平成心学塾 社会篇 人は、かならず「心」に向かう #009

第八講「デザインされる生老病死」

第八講「デザインされる生老病死」

 

偉大な社会生態学者であるピーター・ドラッカーも言うように、未来社会についての最高の予言者は人口統計である。人口構造の変化が意味するところを読み取れば、未来の私たちの姿が見えてくる。一九九八年、国際高齢者年の開始に寄せて、コフィー・アナン国連事務総長は世界の劇的な人口高齢化を指して、「私たちは人口学を越え、経済的、社会的、文化的、心理学的および精神的に重要な意味合いを持つ静かな革命の只中にいる」と語った。
全世界の六〇歳以上の高齢者の人口は、今後五〇年以内に一五歳未満人口、すなわち子ども人口を上回ると推測されている。全人口に占める高齢者の割合は二〇〇〇年で一〇パーセントだが、二〇五〇年には倍以上の二二パーセントに達する。高出生・高死亡率から低出生・低死亡率への歴史的な人口構成の移行は、人類の歴史上初めて、高齢者と若者が人口の等しい割合を占めるという事態をもたらすだろう。
先進地域では、高齢者の数が子どもの数をすでに上回り、出生率は人口補充水準を下回っている。日本を含めた一部の先進国では二〇五〇年までに、高齢者の数が子どもの数の倍を上回ると予測されている。途上国では先進国以上の速度で高齢化が進むとも言われているが、現在における世界の平均年齢は二六歳。最若年国はイエメンで一五歳、最高齢国は日本で四一歳。世界一の高齢化国とされる日本だが、二〇〇三年九月における六五歳以上の高齢者人口は二四三一万人で、総人口の一九・〇パーセントを占め、人口、その割合とも過去最高となった。政令指定都市でさえ、北九州市のように高齢者割合が二〇パーセントを超える都市も出現している。
そのような未知の超高齢化社会を生きる私たちにとって何よりも大切なことは、「老い」の意味や価値をとらえなおすことだろう。「老い」は人類にとって新しい価値と言える。自然的事実としての「老い」は昔からあったし、社会的事実としての「老い」も、それぞれの時代、それぞれの社会にあった。しかし、「老い」の持つ意味、そして価値は、これまでとは格段に違ってきているのだ。
これまで「老い」は、あまりにもネガティブにとらえられてきた。仏教では、生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬこと、すなわち「生老病死」を「四苦」と見なしている。もともと人生を苦と見なすことはインド思想一般に通ずることで、すでに『ウパニシャッド』の中にも見えている。しかし、これを強く推し進めたのはブッダことゴータマ・シッダールタであった。ブッダは一切の既成の立場、あるいは形而上的独断を捨て、ありのままに対象そのものに目を向け(如実知見)、現実世界の実際の姿を解明することから出発した。そうして直面したものが人生の苦ということだったのである。
彼の出家の動機も、苦の問題と関わっていた。シャカ族の王子であった若きブッダは、あるとき次のように考えた。
「世間の愚者たちは、自分が老い、病み、死ぬことを忘れ、他人の老、病、死をけぎらいするが、私は自分も老い、病み、死ぬことを思い、快楽を避けて修行し、静寂の境地に到りたい」
このように、ブッダは早くから老、病、死の苦悩を自分の問題と考えたようだが、多くの仏伝はこれをドラマティックな物語にまとめている。すなわち、若きブッダが郊外に遊びに行く途中でまず老人を見て、「あれは何か」と従者にたずねて知り、次に別の門から出て病人を、次に死人を見て、いちいち従者の説明を求め、最後に出家修行者の円満な容貌を見て、これこそ自分の理想であるとして出家する決心を固めたという。これがいわゆる「四門出遊」だが、この物語はおそらく比喩的なフィクションであって、必ずしも事実と見なす必要はないだろう。むしろブッダ自身が内面的反省において人間の苦悩の問題を思索し、ついにその解決のために出家を決意したと考えるべきである。そして出家した後も、人間の苦悩について考え続けたブッダは、ついに次のように宣言したのである。
「修行僧たちよ。苦悩についての聖なる真理というのは次の通りである。すなわち、誕生は苦悩であり、老は苦悩であり、病は苦悩であり、死は苦悩である」
