平成心学塾 社会篇 人は、かならず「心」に向かう #007

第六講「ホスピタリティが世界を動かす」

第六講「ホスピタリティが世界を動かす」

 

ホスピタリティは、二一世紀における最重要テーマである。「心の社会」をハートフル・ソサエティにする最大のキーワードこそ、ホスピタリティだ。
ダニエル・ベルは、ポスト工業社会とは「人間が人間をあいてに働く」社会だと言ったが、一般にはホテルやレストランなどの接客業をホスピタリティ産業と呼ぶ。私は幼少の頃から「ホスピタリティ」という言葉になじんできた。私の父が三〇年以上前から日常的に使っていたためで、父の会社の経営理念にもちゃんと入っていた。最近こそ流行語になっているが、おそらく、日本でも最も早く「ホスピタリティ」なる考え方を打ち出したのは父ではないかと思う。父は社団法人・北九州市観光協会の会長時代、「百万にこにこホスピタリティ運動」をスタートさせ、観光ボランティアなど、市民参加のさまざまな企画を実施し、ホスピタリティが北九州市の魅力の一つとして定着するよう運動を通して全市的にアピールした。現在、社団法人・日本観光旅館連盟(日観連)の会長を務める父は、日本中のホテルや旅館を飛び回りながら、毎日のようにホスピタリティの重要性を説き続けている。
もともと小笠原流礼法を通じて「礼」の心を追求しており、実践礼道小笠原流の会長として『思いやりの作法』という著書も持つ父は、「礼」とは結局のところ、「思いやり」を形にしたものだと主張する。それは、ホスピタリティにおいても、まったく同じことが言えるだろう。洋の東西の違いはあれど、「礼」も「ホスピタリティ」もともに、「思いやり」という人間の心の働きで最も価値あるものを形にすることなのである。茶道において「礼」は、「しつらい」「もてなし」「ふるまい」として形に表れるが、人との出会いを一生に一度のものと思って最善を尽くしながら茶を点てる「一期一会」の精神も含めて、まさにジャパニーズ・ホスピタリティとでもいうべき世界をつくっていると言えよう。
「思いやり」こそは、人間として生きるうえで一番大切なものだと多くの人々が語っている。たとえばダライ・ラマ一四世は、人を思いやることが自分の幸せにつながっているのだと強調したうえで、
「消えることのない幸せと喜びは、すべて思いやりから生まれます。思いやりがあればこそ良心も生まれます。良心があれば、他の人を助けたいという気持ちで行動できます。他のすべての人に優しさを示し、愛情を示し、誠実さを示し、真実と正義を示すことで、私たちは確実に自分の幸せを築いていけるのです」と述べているし、あのマザー・テレサも、
「私にとって、神と思いやりはひとつであり同じものです。思いやりは分け与えるよろこびです。それはお互いに対する愛から小さなことをすることなのです。ただ微笑むこと、水の入ったバケツを運ぶこと、ちょっとしたやさしさを示すこと。そういったことが思いやりとなる小さなことです。思いやりとは人々の苦しみを分かち合い理解しようとすることで、それは人々が苦しんでいるときにとてもいいことなのだと思います。私にとっては、まさにイエスのキスのようなものです。そして思いやりを与えた人が自分の思いを分け与えながらイエスに近づくというしるしでもあります」と語っている。
ここで注目すべきなのは、ダライ・ラマはブッダの教えを、マザー・テレサはイエスの教えを信仰する者であるということだ。異なる宗教に属する二人が、「思いやり」という言葉を使って、まったく同じことを語っている。キリスト教の「愛」、仏教の「慈悲」、また儒教の「仁」、ギリシア哲学の「アガペ」まで含めて、すべての人類を幸福にするための思想における最大公約数とは、おそらく「思いやり」という一語に集約されるだろう。
