第四講「脳から生まれる心」
第四講「脳から生まれる心」
アリストテレスは「心の源は心臓である」と唱えたが、いまやそれが事実でないことは誰でも知っている。心の源は脳である。心が脳から生まれたのなら、「心の社会」について考えるとき、脳の問題を避けては通れない。
私たちの脳のなかには、約一〇〇〇億のニューロン(神経細胞)がある。それぞれのニューロンが、シナプスと呼ばれる数千から一万の結合を通して他のニューロンと関係を結んでいる。そして、ひとつひとつのニューロンは、外界からの刺激に応じて、あるいは私たちの注意や、思考の過程に対応してそれぞれ独自のパターンで発火する。ひとつのニューロンの発火は、それとシナプス結合している他のニューロンに影響を及ぼす。その影響は、そのニューロンの発火パターンとしてあらわれる。こうして、互いにシナプス結合で結ばれたニューロンは、次々に影響し合いながら、発火の時空間パターンをつくり上げていく。このように、私たちの心のなかで起こっているすべての出来事は、ニューロンの発火に支えられているのだ。「心」とは、ニューロンの発火の集合であると言ってもよい。
二一世紀は、「脳科学の時代」といわれる。ゲノム(全遺伝情報)研究やIT(情報技術)の発達が、人体最大の迷宮である「脳」の仕組みを解きほぐし始めており、アルツハイマー病など難病の治療、さらに脳の複雑な機能を模した人工知能づくりへと脳科学研究の裾野は大きく広がる一方である。そして、画像診断など脳科学技術の発達は、言語、思考、意識など人間特有の機能の解明も進めている。「脳」によって「心」の仕組みが解かれつつあるのだ。
心に対しては、これまでは哲学や心理学の分野からの論議が中心だった。紀元前には、ギリシアの哲学者たちが「心とは何か」という問題に頭を悩ませてきた。「我思う、ゆえに我あり」と自己認識を定義づけた一七世紀フランスの哲学者デカルトは、心と脳は独立した存在であり、脳内の一部の器官を舞台にして作用しあうという「心脳二元論」を唱えた。「心と脳は別」という考え方である。
しかし、脳に傷害を負った患者が心に変化をきたすことなどが観察された結果、心の働きの多くは脳から来ていて、しかも心の機能が脳の一部だけに頼っているのではないことがわかってきた。現在では、心は基本的に脳にあるという「心脳一元論」が主流である。
「唯脳論」を唱えた解剖学者の養老孟司氏は、「心」は脳の機能であり、人間の心=脳がつくった「社会」や「文明」に脳の仕組み・構造が浸透していると主張している。一方、脳と対置される「身体」は、脳のつくった社会としての「脳化社会」から抑圧されており、そのため、身体は脳化社会に反逆する可能性を秘めているという。
養老氏は言う。現在とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味する。脳は、典型的な情報器官だからである。また都市とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。都会では、人工物以外のものを見かけることは困難である。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為的に、すなわち脳によって、配置される。自然の洞窟に住んでいた私たちの遠い祖先は、まさしく「自然」のなかに住んでいたわけだが、現代人はいわば脳のなかに住んでいるのである。言語、文化、社会制度などもやはり脳の産物であることを考えれば、私たちはハード面でもソフト面でも、もはや脳のなかにほとんど閉じ込められたと言っていい。人類の歴史は、「自然の世界」に対する、「脳の世界」の浸潤の歴史であり、それを私たちは進歩と呼んだのだ。これが「唯脳論」の要旨である。
この考えを逆のぼると、ドイツの哲学者フォイエルバッハに行き着く。ドイツ観念論の系譜を引き、マルクスにも影響を与えた彼は、「世界とは精神が外化したもの」と述べた。精神とは脳の活動である。ならば、心を含めた世界は脳の産物であり、脳が「外化」したものと言えるだろう。
