に示しているのである。
このように、神と仏の違いは非常に大きい。ある意味で対極に位置するものでありながら、日本で神仏習合が進んだのは、なぜか。鎌田氏によれば、もともと森羅万象に魂の宿りと働きを見る自然観や精霊観があり、それが仏を新しい神々や精霊の一種として受け入れる素地となったからである。その自然観や精霊観を「アニミズム」と呼ぼうが、「森羅万象教」や「万物生命教」と呼ぼうが、もっとシンプルに「自然崇拝」と呼ぼうが、実態は同じである。そこには、「一寸の虫にも五分の魂」が宿り、「仏作って魂入れず」という言葉で肝心要のことに注意を喚起してきた文化がある。その文化の根幹には「八百万(やおよろず)」の思想があり、それは肯定の思想の極致と言える。そう、八百万主義とは全肯定の思想なのである!
神と仏は原理的に異なるものであったとしても、日本人の心の中ではずっと平和に共生してきた。神仏は分離されるものではなく、表裏一体をなし、密接不離の関係にある。ときには本地垂迹し、互いに変換しあい、変容しあう間柄だったのである。
その意味でも、一八六八年(明治元年)に「神仏分離令」が出されたことは不幸な事件であった。それまで蜜月関係を続けていた日本の神仏は。ここで制度的にはっきりと分離されることになった。そしてその後、一部地方で激しい「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の運動が起こり、寺に火をつけたり仏像を破壊したりするという事態を招いたのである。
梅原猛氏は、このとき殺されたのは仏ばかりではなく、神もまた殺されたのであると述べている。仏だけでなく、習俗信仰的な神々も廃仏の対象となっていたからである。梅原氏はまた、伝統的な神仏殺害の報いが現在の道徳崩壊という形で徐々にあらわれてきているともいう。神仏分離および廃仏毀釈によって、すべてを肯定し、すべてを尊重する日本の美徳は失われ、その大きな代償を私たちは、いま払っているのである。
修験道もまた、明治政府の修験道禁止令によって廃止されてしまう。本山派、当山派の修験者は、強制的にそれぞれ天台宗、真言宗に所属させられた。もちろん、中には神職に転じて神道に戻った山伏もいたし、宗教から離れて帰農した者もいた。江戸幕府といい、明治政府といい、修験道への対処ぶりを見ると、やはり中沢新一氏が述べるように、修験道は国家権力の問題と密接に関わっていたと思わざるをえない。
最後に、全肯定の八百万主義の象徴として「七福神」について述べたい。七福神とは恵比寿、大黒天、弁財天、布袋、福禄寿、寿老人、毘沙門天のことをいうが、仏の世界と神々の世界のビッグネームたちがまさに「呉越同舟」しているのである。
鯛を抱えて釣竿を持つ恵比寿は、イザナギのミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれた神であるヒルコノミト(蛭子命)とされている。生まれながらにして障害があり、三歳になっても脚が立たなかったため、両親は葦舟(あしぶね)に乗せて海に流したという。中世以降、このあまりにも悲惨な運命の神は一転して福神となり、ふくよかな笑顔の「恵比寿さま」と尊称されるようになった。
大きな袋を背負い、右手に打ちでの小槌を握った大黒天は、もともとインドの神であった。仏教では大日如来の化身とされ、仏法の守護神である。凄まじい形相をした戦闘の神であったが、中国に渡って厨房の神となり、留学していた最澄が帰国後にこの大黒点を比叡山延暦寺の守護としたのだった。その後、出雲神話のスターであるオオクニヌシノミコトと一体化し、現在のイメージに至っている。
芸術を司る弁財天は、インドの河の神だったが、日本で宗像大社の祭神で海の神であるイチキシマヒメノミコト(市杵島姫命)と一体化した。
もともと中国の学識豊かな禅僧とされた布袋は、弥勒菩薩の化身でもあった。頭長短身の老人である福禄寿と、仙人の寿老人は、中国生まれの道教の神である。仏教の四天王のひとつとして知られる毘沙門天は、護国護法の神であり、多聞天の別名を持つ軍神である。
このような七福神を、玄侑宗久氏は「やおよろず」そのものとして高く評価する。また神道学者の井上宏生氏は著書『神さまと神社』で次のように述べている。
「七福神には日本の神もいれば、もとはインドや中国といった外国の神々と日本の神とが一体化した神もいる。これらの国籍を越えた神々にあたらしい役目を与えられ、七つの神々が呉越同舟したのである。そして、室町時代以降、福を願う町民たちの間で七福神信仰が生まれ、今日なお、根強い人気を集めている」
明治まで何の疑問もなく、神と仏を同時に信仰してきた日本人であったが、神仏分離令によってその信仰は封印された。しかし現在でも七福神を愛する心の奥底には、神と仏を同時に求める日本人の無意識があるようだ。