「老害から老福へ」
『年長者の作法』という本を主婦と生活社から刊行いたしました。同書には、「『老害』の時代を生きる50のヒント」というサブタイトルがついています。
若者たちができる“ふるまい”と、年長者だからこそできる“ふるまい”は、おのずと違うもの。年を重ねたからこそ実践したい「年長者としてのふるまい」から、「年長者にこそ必要な『対人関係』のコツ」「孤立を防ぐ『縁』のつくり方」「人生の最期に備える覚悟」まで、老いれば老いるほど幸せになれる方法を徹底紹介しています。内館牧子さんの『老害の人』がベストセラーになりました。この小説を読んで、自らのふるまいを見直そうかと考えた人、老親のふるまいを見直してもらおうと考えた人にも必読です。
今年、わたしは六〇歳の誕生日を迎えました。世間では、伝説の名俳優・嵐寛寿郎をもじって「アラカン」と言います。「カン」は「還暦」のカンでもあります。還暦を迎えたわたしは、年長者の仲間入りをしました。
ここ数年は、コロナ禍のせいで誕生日を祝ってもらえなかった人も多いでしょう。誕生日を祝うとは、「あなたがこの世に生まれたことは正しいですよ」と、その人の存在を全面的に肯定することだと思います。人間関係を良くする最高の方法です。
わたしは、誕生日が来るたびに『論語』を読み返しています。『論語』では、六〇歳を「耳順」といいます。「60歳になれば、人の言うことに逆らわず、素直に聴き入れることができる」という孔子の教えです。わたしは「耳順」を実践し、「従心(七〇歳になれば、心のままに行動しても、人の道を外れない)」への旅路を進んでいます。
わたしは冠婚葬祭互助会を経営しながら、人間尊重の精神である「礼」や、それを形にした「作法」を重んじています。小笠原流の礼法家としても活動しています。これまで多くの年長者の方々と出会い、学びを得てきました。その経験からも、この先の人生を豊かにするためには、「礼」や「作法」が必要であると痛感します。
一方で、世間では「老害」などという言葉が使われています。人は老いるほど豊かになる「老福」をめざすべき、というわたしの考え方とは相容れません。社会はもちろん、年長者自身も老いを前向きにとらえることができなくなっています。
世間・社会で迷惑なふるまいをする高齢者を「老害」と呼びますが、往々にしてそう思われるような行為をする当事者には「自制すべきだ」という認識はありません。自らの老いの現実を受け入れることができないことが、原因のひとつといえると思います。
つまり「老害」を起こしにくくするには、「老い」をポジティブに受け入れ、「老福」というものを考えることで、老いの現実を受け入れやすくすることが重要です。
「老福」という言葉は、拙著『老福論』(成甲書房)で初めて提唱しました。わたしたちは何よりもまず、「人は老いるほど豊かになる」ということを知る必要があります。
現代の日本は、工業社会の名残りで「老い」を嫌う「嫌老社会」です。でも、かつての古代エジプトや古代中国や江戸などは「老い」を好む「好老社会」でした。前代未聞の超高齢化社会を迎えるわたしたちに今、もっとも必要なのは「老い」に価値を置く好老社会の思想であることは言うまでもありません。そして、それは具体的な政策として実現されなければなりません。
世界に先駆けて超高齢社会に突入した現代の日本こそ、世界のどこよりも好老社会であることが求められます。日本が嫌老社会で老人を嫌っていたら、何千万人もいる高齢者がそのまま不幸な人々になってしまい、日本はそのまま世界一不幸な国になります。逆に好老社会になれば、世界一幸福な国になれます。
まさに「天国か地獄か」であり、わたしたちは天国の道、すなわち人間が老いるほど幸福になるという思想を待たなければならないのです。わが社では、「ともいき倶楽部」などのウェルビーイング活動を通じて、老福人生の提供に努めています。
日本の神道は、「老い」を人が神に近づく状態ととらえます。その考えのもとに長寿祝いを行うこと、知り合いの葬儀にはなるべく参列すること。この二つが自然に「老い」と「死」を受け容れて、「老福」人生を実現します。わたしは、年長者が穏やかに、かつ毅然と生きる道を示すべく、同書を書きました。ぜひお読みください。