私自身の考えを述べるなら、脳から心が生まれ、心の源が脳であることは疑うべくもないが、やはり脳だけではないと思う。脳イコール心ではないということだ。かつてフランスの哲学者アンリ・ベルクソンは『物質と記憶』のなかで、脳をハンガーにたとえ、心をそこに掛ける上着にたとえた。つまり、脳機能が駄目になればハンガーが壊れて上着が掛けられなくなるように心にも異常をきたすが、心は脳に支えられてはいてもそのものではないというのである。
最近では、脳と心はそれぞれハードウェアとソフトウェアにたとえられることが多い。脳がCDやDVDなどのハードディスクだとしたら、心とは音楽や映像といったソフトであるというのだ。
アメリカのペンシルヴェニア大学において、医学部と宗教学部の双方で教鞭をとるアンドリュー・ニューバーグによれば、脳と心の関係は、海と波の関係に似ているという。波の実体をなす海水と、海水に形と動きを与えるエネルギーのどちらかが欠けても波が存在しえないのと同じ意味で、ニューロンの機能と実体のどちらが欠けても心は存在しえないというわけである。私には、このアナロジーが一番しっくりくるように思う。
今後の脳科学がどのような方向に進むかというと、これまでわかってきた意識形成のメカニズムを体系化するだけでなく、脳がどう進化してきたかを研究する必要があるとされている。人間の心はまさに進化の結果、現在のようになってきたからだ。
私たち人類、より正確に言うなら、現生人類(ホモサピエンス・サピエンス)の心はどうしてつくられるようになったのだろうか。三万年から四万年ほど前、地球上のどこかに私たちの直接の先祖である現生人類が出現した。それ以前にたくさんいたネアンデルタール人と比べて、頭の大きさが少しだけ小さくなって、少々スマートになった印象だが、全体的にはあまり大きな変化は見られない。ところが外からは見えない革命的な変化が、その小さくなった脳の内部で起こっていたのである。
現生人類の脳では、ニューロンの結合の仕方が格段に複雑になって、ネアンデルタール人の脳では見られなかったような「横断的」な結合組織がつくられるようになっていたのだ。容量の大きなネアンデルタール人の脳においては、技術的な知識、社会的知識、博物学的な知識などを扱う領域がそれぞれに分離されており、いわば大部屋に図体の大きなコンピュータを並列に配置して、それぞれが得意領域を扱うコンピュータが独立に作業を行なっているような状態だった。それが現生人類のもつ新しいタイプの脳では、違う領域の知識を横につないでいく新しい通路がつくられ、そこをそれまで見たこともなかった新しいタイプの知性が、高速度で流れ出したのである。この知性のことを、宗教学者の中沢新一氏は「流動的知性」と呼び、自身の一連の講議である「カイエ・ソバージュ」のキーワードにしている。
さて、この変化によって私たちがいま獲得しているような知性の能力が可能になった。流動的知性は、異なる領域をつなぎあわせたり、重ね合わせたりすることを可能にした。こうして「比喩的」であることを本質とするような、現生人類に特有な知性が出てきたのである。「比喩的」な思考は、大きく「隠喩的」な思考と「換喩的」な思考という二つの軸で成り立っているが、この二つの軸を結びあわせると、いまの人類のしゃべっているあらゆるタイプの言語の深層構造が生まれるのだ。「比喩的」な思考の能力が得られると、言語で表現している世界と現実とが必ずしも一致しなくてもいいようになる。現実から自由な思考というものが、できるようになるわけだ。神話や音楽も同じ構造を利用している。つまり、現生人類の脳に起った革命的変化によって、言葉をしゃべり、歌を歌い、楽器を演奏し、神話によって最初の哲学的思考を開始し、複雑な社会組織をつくりだすことが、同時に可能になっていったのである。
また精神分析学の研究によれば、人類に特有とされる「無意識」というものが、このときから形づくられてくるようになったという。無意識は、私たちの感情生活に大きな影響を及ぼしている。そうしてみると、人類に特有な感情生活なども、「比喩」による思考の発生が可能にしたのだと言えるかもしれない。「ことば」の形成によって、私たちの「心」もつくられたということである。
そして忘れてはならないのが、そのときにもうひとつ重要な出来事が起こったと考えられる。「超越性」をめぐる宗教的思考が発生する条件が、脳のなかで整ったのである。「ことば」によって心がつくられ、神が発明されたのだ。これ以上の大事件はない。
