交霊術としての読書
今年の「読書週間」(10月27日~11月9日)はたくさん本を読んだ。わたしは、読書という行為は死者と会話をすること、すなわち交霊術であると考えている。
というのは、著者は生きている人間だけとは限らない。むしろ古典の著者は基本的に亡くなっている。つまり、死者である。死者が書いた本を読むという行為は、じつは死者と会話しているのと同じことである。
このように、読書とはきわめてスピリチュアルな行為なのである。
わたしは、三島由紀夫の小説を読むときは「盾の会」の制服を着た三島が、小林秀雄の評論を読むときは仕立ての良いスーツを着た小林秀雄が目の前にいることを想像する。古代の人でも同じだ。『論語』を読むときは孔子が、プラトンの哲学書を読むときはローブ姿のプラトンが、わたしの目の前に座って、わたしだけのために話してくれるシチュエーションを具体的にイメージする。
ある著者を気に入ると、その著者が書く本すべてが面白くなることがある。それは個別の作品ではなく著者そのものに関心を持てている状態である。著者に関心を持つというのは、大切な態度で、そのとき読者は著者の霊魂と共鳴しているのである。著者が死者ならば、これはもう交霊術という他はない。
さらに、読書には死の不安をなくす力もある。人間にとって最大の不安は「死」にほかならない。その正体がわかないがゆえ、人間は「死」に対して限りない恐怖を感じている。
誰でも、死ぬのは怖い。しかし、「死」について書かれた本を読むことで、ある程度、その恐怖は軽減されるのだ。あえて意識的に「死」を考えることによって、「死」は主観から客観へとシフトし、距離を置いて自らの「死」を見ることができるのである。
人類の歴史の中で、ゲーテほど多くのことについて語り、またそれが後世に残されている人間はいないとされているそうだが、彼は年をとるとともに「死」や「死後の世界」を意識し、霊魂不滅の考えを語るようになった。
『ゲーテとの対話』では、聞き手であるエッカーマンに対して「私にとって、霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくる。なぜなら、私が人生の終焉まで休みなく活動し、私の現在の精神がもはやもちこたえられないときには、自然は私に別の生存の形式を与えてくれるはずだから」(木原武一訳)と語っている。
これほど、読書するわたしを勇気づけてくれる言葉はない。『ゲーテとの対話』はわたしの愛読書の1つだが、読むたびにゲーテの霊がわたしの眼前に座っているような気がしてならない。ちなみに、最近、『心ゆたかな読書』(現代書林)という名著のブックガイドを書いた。ご一読下されば幸いである。