現在においては誕生を苦悩と考える人はあまりいないだろうから生を外すとしても、老病死の三つの苦悩が残る。いくらブッダ的認識を単なる知識として知ったからといって、老病死の苦しみが直ちに消えるわけではない。
現代人は健康、スポーツ、美容、化粧などに異常なまでの関心を寄せているが、その背後には空間や身体への執着がひそんでいる。老病死に対する恐怖や苦しみから逃れようとしているのだろう。
また、現代人がテレビ、ビデオ、DVDをはじめとする映像文化装置に夢中になることを、尽きることのない空間への執着にうち興じているのだという見方もある。現代人はどこまでいっても、老病死から逃れられないのだろうか。
私は思いきって発想の転換をしてみたいと思う。いっそのこと、苦を楽に書きかえて、「四苦」を「四楽」に転換してしまってはどうだろうか。はじめから苦だと考えるから苦なので、楽だと思いこんでしまえば、老病死のイメージはまったく変わってしまう。実際、ブッダが苦悩ととらえた誕生にしても、「四苦」から卒業していったようなものではないか。老楽、病楽、死楽というコンセプトを考えたときに、私たちは人間の一生が光り輝く大いなる「グランドライフ」であることに気づくのだ。
せっかくブッダが形而上的独断を捨てて、「一切皆苦」を悟ったというのに、おまえはまた形而上的独断を持ち込むのかという人もいるだろう。しかし、私は仏教の土俵で相撲をとろうとは思わない。私はブッダを心からリスペクトし、「さんせん山川そうもく草木しつかい悉皆じょうぶつ成仏」とか「他力」といった仏教のコンセプトを心の支えにしている人間だが、仏教者ではない。私は冠婚葬祭をはじめとして、人の心に「感動」や「癒し」を提供するハートビジネスを唱える者である。そして私は、そのハートビジネスの論理で、老病死を苦悩だとはとらえない。仏教は大変すぐれた宗教だが、あくまで一つの論理的仮定が完結されたシステムであり、その完結されたシステムのなかで「四苦」が聖なる真実というのは当然である。だいたい、老病死は厳然として在る現象なのだから、それを苦ととらえることも形而上的独断ではないだろうか。
本当は、老病死は美しいものでも醜いものでもないのだろう。老病死はそのままただ老病死なのである。だから、それを苦ととらえようが、楽だととらえようが、それはその人の自由だ。しかし、ハートビジネスの立場において、やはり私はポジティブな老楽、病楽、死楽のデザインというものを考えたいと思う。それぞれのデザイン・コンセプトについて、具体的に見ていこう。
まず、「老い」について。作家の堺屋太一氏も言っているが、今の日本は史上稀に見る「嫌老好若社会である。多くの日本人が、老いは醜く、若いことは格好いいと思っているところがある。
しかし若さを好むのは、実は近代工業社会に特有の現象にすぎない。近代工業社会は「物財の供給増加こそ人間の幸せ」と考え、次々に新しい技術を導入し、規格大量生産を完成させた。そのため、経験や蓄積よりも、素早く反応できる運動神経、長時間労働に耐えられる体力、新しい技術を速やかに覚えなじむ記憶力が重視されたのである。それには若い方が都合がいいのだ。
加えて、個性のない規格品を大量に生産するため、モノに対する愛着が湧かず、使い捨ての習慣が拡まった。そこでは若くない高齢者はゴミや廃品扱いされ、使い捨てにされたのである。つまり、人もモノも新しい方がいいというのが近代工業社会だった。
さらに近代工業社会で若さが好まれ、老いが嫌われたもう一つの理由は、人口増加だった。若い勤労者が数多く生まれる人口構造になっていたため、高齢者は早期に引退し、若者に職場と財産を譲るべきだと考えられていたのである。
ところが、人類がつねに「嫌老好若社会」であったわけではない。若いことが喜ばれたのは近代だけの特色で、古代や中世は逆に「好老社会」だった。洋の東西を問わず、聖者の像は年齢以上に老けて描かれている。老けて見えることは、神の恩顧には必要なことだ、聖者たるべきものは経験と知恵を備えるべきだ、と思われていたのである。
