技術編 第四講
「まえがき」を熟読する
まえがきは「客引き」だ
まえがきは基本的に本文のサマリー(概要)になっているものです。この本にはこういうことが書いてあります、この本ではこういう主張を展開していきます、というのが端的にまとめられています。
また、本1冊を「興行」と捉えてみると、「まえがき」は呼び込み、客引きの役割です。
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! こんなにすごくて、こんなにためになって、こんなに面白いことをやっているよ。木戸銭払う価値があるよ。安いよ、安いよ」ということを声高に叫んでいるのです。
ですから、その部分には文章力とか表現方法など、最高の技術が使われているはずです。興行主はここで懸命にアピールをして、道ゆく人々をなかへと呼び込もうと努力しているのですから。
もし、この本のテーマは面白そうだけど、買おうかどうしようかと悩んだときは、まえがきを読みます。ぜひ書店でまえがきだけでも立ち読みしてください。
これが面白いか面白くないかで、この本は読まないと引き返すことができます。まだ木戸銭を払っていないのですから、「やっぱり今度にするよ」と立ち去ることができます。まえがきまで引き込んでやめることも大いに結構です。
まえがきはお客さんと著者との真剣勝負、第一戦です。まえがきを読んで面白くないと思ったら、著者の敗北なのです。ですから、私もまえがきを書き始めるときには緊張します。
意外な「まえがき」の結末
「まえがき」で思い出すのは、最近読んだ『なにもかも小林秀雄に教わった』(木田元著、文春新書)という本です。書名から、当然ながら、小林秀雄についての本だと思いますよね。
「まえがき」を読んでも、「宣長もランボーもゴッホもモーツァルトも、小林秀雄に教わった。考えてみれば、すべてだ」などと、いかにもそれらしく書いてある。ところが、購入し、本文を読んでいくと、なんと小林秀雄などほんの数ページしか出てこないではありませんか! 後はほとんどが著者の伝記でした。じつは前述の目次読みによって、「もしかしたら……」という危惧は感じていたのですが、章が進んでいくにつれて、それが確信に変わっていきました。
私は小林秀雄について、私の知らない何か新しい事実があるのではないかと思っていたので、これには「あちゃー、やられた!」と思いました。これなどは「看板に偽りあり」。書名の偽装をまえがきの偽装でさらにくるんでいた巧妙な手口(!)だったのです(木田元さんの名誉のために付け加えておきますが、木田さんの著作にはたいへん勉強になるものも多く、この本の内容も面白く読みました。ただ小林秀雄情報を求めていた私には「あちゃー」だったのです、あしからず)。
まえがきと目次のビミョーな関係
こうした特殊ケースもありますが、それでも書店で買う場合、私は必ずまえがきを読んでから買うことにしています。事前に買うことを決めている本でもまえがきを読みます。そして、買ってからふたたびじっくり読むのです。
ここで重要なのは、目次との関係性です。
実際に試してみればおわかりになると思いますが、目次を読むことにくわえて、「まえがき」を読むと、双方の論点が明確になります。目次を読みながら各章の内容をイメージする際にも読み違い(前述のとおり、これ自体はなんの問題もありませんが)も少なくなります。
目次は、まえがきの前にあったり、後にあったり、本によってさまざまですが、どちらが先でもかまいません。私は本の構成として、目次が先に来た場合には目次を、まえがきが先に来た場合はまえがきを読むことにしています。
まえがきの熟読と目次の熟読はセットで、読書に入る前にやらなくてはならない準備運動のようなものであるとお考えください。