さて、ホスピタリティを人類の普遍的な文化としてとらえると、その起源は古い。実に、人類がこの地球上に誕生し、夫婦、家族、そして原始村落共同体を形成する過程で、共同体の外からの来訪者を歓待し、宿舎や食事・衣類を提供する異人歓待という風習にさかのぼる。異邦人を嫌う感覚をネオフォビアというが、ホスピタリティはまったくその反対なのである。異邦人や旅人を客人としてもてなす習慣もしくは儀式というものは、社会秩序を保つうえで非常に意義深い伝統的通念だった。これは共同体や家族という集団を通じて形成された義務的性格の強いものであり、社会体制によっては儀礼的な宗教的義務の行為を意味したものもあった。
いずれにせよ、ホスピタリティを具現化する異人歓待の風習は、時代・場所・社会体制のいかんを問わず、あらゆる社会において広く普及していたのである。そして、異人歓待に付帯する共同体における社会原則がホスピタリティという概念を伝統的に育んできた。その結果、ホスピタリティという基本的な社会倫理が異なる共同体もしくは個人の間で生じる摩擦や誤解を緩和する役割を果たした。さらに、外部の異人と一緒に飲食したり宿泊したりすることで異文化にふれ、また情報を得る機会が発生し、ホスピタリティ文化を育成してきたのだと言えよう。
集団意識や家族意識という強い絆を持つ原始社会においては、ホスピタリティを媒介とした人間関係が社会を構成する基本原理だった。しかし、社会的発展や技術的革新が達成された近代社会においては、ホスピタリティの意義は社会的なレベルから個人的な対人関係へと変ってきたのである。そして、テクノロジーが飛躍的に進歩し、物質文明が浸透するにともなって人間関係の基本的原則が揺らぎはじめている現代社会、特に先進資本主義国においては、ホスピタリティの概念が失われている場面を至る所で見ることができる。グローバリズムの象徴ともされている某ハンバーガーショップ・チェーンのサービスに代表されるような、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「お次の方どうぞ」といった具合に、心のないサービス・ロボットが顧客に演出しているとしか思えないマニュアル通りのサービスにホスピタリティは感じられないのだ。
社会が成熟していくにつれ、人間関係は機能的な交換関係となり、相互関係によって結ばれた人間関係は失われていく。しかし、「ホスピタリティ・マネジメント」を提唱する経営学者の服部勝人氏は、人間の本性には、そうした「人間性の退化」を自然に矯正する理性が備えられていると主張する。現代社会が環境問題への世界的な浸透をホスピタリティ文化の人と自然との相互関係における「外的共生」とすると、ホスピタリティの醸成される人間の相互関係の再構築を「内的共生」と形容できる。つまり、ホスピタリティをもって、自然や人間との接点における修復作業を行うことこそ未来社会へ進化するための必然過程であるというのだ。
ホスピタリティとよく間違えられるのが、サービスである。ホスピタリティの理解に当たって、両者の本質が異なるということをまず理解する必要がある。サービスというのは商品と同様に販売すべきものであって、一般に「商品」には製品とともにサービスも含まれる。「財貨」という経済学用語では、商品とサービスをあえて区分していない。もし区分するとすれば、商品が有形でサービスが無形であるというだけである。
「サービス」serviceの語源は、ラテン語のservus(奴隷)という言葉から生まれ、英語のslave(奴隷)、servant(召し使い)、servitude(苦役)などに発展している。サービスにおいては、顧客が主人であって、サービスの提供者は従者というわけだ。ここでは上下関係がはっきりしており、従者は主人に服従し、主人のみが充足感を得ることになる。サービスの提供者は下男のように扱われるため、ほとんど満足を得ることはない。サービスにおいては、奉仕する者と奉仕される者が常に上下関係、つまり「タテの関係」のなかに存在するのである。