古代には「好老社会」というか、とてつもない「好老文明」とでもいうべきものが存在した。古代エジプトである。ピラミッドをはじめとした壮大な「死」の文化を誇った古代エジプト人は「老い」に対しても豊かな文化を持ち、老人を非常に大切にした。それは、年を取り、経験を積むと、人間は賢くなると考えられていたからである。賢くなった老人は、知恵の宝庫であり、技術の伝承者でもある。つまり、社会の貴重な財産として扱われていたのだ。遺された壁画の多くには、一人の老人のまわりに何人もの若者が集まっている様子が描かれている。ブドウを摘んだり、小麦を収穫したり、水を怖がるロバに河を渡らせようとする老人を若者たちが見ているのである。当時、いかに老人が若者たちにとっての知恵袋であり、人生の師として尊敬されていたのかがよくわかる。老人は「弱者」だからいたわり、大切にするのではない。何より「経験」と「知恵」を持っている老人を尊敬するからこそ大切にするという、本物の敬老精神が古代エジプト人にはあったのだ。
そして、古代エジプトには「老人の杖」という警察官までいたのである。もし、「あそこの家では老人をいじめているようだ」などという情報が入ったら、それを聞きつけた「老人の杖」が乗り込んでくる。「老人の杖」は、よめ嫁しゅうと姑問題、親子の虐待、夫婦喧嘩など、家庭内のさまざまなトラブルを取り締まる組織で、つねに国民の生活に眼を光らせていた。隠密に聞き込み調査をして、その家で若者が老人をいじめているという噂が事実だとわかれば、堅い木材の杖で若者を百叩きにするのだ。このように古代エジプトでは、老人は社会全体から尊敬を受けていただけでなく、実質的に守られていたのである。
また、古代中国も「好老社会」であった。湯川秀樹なども言っているが、中国では古代に生まれた思想が、青年期的思想であるよりは壮年期的であり、さらに壮年期的であるよりは老年期的である。つまり古代において、中国思想はすでに円熟して「老成した」というべき思想なのだ。
なかでも、老子の思想が最も老成した思想と言えるだろう。人間が生まれ、老いて、死ぬという生命の過程をどのように考えていくかが中国古代哲学の重要なテーマだったが、老荘の哲学では生命の基盤に「気」というものを置き、そこから「生」と「老」と「病」と「死」をとらえていった。もともと老荘の哲学では人間の呼吸する気息と宇宙全体を充たしている大気は根本において同じであるとし、それを「気」と名づけた。そして、人間を含む全宇宙の現象を、仏教や儒教が形而上の「理」で説き明かそうとしたのと対照的に、形而下の「気」で説明しようとしたのである。
人類の長い歴史のなかで、さまざまな文明がいろいろな地域に出現したり滅亡したりして今日に至っているわけだが、老子は今から二千数百年前にすでに人類文明の今日的状況、あるいはこれからの状況を見透していたように思う。科学文明が未発達だった時代の老子が、近代以降の科学文明、そして工業社会に対する最も痛烈なアンチテーゼを打ち出しているのは、驚くべきことである。科学文明の進歩が必ず人類の幸福につながるとする一九世紀的な楽観論から抜け出して、科学の進歩とか近代工業社会に対する基本的な疑問を現代人は抱いている。そういう二〇〇〇年以上もの人間の作為のもたらす結果への疑問が、古代中国にすでに現われていたのだ。また、「遊び」とか「ゆとり」とか「シンプル」とか「スロー」といった二一世紀のキーワードは、いずれも老子の世界に通じていると私は思う。
もともと、老子の「老」とは人生経験を豊かに積んだ人という意味だ。またラオチュウ老酒というように、長い年月をかけて練りに練ったという意味が「老」には含まれている。老荘の哲学は「老い」というものを、醜く年を取ること、老衰していくことというようにネガティブにとらえるのではなく、充実であり円熟であるとポジティブに考えるのである。
孔子の儒教においても、「老い」は決してネガティブなものではなかった。『論語』為政篇には次のあまりにも有名な言葉が出てくる。
「子ののたまわく、われ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したが順う。七十にして心の欲する所に従ってのり矩をこ踰えず」
一五歳で学問に志し、三〇になって独立した立場を持ち、四〇になってあれこれと迷わず、五〇になって天命をわきまえ、六〇になって人の言葉が素直に聞かれ、七〇になると思うままにふるまってそれで道を外れないようになった・・・・・・この孔子の言葉は、老いることを衰退とせず、一種の人間的完成として見ていることを示している。
実際、孔子は非常に老人を大切にした。孔子の日常生活を具体的に記述した『論語』郷党篇によれば、町内の人々と一緒に酒を飲むときは、杖をついた老人が退席するのを待って、はじめて退出したという。孔子は町内の集まりでは厳格に「礼」を持ち出したりしなかったが、年長者を敬う態度はつねに変わりはしなかったのである。