そこで、次のような声がどこからか聞こえてきそうである。「脳という物質から心が生まれたなど馬鹿げている。心とは、もっと霊妙不可思議なものだ」。特に宗教関係者から聞こえてきそうな意見である。しかし、脳から心が生まれたからといって、それは心の神秘性をいささかも損わない。そもそも脳自体がいまだ多くの謎に満ちており、それゆえ心も不可思議なものなのである。
私たちはみな、朝、目覚めると、それまで存在しなかった「私」の意識が突然あらわれる。そして、夜になり再び眠りに陥るまで、私たちの意識のなかにはさまざまなイメージや感覚が出てくる。コーヒーの香り、トーストの香ばしさ、朝の空気のすがすがしさ、太陽のまぶしさ、午後のけだるさ、夕暮れどきの物悲しさ、そしてビールの最初の一杯の爽快さ・・・・・・これらの主観的体験に満ちた意識は、一体どのようにして生じるのか。脳科学者の茂木健一郎氏は、この問題こそ、私たち人類に残された最大の謎であるとし、それを解くキーワードとして「クオリア」をあげている。
「クオリア」はもともと「質」や「状態」を表すラテン語で、アウグスティヌスの『神の国』にも出ている古い言葉だ。それが近年になって、特に心脳問題において、私たちの主観的体験のなかに感じられるさまざまな「質感」を指すようになった。私たちが知覚するこの世界は、クオリアに満ちている。草の緑色。バラの赤。風のさわやかさ。水の冷たさ。鳥のさえずり。そして、それらを体験する私自身の体の感覚。「私」がここにいて、世界を感じているという意識。目覚めている限り、私たちの心のなかには、クオリアがあふれている。「私」とは、「私」の心のなかに生まれては消えるクオリアのかたまり塊のことであると言ってもいいくらいである。しかし、物質である脳のなかのニューロンの活動からクオリアがどのようにして生まれるのかという問題は難問中の難問とされ、「意識とは何か」という問いに答えるうえでの最大の鍵であると言われている。そして、脳内で起こる物理的、化学的過程はすべて数量化できるが、クオリアは数量化できないのである。
人間がその生活のなかで感じることのある質感のカタログをもしつくったとしたら、人々はその膨大なことに驚くに違いない。「実際、そのようなカタログは人間に関する最良の文学作品になるだろう」と茂木氏は『脳とクオリア』で述べている。プルーストは『失われた時代を求めて』のなかで、紅茶に浸したマドレーヌの味から、昔の記憶を呼び起こした。開高健の小説は、食と性に関する質感のコレクションと言ってもよい。人間が出会う質感のカタログは、人間そのものである。人間は、質感が有機的に統合された存在なのである。
心のなかのクオリアを表現する行為こそ芸術の本質とも言えるが、さまざまなクオリアを見事に表現した画家にクロード・モネがいる。モネの初期の絵を見ると、例えば夏の日のポプラの緑、そこに当たる光の白い反射と輝き、周囲の草原、その中を歩く人などが、それらとともに風の涼しさ、草の匂い、肌に伝わる汗の感触などがそのまま伝わってくるかのように生き生きと描かれている。いわば「この世界に“いま”生きていることの喜び」とでもいうべきことが、ストレートに表現されて見る者の心に生への希望を与えるのだ。
茂木氏はソニーコンピュータサイエンス研究所のリサーチャーであるが、ソニーでは二〇〇一年に「クオリアプロジェクト」をスタートさせ、出井伸之会長兼CEOは「クオリアマネジメント」を唱えている。人は誰でも、それぞれのクオリアを持っており、絵画や映画や音楽に対してクオリアを感じる人々も多い。若い頃に、「ああ、このコンツェルトはいいなぁ」と涙を流した経験もあるという出井氏は、著書『非連続の時代』に「アリゾナの夕日やヘリコプターから見た早朝のダボスの雪景色など。美しい自然だとか人の暖かい心だとか、そういうものに出会って何かほっとして心の中でジーンとくる感覚、それがクオリアです」と書いている。
クオリアは人に一生忘れない記憶を残す。そんな感覚、経験、記憶、そして「幸せ感」を求めて「かたち」にし、人の心に驚きと感動を残していくことこそ、ソニーの本質であると出井氏は述べている。ここで「クオリア」とは結局は人間の幸福感と密接に関わっているものであり、私のいう「ハートフル」に通じることがわかる。「クオリア」は人をハートフルにする。ならば、社会をもハートフルにできるだろうか。