これに対して、「ホスピタリティ」hospitalityの語源は、ラテン語のhospes(客人の保護者)に由来する。本来の意味は、巡礼者や旅人を寺院に泊めて手厚くもてなすという意味である。ここから派生して、長い年月をかけて英語のhospital(病院)、hospice(ホスピス)、hotel(ホテル)、host(ホスト)、hostess(ホステス)などが次々に生まれていった。こういった言葉からもわかるように、それらの施設や人を提供する側は、利用者に喜びを与え、それを自らの喜びとしている。両者の立場は常に平等であり、その関係は「ヨコの関係」である。ゲストとホストは、ともに相互信頼、共存共栄、あるいは共生のなかに存在しているのだ。
その意味で真の奉仕とは、サービスではなく、ホスピタリティのなかから生まれてくるものだと言える。ここでいう奉仕とは、自分自身を大切にし、その上で他人のことも大切にしてあげたくなるといったものである。自分が愛や幸福感にあふれていたら、自然にそれを他人にも注ぎかけたくなる。「情けは人の為ならず」と日本でもいうが、他人のためになることが自分のためにもなっているというのは、世界最大の公然の秘密の一つである。
アメリカの思想家エマーソンによれば「心から他人を助けようとすれば、自分自身を助けることにもなっているというのは、この人生における見事な補償作用である」というわけだ。与えるのが嬉しくて他人を助ける人にとって、その真の報酬とは喜びに他ならないのである。他人に何かを与えて、自分が損をしたような気がする人は、まず自分自身に愛を与えていない人だろう。常に自分に与えて、なおあり余るものを他人に与える。そして無条件に自分に与えていれば、いつだってそれはあり余るものなのだ。
真の奉仕とは、助ける人、助けられる人が一つになるという。どちらも対等である。相手に助けさせてあげることで、自分も助けている。相手を助けることで、自分自身を助けることになっている。まさにこれは、与えること、受けることの最も理想的な円環構造といえるだろう。その輪のなかで、どちらが与え、どちらが受け取っているのかわからなくなる。それはもう、一つの流れなのである。
サービスとホスピタリティを区別することは、産業分類の問題にも関わってくる。サービスやホスピタリティに関連する産業にはさまざまなものがあるが、現在、第三次産業としてひとくくりにされている。産業を三つに分類するという考え方は、一九四〇年代にオーストラリアの経済学者コーリン・クラークが提案したものだ。クラークが分析した当時の世界の主要国家では第一次産業と第二次産業がGDP全体の七〇%以上であり、第三次産業はそれ以外の産業を合計した分野だった。しかし、現在のアメリカでは第三次産業がすでにGDPの七〇%以上、日本でも六〇%以上になっており、第三次産業には種々雑多な産業が混在することになる。もはやクラークの分類は時代遅れ以外の何ものでもなく、第三次産業の内部をさらに細分した新規の産業分野の提案が求められるのも当然である。
一九八〇年代になって「サービス経済時代」という言葉が流行したが、それを反映したサービス産業と総称される分野がその新規の産業の有力候補といわれた。しかし、サービス産業といっても、企画や修理などの企業を対象にした事業サービス、娯楽や洗濯などの個人を対象にした個人サービス、医療や教育などの特殊な能力を必要とする専門サービスによって構成され、やはり種々雑多な業種が混在することに変わりはない。
その後、アミューズメントビジネスのリーディングカンパニーであるナムコ社長の中村雅哉氏や情報学者の前野和久氏などが新しい産業分類について興味深い提唱をした。そして私はそれらをふまえたうえで、一九九二年に上梓した『ハートビジネス宣言』で現在の産業を七つのレベルに分類したのである。
第一次と第二次は従来通りとして、第三次は手や足などによる「筋肉サービス」で、代表的な業種は洗濯業、配達業、運送業など。第四次は、いわゆる装置産業で、知恵によって開発して筋肉によって保守などをする「複合サービス」。金融機関、私鉄、貸しビル、不動産業などがこれに含まれる。第五次は知恵のサービスで、教師、コンサルタント、システムエンジニアなど。マスコミやシンクタンクもここに入る。第六次は情緒サービスで、レジャー施設業、映画会社、劇団、芸術家など。そして第七次が宗教サービスで、冠婚葬祭業、神社、寺院、宗教などが含まれる。つまり、高次の産業になればなるほど付加価値が高くなるわけだ。