儒教は農耕社会を基本としている。農耕社会において人間は年を取れば取るほど経験が豊かになるから、当然、老人を尊重することになってくる。たとえば集会があると、年を取った者が上座を与えられる。一定の年齢になると、朝廷からはと鳩づえ杖などを贈られ表彰を受ける。「敬老」「尊老」という考え方が徹底していたわけだが、これは日本にも古くから持ち込まれて、戦前まではっきりとした形で残っていた。
その儒教に基づく「敬老」「尊老」精神が日本で最も大きく花開いたのが江戸時代だった。江戸は日本史に特筆すべき「好老社会」だったのである。『日本書紀』によれば四世紀ごろに『論語』が伝えられ、その後、儒教は律令制のもと、大学寮で教えられた時期もあった。しかし本格的に日本に受け入れられたのは江戸時代、幕藩体制を支える思想的基盤に用いられるようになってからである。このとき、儒教は宗教としてではなく「儒学」という学問として受け入れられた。この儒学の考えが武士から町人にまで浸透し、江戸の人々は親孝行に努め、老人を大切にした。徳川家康は江戸幕府を開く前に『論語』を愛読していたというが、七五歳まで生きたことで知られている。今でいえば一〇〇歳以上の長寿だが、当時の平均寿命から考えると、老人として生きた時期がものすごく長かったわけである。ずっと老人であった家康は当然ながら「老い」というものに価値を置いたわけで、これがたとえば織田信長なら「老い」を重視などしなかっただろう。その家康は幕府の組織をつくるにあたり、将軍に次ぐ要職を「大老」とし、その次を「老中」とした。家康がいかに「老」という文字を大事にしていたかがよくわかる。大老は絶大な権限をもっており、大老が一度決定したことは将軍といえども変えられなかったという。また、町人たちも古典落語でおなじみのように横丁の隠居を尊敬し、何かと知恵を借りた。江戸には、旦那たちが四〇代の半ばから隠居してコミュニティの中心となる文化があったのだ。
江戸という社会が「好老社会」であったのに対し、現代の日本は「好若社会」であると言える。それはエネルギーやスピードや大きさに価値を置いた社会であり、つまり力や量の論理がまかりとおる社会であり、「若さ」の文化と言いかえることもできる。江戸にはエネルギーやスピードといった価値や、力や量といった論理はなかった。現代日本社会から見て、江戸という社会の特徴は「リサイクル」と「ボランティア」という二つの言葉で言い表されるが、その二つの言葉がいま、注目されているのは、日本がかつて江戸時代に持っていた循環型の暮らしや、相互扶助の豊かな伝統が失われたことを逆に示しているのだ。江戸の暮らしは自然のリズムにそって流れていたし、人もモノもゆっくりと動いていた。人がその一生を通じて蓄えた知恵や技能がいつまでも役に立ったのである。
そうした社会には年寄りの役割というものが厳然としてあったし、社会そのものも、年寄りのようにスローな動きをしていた。若さが物を言うスポーツや芸能などなく、今でいうところの情報量も、若者よりも老人の方が豊かだった。また固定した社会は競争社会ではなく、のんびりしていた。「先憂後楽」という語に集約されるように、江戸の人々にとっては、今日と違って人生の前半より後半に幸福があった。若返りという思想はなかったのである。こうした「老い」が尊重された社会というのはまた、「若さ」をたたえる社会よりも、人にも自然にもやさしい社会であり、文化であったと言えるだろう。
かつてない超高齢化社会を迎える私たちに、いま最も必要なのは、古代エジプトや古代中国や江戸のように「老い」に価値を置く思想である。そして、それは具体的な政策として実現されなければならない。世界に先駆けて超高齢社会に突入する現代の日本こそ、世界のどこよりも「好老社会」であることが求められる。日本が「嫌老社会」で老人を嫌っていたら、何千万人もいる高齢者がそのまま不幸な人々になってしまい、日本はそのまま世界一不幸な国になる。逆に「好老社会」になれば、世界一幸福な国になれるのだ。まさに、天国か地獄かである。そして、日本が「好老社会」になるためには、日本一の超高齢都市である北九州市が「好老都市」になる必要がある。東京でも大阪でもなく、市民の平均年齢と高齢者割合が日本一、いやおそらく世界一の北九州市こそが、まず先駆けとして「好老都市」になるべきなのだ。私は「好老都市」のことを、高齢者が幸福になれる街という意味で、「老福都市」と呼びたい。また、国際的にアピールするためには「グランドシティ」という言葉を使っている。ともに非常にポジティブな印象がある。