心は脳から生まれた。当然ながら、脳は人間だけにあるものではない。サルにもネズミにもゾウにもある。そして、地球にもあるとさえ言われているのだ!ケンブリッジ大学などで数学、理論物理学、心理学、コンピュータサイエンスなどを修めたピーター・ラッセルは「グローバル・ブレイン」という考え方を一九八二年に提唱している。
それは、人類の進化の問題に関わっている。ラッセル・シュワイカートというアポロ九号やスカイラブ二号の船長を務めた宇宙飛行士がいるが、彼は自分たちの活動を含めて、人間が宇宙へ進出していくという、その行為自体を人類史の流れのうえでとらえ、これは人類史上最大のターニング・ポイントの一つであるとみなした。地球が一個の生命体であるという「ガイア仮説」の提唱者として知られるジェームズ・ラブロックとも大変親しく、お互いに影響を与え合ったシュワイカートの基本的な考えは、人間というのは、これまでずっとガイア=地球の体内で育まれてきた胎児であるという立場だ。人類が宇宙へ進出するということの意味は、このガイアの体内にいた胎児がはじめて体外へ出たことに等しいというのである。人類は地球空間から宇宙空間に出産したというわけだ。
ちなみに「ガイア仮説」は現在、他の多くのニューエイジやニューサイエンス理論と同様に袋叩きに遭っていると言ってよい。「地球は生きている」とみなすことによって安易な生命至上主義に流れていったとか、人間の感覚のみに立脚したロマン主義に変貌したとか、意味過剰に変容させられてしまった「生命」の物語性にのみ頼っていて物語の豊かさがないとか、古代ギリシアからの有機体論の焼き直しだとか、いろいろ批判されている。しかし私自身は、急進的な一部のエコロジストたちに利用されてきた面などあるにせよ、「地球は生きている」という物語は悪くないと思うし、何より直観的に正しいのではないかと感じている。理論物理学における量子論や相対論などの方がよっぽど不可思議な奇説という印象があるし、文学的な側面も強い「ガイア仮説」をトンデモ科学として攻撃するのも大人気ないように思うのだが。
話をシュワイカートに戻そう。人類史以前の約三五億年にわたる生物の進化のなかで、約四億年前に、それまでずっと海のなかにいた生物が、はじめて陸上に上がるということが起きた。人類が宇宙に出たというのは、それとほとんど同じ進化史上の大きな意味を持っているというのがシュワイカートの考えである。これは生命進化史上でも何億年に一回しか起こらないような、そういう大事件ではないか。そういう大事件を人類は体験したのではないかというのだ。
やはりシュワイカートの友人だった前述のピーター・ラッセルはさらに、生物の進化史の流れのなかで、いま、私たちがいる、この人類社会というものは、どういうところにいるのかという、そういう角度から現在をとらえた。
彼は宇宙の歴史そのものを進化史的にとらえると、より下のレベルのものが、どんどん結合して大きくなり、大きな組織をつくっていくというプロセスの繰り返しと考えた。素粒子から原子、分子、巨大分子、それから単純細胞、複雑な多細胞、そして組織、さらにヒトという、こういう流れの中にあって、この先に行こうとしているのだという発想なわけだ。
彼は人類全体を広大な経験圏ととらえる。するとそれは全地球的な脳、つまりグローバル・ブレインと言えるのではないか。そのグローバル・ブレインのなかで、個人個人は、いわば一つのニューロンのような役割を果たしているというのが、ラッセルの考えである。
グローバル・ブレインの考えをさらに発展させると、たくさんの人間が集まって社会をつくり、その社会構造をどんどん複雑化させてきたその過程を、ちょうど、神経細胞がたくさん集まって神経回路をつくり、それがまた多数結合されて神経回路網となっていく過程になぞらえることができる。
人間社会では、人間と人間、社会組織と社会組織のあいだの情報のやりとりがどんどん進み、その情報のやりとりのために通信インフラが発展し、ネットワーク状の通信網ができていく。通信のメディアが無線、電話、コンピュータと進み、エレクトロニクスの発展とともに、通信の高速化、大容量化が進み、ネットワークがどんどん巨大化して、ついに現在のような全地球的インターネット・ネットワークにたどりつく。これはヒトの脳の中で、神経回路網がどんどん発達していく過程とそっくりだ。いま、全地球的なコンピュータ・ネットワークは、複雑さの度合いにおいて脳にひけをとらないのである。どうやら、ラッセルの夢想したグローバル・ブレインは実際に誕生したようである。