私は、人々に「感動」や「癒し」を提供し、人間を幸福にするビジネスを「ハートビジネス」と呼んでいるが、それは主に第六次と第七次の産業に集中している。そして、低次から高次の産業になるにつれて、いわゆる単なるサービスからホスピタリティへ重心が移行していくことがわかる。ピーター・ドラッカーは、あらゆる産業は知識化すると主張しているが、私は知識化したその後は、精神化していくのではないかと思っている。その産業の精神化において中核となるコンセプトは、やはりホスピタリティである。ちなみに私は冠婚葬祭業などは、従来の労働集約型産業から知識集約型産業へと移行し、さらには二一世紀において、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったものが集約された精神集約型産業になっていくと確信している。
精神集約型産業というのはハートビジネスそのものであり、そこでは当然のことながら、人間の感情というものが商品となる。「感情社会学」という新しい分野を切り開いたアメリカの社会学者アーリー・ホックシールドは、乗客に微笑むスチュワーデスや債務者の恐怖を煽る集金人などに丹念なインタビューを行い、彼らを感情労働者としてとらえた。ホックシールドは言う。マルクスが『資本論』のなかに書いたような一九世紀の工場労働者は「肉体」を酷使されたが、対人サービス労働に従事する今日の労働者は「心」を酷使されている、と。現代とは感情が商品化された時代であり、労働者、特に対人サービスの労働者は、客に何ほどか「心」を売らなければならず、したがって感情管理はより深いレベル、つまり感情自体の管理、深層演技に踏み込まざるをえない。それは人の自我を蝕み、傷つける。しかも、そうした「感情労働」を担わされるのは主として女性であるというのだ。
ホックシールドの考えは、正しい側面もあるにせよ、非常にネガティブな印象がある。彼は「ヨコの関係」としてのホスピタリティではなく、あくまで「タテの関係」のサービスにのみ目を向けていると言えるだろう。
ホックシールドが感情管理をネガティブにとらえ、いわばハートレス・ソサエティの理論化をしたとすれば、反対にポジティブにハートフル・ソサエティの理論づけをするのが「EQ」である。EQ(Emotional Quotient)というのは、IQ(Intelligent Quotient)に対するものだ。アメリカの心理学者ピーター・サロヴェイらが最初に提唱した「感情指数」のことで、思いやり、気配り、その他の情動を加味した知能という意味である。もっと具体的には、自律心、主体的判断、ポジティブ・シンキング、セルフ・コントロール、心の響き合いなどが含まれる。すなわちEQとは、その人の感情の豊かさを示すのだ。自分の気持ちをコントロールし、目標に向って自分を奮い立たせるという内に対する能力と、他人の気持ちを察し、人間関係をうまく処理する対外的な能力など、エモーショナルな面での総合評価なのである。
日本でも、アメリカの心理学者ダニエル・ゴールマンの著書『EQ~こころの知能指数』が一九九六年に出版され、ビジネス界を中心にEQブームを巻き起こした。私のいう知識化から精神化への移行というのは、IQ(知能指数)からEQ(感情指数)へのシフトということに他ならない。もちろん二十一世紀においては、IQもEQもともに高い人材が求められることは言うまでもない。しかし、人の心に「感動」や「癒し」を提供できるのは、IQよりもEQの高いホスピタリティ・マインドを持った人間であることも事実である。
さて、ホスピタリティとサービスを厳然と区別するといっても、当然ながらホスピタリティの精神、つまりホスピタリティ・マインドは外在化したとき、ホスピタリティ・サービスとして形になる。そしてその場合、「気」が重要なキーワードとなる。「気配り」「気働き」「気遣い」という使い方に見られるように、「気」は「ホスピタリティ・サービス」の精神に通じる。すべてのハートビジネスは、お客様に元・気、陽・気、楽しい雰囲・気といったプラスの気を与えなければならない。特にホテルをはじめとした接客業においては、お客様に向けて良い気を発し、お客様と気が合い、陰気だったお客様を陽気にさせるような心のこもったサービスを心がけなければならないのである。その意味で私は、ホスピタリティ・サービス業とは「気業」と訳すべきだと思う。