現在、特区行政ということで、物流特区など数多くの特区が全国につくられている。私はぜひ北九州市に「高齢者特区」をつくるべきだと思う。全国には一人暮らしの高齢者がなんと三〇〇万人以上もいる。その人々をはじめ、全国の高齢者が北九州市の「高齢者特区」に集ってくるといいと思う。もともと北九州市は医療施設や介護施設が充実していると言われるが、それらをさらに充実させて、逆に税金や医療費は安くする。買い物はもちろん、高齢者向けのレジャー施設やカルチャー施設も充実させる。つまり徹底して、高齢者にとって安心で楽しくて生きがいを持てる街をつくるのである。
もちろん、これらをすべて北九州市民の税金だけでまかなうのは大変だし、はじめから不可能である。しかし「高齢者特区」なら、国が負担する。国も、全国に先駆けて理想的な高齢都市のモデルづくりができれば、国益を高めると判断するはずだ。全国各地でバラバラに高齢都市モデルをつくるより、日本一の高齢都市である北九州市において集中的に実験した方が効果は上がるのではないだろうか。
その場合、イギリス・ノースケンジントンのオープン・エイジ・プロジェクト(OAP)が多くのヒントを与えてくれる。OAPは、ノースケンジントンで一九九三年に創始され、現在はケンジントン・アンド・チェルシー区全域および隣接したウェストミンスター区の一部の五〇歳以上の人々の「アクティブ・レジャー」(活動的な余暇)のために活動している非営利市民組織である。高齢者にとってケアのシステムが整っているのは安心なことだが、大半の高齢者は、できるなら心身の健康を保ち、あるいは回復して、コミュニティのなかで最後の段階まで生き続けたいと願っている。OAPはその願いを満たすために役立つ活動と人間関係を提供するコミュニティ・ワークである。その活動は、個人に幸福感をもたらすとともに、ケアや医療の予算削減に役立つという社会的機能を担っている。
高齢者のアクティブ・レジャーといっても実にさまざまだが、OAPでは八つに活動を分類している。まず、社会の仕組みや文化的なトピックなど、メンバーから要望の多いテーマについて、さまざまな講師を招いて話を聴いたり、時事問題に絞ったディスカッションをしたりする「フォーラム系」。ウォーキング、ヨガ、太極拳、フィットネス、ラインダンスなどの「身体系」。実技による表現と鑑賞とを含めた、美術・音楽・文芸などの「アート系」。高齢者用無料交通パスを利用してあちこち遠出し見学したり、自然を楽しんだりする「アウティング系」。哲学・コンピュータなどを学ぶ「学習系」。多様な文化・社会のあり方や歴史などをライフ・ヒストリー(個人史)の紹介も交えて学び合う「マルチカルチュラル系」。プランづくりのための話し合いを含めて、メンバーの親睦を深めるための会合を開く「親睦系」。最後に、チェスなどの「ゲーム系」である。
ノースケンジントンでは、いわば街全体がカルチャーセンターとなっており、これらの余暇活動を通じて、高齢者たちは生きがいを得ている。さらに日本で同様のプロジェクトを実行する場合、囲碁・俳句・盆栽・茶道・陶芸・水墨画・写経・琴・三味線・小唄・詩吟などなど、若者よりも高齢者向きの「老熟」や「老成」を必要とする文化、私のいうところの「グランドカルチャー」を広く取り入れていくべきだろう。
これまで人々のコミュニティの中核をなしてきたのは親族、地域社会、学校、職場などであった。それらを「縁」によって見ると、「血縁」「地縁」「学縁」「職縁」となる。しかし今後は文化・スポーツなど趣味をともにする同好の人々からなる「好縁」、さらには道としての文化で人間的完成を求め、ボランティアやNPO活動で社会への貢献をめざす人々の「道縁」が中心になると思われる。茶道などの道を極め、NPO活動によって気功、太極拳、礼法などを普及させていく。さまざまなグランドカルチャーは、「心の社会」への入り口となりうるのではないだろうか。
次に、「病い」について。
今日、健康に対する人々の関心は異常なほど高い。