現代ドイツを代表する哲学者のアルベルト・ノルツは、もはや人類というのは、世界規模のコンピュータ・ネットワークのセンサーであり、入力端末にすぎないと言っている。あるいは、人類の思考は、コンピュータ・ネットワークのアルゴリズムを超えることはできないと言っている。しかし、インターネットが存在しなかった二〇年以上も前にこのような発想をしたラッセルには驚かされる。
人間の脳から心が生まれるように、グローバル・ブレインからは「グローバル・ハート」が生まれるはずだ。いま、地球人類の心が生成されようとしているのである。かつて心理学者ユングは、私たちの心は一見バラバラのようでも実は深いところでつながっていることを発見した。彼はすべての人間の心に共通する底流があると考え、それを「集合的無意識」と名づけたが、これは明らかにグローバル・ハートに通じる。インターネットに代表されるコンピュータ・ネットワークの力は、「集合的無意識」を顕在化させて、「集合的意識」を出現させることもできるのではないだろうか。
集合的意識こそは「心の社会」そのものだ。そして、それはハートレス・ソサエティでなく、ハートフル・ソサエティでなければならない。かつて宮澤賢治は、『農民芸術概論綱要』の序論で次のように告げた。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団的社会宇宙と次第に進化する この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」心ゆたかな社会、つまり、人類の幸福について考えたとき、幸福を生み出すのもやはり脳であるという事実に帰る。
世界は揺れ動いている。開発途上国には慢性的な飢餓がまんえん蔓延しているし、二一世紀になっても戦争やテロは地球上からなくならない。しかし、賢治が夢みたように世界中の人間がみな幸福であれば、争いごとはなくなるはずである。
何も、経済的に豊かであれば幸福を感じられるというわけではない。経済的な豊かさと心の幸福はまったく別次元の問題である。ただ、人間が幸福になるためには最低限必要なことがある。それは、食べること、そして寝ることだ。この二つが満たされているとき、人間は基本的に幸福なのだが、もう一つ、生きがいという名の潤いがあるとき、人間は心の底から幸福を感じることができる。
この生きがいこそは最も重要な問題と言える。昨今、生きがいを感じにくい人が増えているが、そういう人は自身を「幸福だ」とは思えなくなる。二〇〇一年に「大人のサルでも脳細胞が成長している」という医学界の定説を覆す大発見を発表した先端生命科学者の久恒辰博氏によれば、生きがいを感じやすい人と感じにくい人とでは、脳回路に微妙な差があることがわかってきたという。生きがいを感じやすい人は、脳のなかにセロトニンという物質が大量につくられているのに対し、生きがいを感じにくい人は、このセロトニンの量が少ないというのだ。
子どものころに十分な愛情を受けて育った人は、大人になってセロトニンの分泌量が多く、逆に子どものころに複雑な家庭環境のなかで抑うつ状態にあった人は、大人になってからセロトニンの分泌量が少ないというデータもある。しかし、これはあくまでも、「大人になってからは脳は変わらないし成長もしない」ことが常識だった二〇世紀の脳科学でつくられてきた理論であり、一九九〇年代からの爆発的な脳科学の進展によって、脳は成人してからも変わり続けていることがわかってきた。子どものころの不幸な体験を脳回路から消去し、生きがいをつかみ、幸福になることは誰にでも可能である、と久恒氏は主張する。単なる快楽物質としてのβエンドルフィンではなく、生きがい物質としてのセロトニンこそが人間の幸福には必要なのである。
グローバル・ハートに支えられた「心の社会」がハートフル・ソサエティとなるためには、人々に驚異と感動を与えるクオリア、そして生きがいと幸福感を与えるセロトニンが脳内に満ちあふれていなければならないと言えよう。