そして、気をたくわえるには気功というトレーニングが必要となる。私がいま社長を務めている会社はホテルや冠婚葬祭事業などを各地で展開しているが、一九八八年に先代社長であった父が「気業宣言」を行って以来、毎朝、社員全員で気功をやっている。その後、朝礼で次のような「気業宣言」のスローガンをその日の代表者が読み上げるのである。
「私たちホスピタリティ・サービスにたずさわる者は、気を養い、精気をみなぎらせ、笑顔を発し、お客様を喜ばせ、なごませ、楽しませ、快適、満足、安心、幸せをおくることを使命とする。それは、WellーBeingの実践である」
WellーBeing(ウェルビーイング)というのは、人々が与えられた生命を快適・良好な状態で生き、幸福な社会を具現化することだ。イギリスのノースケンジントンをはじめとした「福祉市民社会」のコンセプトにもなっているが、私の会社では「気業宣言」に先立って「ウェルビーイング宣言」を行っている。
その「気業宣言」も、私が社長となった二〇〇一年からは「エストゥーエムS2M宣言」にその姿を変えた。これはより二十一世紀にマッチしたミッション・ステートメントを求めて発表したものだ。「S2M」は八つあるのだが、そのなかには、「スピード・トゥー・マーケット~市場への迅速な対応」や「スキル・トゥー・メジャー~一流になるための技術の向上」などとともに、「サービス・トゥー・マインド~お客様の心に響くサービス」などが入っており、「ウェルビーイング宣言」や「気業宣言」からの一貫した流れに沿っている。なお、お客様の心に響くサービスとはホスピタリティ・サービスそのものであることは言うまでもない。
高度消費社会などと表現されるが、マーケティングの展開とともに「ゆたかな社会」が創出された。百貨店、スーパーマーケット、コンビニエンスストア、量販店などでは、毎日のように衣食住に関するさまざまな新製品が導入されている。その結果、私たちは物質的には何不自由ない生活が営めるようになった。そして現在のモノ余り現象のなかで「人間の本当の幸せとは何か」という問題が提起されている。しかし、メーカーはいまだにモノづくりにエネルギーを費やし、サービス業はマニュアル化したサービス・ロボット的な対応に明け暮れている。
スカンジナビア航空の元CEOヤン・カールソンは、顧客がヒト、モノ、施設と接する瞬間を「真実の瞬間」として重視した。もともと「真実の瞬間」とは、闘牛士が牛を仕止める「トドメの一撃」のことを言う。これをマーケティング用語としたのが、スウェーデンの経営コンサルタントのリチャード・ノーマンで、企業が顧客と接する瞬間を表現した。その後、カールソンが「企業は顧客と接するとき、真実の瞬間からすべてを学ぶべきである」と提唱し、彼の経営哲学に結晶させたのである。彼は、顧客にとって航空会社の印象は、航空機や営業所の建物などではなく、最前線の従業員が提供するサービスの質で決まると考えた。スカンジナビア航空の場合、一回の応接時間は一五秒にすぎないが、その回数は年間五〇〇〇万回にも達する。この五〇〇〇万回の応接時間こそスカンジナビア航空の成功を左右する瞬間だというのである。この「真実の瞬間」というコンセプトは、世界中のサービス企業に大きな影響を与えた。
経営学者の浦郷義郎氏も言うように、そもそもビジネスとは、人間に喜びや感動を与え、幸福をもたらすことを至上命題としているはずだ。そして、その対象となる人間は、顧客、従業員、およびその他の利害関係者である。彼らは多様な欲求と感情を持つ生身の人間である。こうした人々にありきたりの製品やサービスを提供しても、彼らの心を動かすことはできない。従来の日本企業は、この最もシンプルなことを置き去りにしてきたと言える。
