平成心学塾 社会篇 人は、かならず「心」に向かう #003

第二講「超人化のテクノロジー」

第二講「超人化のテクノロジー」

 

本当に信じられないことだが、人類が初めて空を飛んでから、まだたったの一〇〇年しか経っていないのである。一九〇三年一二月一七日、アメリカ・ノースカロライナ州のキティホーク村の海岸で、世界で最初のエンジンを塔載した飛行機械が宙に浮かんだ。歴史に名を残すライト兄弟の飛行実験である。
一〇〇歳以上の高齢者というのは珍しくもなんともないから、飛行機というものが存在しなかった時代に生まれた人々が、世界中にかなりの数において現在も生きているのである。これは、かなりすごいことではないだろうか。二〇世紀初頭の複葉機は、この一〇〇年のあいだに軍事・民生を問わず、さまざまなタイプの「空飛ぶ機械」に姿を変えてきた。
飛行機の発明と普及は、人々の意識を空に向けさせた。長い時間をかけて、人類は地上や海上を速く移動し、短時間で遠い場所に達する技術を獲得した。当然、次は天上であり、自然のままに放置されていた天空を文明の所産たる機械によって人間がどう使いこなしていくのか。その「天上へのまなざし」は宇宙空間にまで及び、人類はついに宇宙船によって地球から離脱し、月に立つという快挙まで成し遂げたのである。
まさに二〇世紀は大いなるテクノロジーの世紀であった。ほとんどの人々にとって、テクノロジーは科学技術の同義語であり、同時に「技術」そのものである。現代社会は、科学の成果としての二つの技術を中心に築かれてきた。一つは、飛行機や自動車あるいは鉄道船舶などの運輸交通技術。もう一つは、インターネットや携帯電話、あるいは衛星放送などの情報通信技術である。これらのテクノロジーは、世界中に存在するほとんどあらゆる社会の、あらゆる人間集団の隅々にまで浸透している。人々は電子メールを通して世界中の人々と会話し、インターネットを通して世界中の情報を瞬時に手に入れ、世界中のモノを自由に手に入れることが可能になった。
倫理学者の今道友信氏は、現代社会の特色を「技術連関」という言葉で表現している。技術連関とは、人間と自然の間に機械が介在したことによって生まれた新しい環境のことである。昔は自然のみが環境であったが、今は自然の他にもう一つ環境がある。つまりアスファルトや軌道や電車、信号機、携帯電話、コンピューターのように、一連の技術的な環境、つまり技術の連関が認められる。技術連関が環境になっていると考えなければならないのだ。そして、その技術連関とはどういうものかといえば、それによって人間が生活を便利にすることのできる、一つの体系であると考えればよいだろう。「技術連関」という言葉を使えば、全世界のどのような社会にも当てはまると言えよう
人間の文明史を大別すると三つになる。一つは道具を使っていた時代である。道具というのは、私たちの手足とか感覚の延長にすぎない。したがって道具を使う場合には、私たちの肉体はいくらか楽になるが、完全に肉体を動かしていた。この時代は長く、道具の質的差はあるけれども、ほとんど十五、六世紀まで続いたと言ってよい。
次に機械の時代が来る。「機械」という単語は『荘子』に出てくる古い言葉であり、マシーンのもとのメーカネーという言葉も、ギリシャ悲劇の時代からある言葉だ。よって定義する場合に区別しなければならないが、字の通り「自分ではず(機)む構成(械)を持ったもの」と考えると、内燃機関を持った、自分で動く道具ができたとき、すなわち第一次産業革命前後が機械の成立した時代だと言える。ちなみに、はじめて蒸気機関車が走ったのは一八二五年であった。
さらに、その機械が互いに連関を持つようになったとき、初めて「技術連関」の世界ができたのである。自動車ができただけでなく、自動車を走らせる道が必要になり、また、それを機能的に処理する電気による信号機が随所にできるとか、自動車を動かす燃料が石油コンビナートなどへ系統的に運ばれるようになると、どこが狂っても自動車が動かなくなる。
今日では、電話、テレヴィジョン、ファックス、そしてインターネットなどで通信は世界的同時性を呈し、各種の交通機関も世界中に連絡網ができている。そういう大きな技術連関が組織的に世界的にできてきた時代だということが、二十世紀後半から現在に至る特色なのである。そういう技術連関として見るかぎり、現代社会というものは、世界のどこにおいても同じ性格を持つと、今道氏は著書『エコエティカ』で述べている。
