ハートフル・メッセージ サンレー会員様へのメッセージ『ハートライフ』連載 第23回

「論語と冠婚葬祭」

 このたび、わが国における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行先生との対談をする機会に恵まれました。その内容は『論語と冠婚葬祭』(現代書林)にまとめられました。

 わたしは長い間、「礼とは何か?」「なぜ、冠婚葬祭は必要か?」について考え続けてきましたが、加地先生との対談でついにその答えを得ることができたように思います。NHK 大河ドラマ「青天を衝け」で有名になった渋沢栄一の『論語と算盤」の続編みたいなタイトルですが、『論語と冠婚葬祭』というタイトルはわたしが考えました。同書の帯には、「葬儀も結婚式も……冠婚葬祭の儀式の本質はすべて儒教である。」と書かれています。

 加地先生は『論語』とともに儒教の重要経典である『孝経』を訳されたことで有名な方です。日本人の葬儀には儒教の影響が大きいですが、その根底には「孝」の思想があります。

 「孝」とは何か。あらゆる人には祖先および子孫というものがありますが、祖先とは過去であり、子孫とは未来です。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表わされます。すなわち、親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点です。ですから子の親に対する関係は、子孫の相先に対する関係でもあるのです。

 孔子の開いた儒教は、そこで次の3 つのことを人間の「つとめ」として打ち出しました。1 つ目は、祖先祭祀をすること。仏教でいえば、先祖供養をすることですね。2 つ目は、家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと。3 つ目は、子孫一族が続くこと。そして、この3 つの「つとめ」を合わせたものこそが「孝」なのです。

 「孝」というと、ほとんどの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった誤解をしています。それは間違いです。死んでも、なつかしいこの世に再び帰ってくる「招魂再生」の死生観と結びついて生まれた観念が「孝」というものの正体なのです。これによって、古代中国の人々は死への恐怖をやわらげました。なぜなら、「孝」があれば、人は死なないからです。

 それは、こういうことです。死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転して「生命の連続」という観念を生み出しました。亡くなった先祖の供養をすること、つまり相先祭祀とは、祖先の存在を確認することです。

 また、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。さらには、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになるのです。

 だとすると、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく1 つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということです。ここにおいて、「死」へのまなざしは「生」へのまなざしへと一気に逆転します。

 この孔子にはじまる死生観は、明らかに生命科学におけるDNA に通じています。とくに、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが唱えた「利已的遺伝子」という考え方によく似ています。生物の肉体は一 つの乗り物にすぎないのであって、生き残り続けるために、生物の遺伝子はその乗り物を次々に乗り換えていくといった考え方です。なぜなら、個体には死があるので、生殖によってコピーをつくり、次の肉体を残し、そこに乗り移るわけです。子は親のコピーなのです。

 「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺した体」というのが、「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。あなたは、あなたの相先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです。

 儒教では、死から殯の儀式を経て、遺体を地中に葬り、さらにその後の儀式が続きますが、そういう一連の儀式全体を「喪」といいます。遺体を埋める「葬」は「喪礼」の一段階にすぎません。ですから儒教的に言えば、「葬式」ではなくて「喪式」です。また、婚礼は昏い間に行われたことから、日本語の「冠婚葬祭」は儒教では「冠昏喪祭」が正しいといいます。

 仏式葬儀の中には、儒式葬儀の儀礼が取り込まれています。インドにおける本来の仏教に、果たして今のような葬儀の儀礼があったのかどうかさえ疑問です。加地先生は、「日本仏教はもちろんすぐれた宗教として存在する。私は仏教信者でありつつ、儒教的感覚の中で生きている」と述べておられます。この言葉は、多くの日本人にも当てはまるものでしょう。