現在、世界的に活力のある企業というのは、明確なビジョンを持ち、従業員が相互に信頼し合い、強い連帯感を持っている企業である。彼らは嫉妬や羨望に駆られるのではなく、心の奥底から相手を祝福し敬意を表している。こうした人間関係の信頼や愛情のなかから顧客重視、従業員重視の企業文化が生まれている。
アメリカにおいて「顧客満足」や「顧客価値創造」をテーマにした講演会やMBAの授業、あるいは最近のマーケティング関連書のなかで最も引き合いに出されるのが、ノードストロームである。ワシントン州シアトルの小さな靴の専門店からスタートしたノードストロームが世界中から注目される百貨店になったのは、顧客へのホスピタリティという視点から経営全体を見つめているからだ。また、現場の従業員に全幅の信頼を寄せているからだ。従業員は、どんな返品にも応じてくれる。いちいち上司の許可を取る必要はない。顧客の事情が何であれ、たとえ顧客が嘘をついていても、理由のいかんを問わず、従業員は顧客の要望に応えることになっているからである。また、顧客が求めている商品が売り場にない場合には、競合他社から購入してまでも顧客の要望に応じることになっている。
その結果、真偽のほどは怪しいにせよ、ファッションデパートなのにタイヤの返品を受け付けたといった有名なエピソードをはじめ、ノードストロームについての「伝説のサービス」が数多く口コミで流通することになったのだ。ノードストロームは、トップから最前線の従業員にいたるまでホスピタリティ・マインドに徹した人材によって構成された「顧客満足」のチャンピオンとして、その名声を不動のものにしている。
しかし、ビジネスにおけるホスピタリティ・マインドといえば、やはりホテルが思い浮かぶ。ホテルこそは、ホスピタリティ・マインドを純化したビジネス形態と言えよう。ホテルは接客を第一としたビジネスであり、もっぱら形のないものを顧客に提供している。有形の部分の比重は相対的に低く、その顧客が認知した価格の全体が重要となる。建物などのハードウェア、雰囲気の良さや料理のおいしさといったソフトウェア、そして心のこもったサービスというハートウェアのすべて、生身の人間が多元的に認知する価値のすべてが問題となるのだ。
そのホテルビジネスにおいて、名経営者として知られるのが、J・ウィラード・マリオットである。世界的なホテルチェーンのオーナーである彼は、従業員に家族のように接した。彼は従業員に対して同じ目線で接し、フレンドリーな対応をした。彼は、「従業員を大切にすれば、従業員は顧客を大切にしてくれる」という価値観を持っていたのだ。
それゆえ、マリオットは真のホスピタリティ・マインドを持っていた。従業員が病気のときには、自ら足を運んで見舞いに行った。困っている人には、いつでも時間を割いて相談に乗った。彼の最大のテーマは、従業員の家族の責任と現場への義務を両立させることだった。彼は従業員に対して理解と援助を惜しみなく与え、マリオット・ホテルを利用する顧客との人間的なふれあいを最も大切にしたのである。
「真に幸せになれる人というのは、人に奉仕することを追求し、どうやって人に奉仕するかを見つけた人だ」
これはアルベルト・シュヴァイツァーの言葉だが、彼は非常に重要なことを言っている。会社のためだけでなく、自分の人生にとって人に奉仕するということが、どれだけ価値のあることであるかを語っているのだ。
ホスピタリティは決してビジネスだけの問題ではない。企業のみならず、病院、学校、自治体、非営利組織を含んで、あらゆる組織はホスピタリティ志向型組織へと変身していく必要がある。ホスピタリティ・マインドを文化としてその体内に取り入れた組織しか二一世紀には生き残れない。そもそも、この世の中のあらゆる人々がホスピタリティ・マインド、つまり「思いやり」の心を持っていれば、戦争など起こらないはずである。「ホスピタリティ」こそは、人類が二一世紀において平和で幸福な社会をつくるための最大のキーワードだと言えるだろう。世界を変えるのは「憎悪」ではなく、「思いやり」だ。
ホスピタリティが世界を動かすのである。