しかし、このような技術連関による現代的なコミュニケーション経験は、電気的なコミュニケーション装置としては最初のものである電信の発明とともに始まった。電信の登場は、それまでの印刷の時代が過去として切断されていく重要な転換点であった。アメリカのコミュニケーション学者であるキャロリン・マーヴィンが言うように、歴史的な観点からすれば、今日のコンピュータは、桁外れの記憶力を備え、瞬間的な送受信ができるようになった新型の電信という以上のものではない。また、電信とコンピュータのあいだに発明されてきたあらゆるコミュニケーション手段は、いずれもが電信が最初に踏み出した道を、単により洗練させていったものでしかないのである。
電信によって始まった長い変容のプロセスのなかでも、一九世紀の最後の四半世紀は、メディアの歩みを知るうえで特別の重要性をもっている。電話、蓄音機、白熱電球、無線、そして映画という、二〇世紀に広く普及していくことになる五つの大衆的なメディアの原型が、まさしくこの時代に発明されているのである。
飛行機も電話も映画も、いずれも人類の文明や文化にとてつもない大きな影響を与えた発明である。では、人類史上最大・最高の発明とは何だろうか。石器・文字・鉄・紙・印刷術・拡大鏡・テレビ・コンピュータといった大物の名が次々に頭のなかに浮かぶ。なかには動物の家畜化、野生植物の栽培植物化といった答もあるだろうし、都市、水道、民主主義、税金、さらには音楽や宗教といった答もあるだろう。その答は、人それぞれである。
しかし、現代の私たちの社会や生活に最も多大な影響を与えているという意味において、人類最大の発明は電気であると私は思う。より正確に言うなら、電気の実用化である。
たしかにコンピュータは人類史上においてもトップクラスの大発明だろう。しかし、テクノロジーの歴史の研究者が決ってもちだす効果的な質問は「ある一つのものが開発されるには、何を知る必要があったか」というものだ。たとえば、シリコンチップの発明がなかったなら、現在あるようなパワーと順応性ともったデスクトップ・コンピュータ、さらにはノート型パソコンは生まれなかったはずである。次々とあらわれるテクノロジーをこうした姿勢で見ていけば、必要とされる技術が扇状に拡がることになる。これをイギリスの行動生物学者パトリック・ベイトソンは、歴史家が時代をさかのぼるにつれて、どんどん分岐していく木の根であると表現している。根によっては、疑いもなく他より重要なもの、明らかに他より多くの可能性を与えるものがある。ちなみにベイトソンも、過去二〇〇〇年で最大の発明として「電気の実用化」をあげている。
コンピュータにはもちろん電気が必要だし、私にとって生活上欠かせないもの、蛍光灯、エアコン、DVDプレーヤーなどの恩恵を受けられるのも電気のおかげだ。さらには、飛行機・電話・映画・テレビといった大発明はすべて電気なくしては開発もありえなかったのである。
大量の電荷をたくわえるのに成功した最初の装置はライデン瓶で、オランダはライデンの物理学者ピーテル・ファン・ミュッセンブルークが一七四五年に発明した。その後、アメリカのベンジャミン・フランクリン、イギリスのジョーゼフ・プリーストリーによって実験と理論化が一気に進み、一九世紀半ばには、電気の研究は計量可能な精密科学となっていて、現在の私たちが当然のものと考える種々のテクノロジーへの道が開けた。
電気の実用化によって、二〇世紀の百年間はそれまでの人類の歴史をすべて加算した合計よりも、はるかに多くのテクノロジーを生みだした。ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、ヒューゴー・ガーンズバックをはじめとしたSF作家たちが空想した「夢の機械」は次々と現実のものとなっていったのである。さらに「SFが現実化していく時代」としての二一世紀に突入したいま、テレビ電話や自動翻訳機はすでに実用化され、宇宙ステーションも予算さえあれば建設可能といわれる。本当に、すごい時代になったものだ。一〇〇年前といわず、一〇年前の人々が現在の動画付き携帯電話を手に取ったら、おそらく腰を抜かすだろう。そして、量子コンピュータ、心をもつロボット、クローン人間、さらにはタイムマシンといった人類の想像力そして創造力の限界に挑戦する究極のハイテクノロジーさえ真剣に開発をめざす研究者がいるのである。
さて、テクノロジーが高度に進んだ社会というと、機械による無機的な社会になると思いがちだが、逆にむしろ有機的というか生物的になってくる。工業社会は組織に統制がなくて、バラバラである。しかし、ポスト工業社会あるいは高度情報社会、つまり現在の社会においては大脳に相当するコンピュータによって情報が処理され、その情報が、神経に相当するネットワークによって送受信されることが可能になった。運輸交通網の発達はあたかも血管の発達であり、血液としてのモノ、金、情報が迅速に流れていく。まさに、これまでのテクノロジーの歩みはバイオ生物社会をつくるために発達してきたのである。そして、つくられた生物としての社会は、創造主である人間にひたすら近づこうとするはずだ。まるで人間が神に近づこうとするように。ハイテクノロジー社会とは、人間化社会なのである。