一般に人は、健康なときには自分の身体のことなど意識しないものであり、それを意識するのは、身体の不調なとき、「病気」になったときだ。現在のように健康がことさら強調されているのは、人々がもっと健康になりたいというより、病気への適切な接し方がわからなくなって、ただひたすら病気を恐れる気持ちが強くなったからだろう。
人間という生物は、きわめて複雑な仕組みを持っている。だから、その働きに故障が起き、不調に悩まされることはいつの時代にもあったし、いつでも病気は恐れられた。ただ今日が違うのは、かつてのように病気が私たちの生活や経験の一部ではなくなって、もっぱら医学的に治療されるべきものになったことである。つまり病気は抽象的なものとして扱われるようになってきたわけだ。
現在の日本の医療は、ほとんど西洋医学に頼っている。その西洋医学には異なる二つの流れがある。一つはヒポクラテス的な考え、つまり病気を、肉体と精神のあいだの調和、もしくは人間と環境のあいだの調和、そういったバランスが壊れた状態と見る考え方である。それは現在よく知られている「自然治癒力」というものをコンセプトにしていた。
もう一つは、病気を、病原体とそれにかかりやすい個体との衝突であるとする考え方で、「特定病因説」と呼ばれるものである。デカルト的な合理主義にもとづく医学が生んだ重要な成果で、細菌学の発達と結びついて、近代医学の王道を形づくった。病気にはそれぞれ特定の原因があるという単純な考え方にすぎないのだが、医学をまさに近代医学にしたのはこの考え方だったのである。しかし、この特定病因説は輝かしい成功を収めたものの、外科、内科、皮膚科、精神科といったように医学を細分化してしまい、全身的な病気に対しては有効でなくなった。また、その成功ゆえに、ギリシア以来のヒポクラテス的医学の持つ「自然治癒力」の重要性を隠す結果になったのだ。それだけではない。病気のシンボリズムとコスモロジーの観点もそうだし、何よりも「痛み」の人間的な意味が隠されてしまったのだった。
あまりに健康な人は、病人に対して思いやりがない、と言われる。病気をしたことがない人は現実を多次元的にとらえられないというか、さまざまな物の見方がしにくくなるわけで、それだけその人の生が貧しくなるのだ。だから、あまりに健康な人は、ただ単に健康でしかない人だと言える。
結核は一九世紀を代表する「病い」であり、二〇世紀を代表するのはガンだとされる。しかし、一九世紀の結核が霊的性格を帯びたものとして美化されることが多かったのに対して、二〇世紀のガンは、死を恥ずべきものとする産業社会の考え方と結びついて、人々をニヒリズムに追い込んだのだった。
そのことに大きく関わっているのが、近代医学の行なった「痛みの抹殺」である。一般には、それは麻酔やその他の方法による痛みの除去・軽減は近代医学の輝かしい成果の一つだとされている。でも、それによって近代医学は、痛みを技術の問題に変えてしまい、そのとき、痛みの持つ人間的意味を奪ったのだ。昔の人々は自分の偏頭痛や腹痛をどう扱うかを知っていた。痛みとは人間にとって、「悪」や「欠陥」を自らの身体で直接的に経験することであり、魂の宇宙的経験とさえ言えるものだったのである。ただ技術的に痛みを除去するのは、痛みへの対し方に現われる文化の知恵と多様性を失うことだった。痛みをむやみにそ殺ぐことで、現代人の生は貧しくなったのかもしれない。
さらに「病い」について考えてみると、カール・ヒルティの考えは、まさに「病い」に光を当てるものだと言える。スイスの哲学者にして法学者であったヒルティは、有名な『幸福論』のなかで、病気にかかった人はいつも、次の二つのことを念頭に置いていなければならないと述べている。
第一に、健康はたしかに貴重な宝であり、しかもたいていそれを失ってはじめて十分その真価を知るものではあるが、だからといって、健康を失えば絶対に不幸になるとは限らない。なぜなら、すべての人がときには健康でないこともあり、また、病気のままで生涯の大部分を過ごす人も少なくないからである。もし健康でなければ幸福でありえないとしたら、悲しいことだろう。しかし、それは真実ではない。不幸な病人がいるのと同様に、幸福な病人もいる。病気と幸福とは絶対に相容れないものではないのだ。