それでは、人間になった後は、どうなるのだろうか。私は、人間化を果たした後の社会は人間を超えた存在、つまり超人をめざして進化していくと思う。なぜなら、さらなるハイテクノロジー社会において、人類は超能力を使えるようになるからである。これは、そのまま言葉の通り、人類がもともと潜在的にもっていたとされる超能力がよみがえる(実際、そのように主張する人々も存在する)という意味ではない。ここでは、人類がすべて超能力者になるに等しいような社会システムがハイテクノロジーによって出現するという意味である。
ひと口に超能力といってもさまざまなものがある。研究者たちは、超能力をPSI(サイ)と総称しており、これは「科学では説明できない、人間が秘める、五感を超える、潜在的、超自然的な能力や現象」を意味する代名詞とされている。そして一般的には、PSI現象は、思念などによって外部環境に影響を及ぼすPK(念力、念動、念写)、透視、テレパシー、霊感などのESP(超感覚的知覚)の二つに分類される。
スプーン曲げに代表される念力などのPKは、現代社会において、すでに実現されているといってよいだろう。それは何より、核の存在による。核はどんなに遠く離れたものでも、この地球ですら一瞬で破壊することのできる強大な念力のテクノロジー化なのである。ちなみに核と並んで二十世紀を象徴する道具としての宇宙船は、体外離脱のテクノロジー化である。宇宙船が地球の重力圏から脱出して宇宙空間に出て行くことは、人類の意識が肉体である地球から体外離脱することなのだ。その意味で、宇宙体験とは人類にとって臨死体験であり、神秘体験である。
核だけではなく、コンピュータもPKを実現してきている。ハッカーと呼ばれる人々は、遠く離れたコンピュータでも自由に、また相手に知られることなく操作することができる。彼らは超大国の軍事までをも思いのままに操ることによって、多くの人々を生かしも殺しもできる恐るべきPK能力者なのである。
PKとともにPSI現象を構成するのがESPである。ESPの諸能力を仏教の用語を使ってわかりやすく表現すると、次のようになる。
一、 てんげんつう天眼通・・・・・・透視、千里眼
二、 てん天につう耳通・・・・・・千里耳(地獄耳)
三、 他心通・・・・・・テレパシー
四、 宿命通・・・・・・予知、後知
五、 神足通・・・・・・テレポート
六、 ろじんつう漏尽通・・・・・・悟りの境地
この中でも、ある程度は現在実現しているものがある。漏尽通は、幽体離脱をテクノロジー化した宇宙船によって獲得することができる。なぜなら、宇宙飛行士の多くは宇宙で神の実在を感じ、悟りのような境地に達したという。重力とはあらゆる煩悩の象徴であり、そこから脱出することは悟りへ至ることなのだ。ブッダはものすごい苦労をして悟りを開いたが、無重力の宇宙空間では凡人でも悟りを開けるのかもしれない。
また、神足通は飛行機などによって、宿命通は世界中をケーブルでつながれたひとつの世界の市場とした金融テクノロジーをはじめとする情報システムによって、他心通は遠く離れた相手ともコミュニケーションが可能なインターネットや携帯電話の電子メールによって、天眼通や天耳通はテレビやラジオによって、それぞれある程度実現している。しかし、それは未来の超人社会から見れば未熟な超能力にすぎない。これから来る高度情報社会において、人類は万能の超人となるのだ。
超人というと、私には子どもの頃に夢中になった漫画家の故・石ノ森章太郎が生み出した数多くのキャラクターたち、サイボーグ〇〇7、仮面ライダー、キカイダー、イナズマン、ロボット刑事Kなどがすぐ思い浮かぶ。それらはサイボーグ、アンドロイド、ミュータントなど厳密には異なる存在であるけれども、人間を超えた存在としてのパワーと悲しみが十分に表現されていた。
自らの肉体に機械を埋め込まれ、怪物のような改造人間となったことに苦悩する仮面ライダー。二一世紀において、人間と機械の関係はさらに複雑で広範囲なものになっていく。すでに二〇世紀の半ばに、人間と機械を徹底的に比較しようとした研究があった。クロード・シャノンとノーバート・ウィーナーという二人のユダヤ系研究者による「サイバネティックス(人間機械論)」である。彼らはここで、「情報」という概念を歴史上初めて唱え、生物固有の仕組みを「情報」によって説明しようとした。そして、シャノンの「情報理論」は、今日のコンピュータと通信技術の基礎をつくった。一方、ウィーナーは「人間とは何か」と問いかける学際的な「人間観」を構築していったのである。
また一九六〇年代に、カナダのメディア学者マーシャル・マクルーハンは、「人間拡張の理論」を唱えた。鉛筆が手の延長で、自動車が足の延長、電話が口と耳の延長で、テレビが目の延長というように、マクルーハンは道具や機械を人間の身体の延長としてとらえた。そして、電気メディアの登場でその拡張はすでに「最終段階」に入り、外部への拡張が人間の心身の内部にまで拡張して、「内爆発」を起こしていると主張した。この「内爆発」によって、それまで外部への作用しかなかった道具の影響が、人間の内側に激しく作用してくる。その結果、内爆発の影響を受けた人間の心身は、当然、それ以前とは変わってしまう。現在再評価を受けつつあるマクルーハンの理論が正しければ、その後にあらわれたパソコンや携帯電話は、人間の感覚を確実に変容させているはずである。
テクノロジーの力を借りて、身体能力を拡張しつづけ、ついには超能力まで得る私たちは、限りなくサイボーグ化しているのだ。そもそもサイボーグ化などというと、すぐ人工臓器などを考えがちだが、そこまでいかなくとも、健康な人も近眼ならコンタクトレンズをつけるだろう。さらに多くの人が年をとると老眼になって眼鏡をかける。人工臓器と、コンタクトレンズや眼鏡は「拡張」の度合いに差はあっても、「身体の延長」という本質は異なるものではない。サイボーグとはサイバネティック・オーガズムであり、機械と有機体のハイブリッドであり、フィクションであると同時に社会的現実が創造したものでもある。
サイボーグだけが問題ではない。キカイダーやロボット刑事は人間の心を得ようともがき苦しみ、また人間と敵対してしまうことを極度に怖れていた。かつての名作SF映画「ブレードランナー」や、アイザック・アシモフの古典SFを映画化した「アイ・ロボット」、さらには最近の日本映画の中では出色の「CASHEEN」などに描かれた人間と人造人間との対立もこれからはフィクションだけでは済まなくなるかもしれない。
チェコの劇作家カレル・チャペックが初めて「ロボット」を構想して以来、物語として語られつづけてきた「機械としての人間」の登場が、技術的には可能になりつつある。チャペックの戯曲『RUR』に出てくる「ロボータ」という呼称が「ロボット」の語源だが、「ロボータ」とはチェコ語の「強制労働」という意味である。西欧では、ロボットは、その概念が生まれた当初から、人間に代って働くためにつくられた機械だった。キリスト教では、労働とは、神が人間に科せられた罰とされている。つまり、労働から解放されることが、人間が人間性を回復することに他ならない。だから、自分の代りにロボットに労働させることは、神の意図に添うことなのだ。
このように、欧米では人間の仕事を代替する機械であることにこだわり、機械仕掛けの「道具」としてロボットをつくってきた。一方、日本では「茶運び坊主」のからくり人形に代表されるように「玩具」として親しみ、ロボットを楽しんできたという違いがある。その流れのなかで、「アイボ」のようなペット・ロボットが生まれたのである。
ロボットの役割に対する期待は、産業のみならず、レジャー、教育、災害救助、看護、医療とその幅が大きくなる一方である。「労働」のために生まれてきたロボットが、「労働」から解放され、今では人間を遊ばせ、教え、救い、癒す。しかし欧米でも日本でも、工業社会の終焉後に、彼らが生き残る道は、戦争の道具になる以外にはないという声があるのも事実である。サイボーグにしろロボットにしろ、テクノロジーが社会を超人化させるという側面は同じだ。
今後は運輸交通や情報通信のみならず、遺伝子コントロールによるバイオテクノロジーが間違いなく私たちの身体と精神に未知の影響を与えていく。また、極小の世界をもデザインできるナノテクノロジーなどの社会への影響も図り知れないほど大きい。まさにコンピュータ、バイオ、ナノという三つの究極のテクノロジーは「情報」「生命」「物質」を自在に編集する驚異の技術と言えるだろう。しかしそれらは、かつて「日本SFの父」と呼ばれた海野十三が喝破したように、神と悪魔の両面を備え、自分で自分を律することの困難な恐るべき技術なのである。
さまざまなテクノロジーによって、私たちはESPを獲得する。それは、核やハッキングといったネガティブなPKへの対抗策であり、アメリカの未来学者ジョン・ネズビッツのいう「ハイテク・ハイタッチ」相互補完の法則でハイテクノロジー社会とともにやって来る「心の社会」を迎え入れるためのものでなければならない。超人社会とは、漏尽通としての悟りが広く遍在していなければならないのだ。