第二に、どんな病気も必ず、何らかの理にかなった目的を持っている。人は熟慮して、よくその目的を見出し、それが自分に課せられた務めである限り、これを促進しなければならない。ただ健康になるためばかりでなく、回復を妨げている特殊な障害を除くためにも、このような「意志の協力」が必要である。そうでなかったら、病気を誘い出している精神的要素は退散しない。それとは反対に、意志の協力があれば、まず自分は耐えられる程度に良くなり、最後に、その人に対する目的が達せられたならば、突然病気が治ってしまうことさえ珍しくない。
病気が与えてくれる「恵み」については、次のようなものが挙げられる。あまりにも多忙な多くの人々にとってはきわめて重要な、暇な時間、完全な休養、過去や未来を落ち着いて見渡すこと、人生の真の宝についての正しい認識、数々の良き思想、自分のまわりの一切のものに対する感謝などは、ただ病気のときのみ与えられるのである。これらの恵みは、ちゃんとした立派な人でも、まったく病気をしないでつねに健康であると、ともすれば失いがちなのだ。また病気のおかげで、人生最大の喜びの一つである病気の快癒と、生命の新しい充実の満足感とを味わうことができる。
ヒルティは、病気もまた大きな幸福になりうるとして、「病気は一種の浄化作用であり、健康なときにはなしえなかったろうと思われる、より高い人生観への突破口となることができる」と述べている。私は「より高い人生観への突破口」という感動的な言葉にふれて、「病い」とは人間にとって何らかのコミュニケーション行為ではないかと思いついた。その相手について、熱心なキリスト教徒であったヒルティは「神」という言葉を惜しむことなく何度も使っているが、私は「宇宙」、または「自然」という言葉を使いたい。「病い」の本質とは、宇宙・自然と人間とのコミュニケーションではないのか。ここで「気」というキーワードが出てくる。
「病は気から」と言われるように、病気とは気の問題であり、医療や病院について考える上でも「気」が重要なキーワードになる。東洋医学や東洋思想は、考え方の中心を「気」に置いている。宇宙には気という生命エネルギーが満ちている。人間や動植物は、宇宙から気のエネルギーを与えられて生まれ、また宇宙の気のエネルギーを吸収して生きているのだ。東洋医学によると、人間は天の気(空気)と地の気(食物)を取り入れて、体内の気と調和して生きているという。科学的に見れば、気は一つの波動なのである。したがって、気が乱れると病気になってしまう。
人間の身体とは気の流れそのものに他ならない。それは、ちょうどバッテリーのようなものだ。バッテリーは放電ばかりしていると、電気がなくなってしまう。長くもたせるためには、ときどき充電しなければならない。人間も同様で、気の充電をしなければ「気力」もなくなり、「やる気」も起こらなくなって、ついには「病気」になって死んでしまう。よく、多忙な人が何日間かリゾートへ行ってきて、「たっぷり充電してきた」などというけれども、あれは比喩ではなく、即物的な表現なのである。その人は実際に気を充電したのだ。そして、病気の人とは気が不足している人であり、最も気の充電が必要とされるのである。病院は、リゾートと同じく巨大な気の充電器とならねばならない。いわば、生命力の基地としての「気地」にならねばならないのである。
病院が気地となるためには、何が必要だろうか。人間が気を充電する方法はいくつかあるが、まず第一に睡眠があげられる。人間は眠ることによって、日中放出した気を充電する。睡眠中は宇宙と一体化して気のエネルギーを与えられており、睡眠とは一種の「宇宙ドック」のようなものなのである。睡眠とともに食事も大事だ。食物は地の気と呼ばれる。「医食同源」という言葉があるけれども、食とは医であり、薬なのである。自然の摂理に従って旬のものを食べ、味に気づき、過食せず、規則正しく食をとることが大切である。
そして、気功がある。気功とは、気を充電するトレーニングである。気功で大事なのは、朝起きて自然のフレッシュな気を取り入れることである。朝の五時から五時半という時間に、植物や動物も目覚めて、自然の気を取り入れている。人間も体内に朝の大気を丹田呼吸という下半身でする呼吸によって取り入れ、気を養うことができるのである。さらにいえば、日光浴や森林浴、海水浴なども大自然から気を吸収する効果的な方法だ。
病院が気地となるためには、サナトリウムのように空気の清い場所につくられることが本当は望ましい。しかし、すでに都市の中につくられた病院は、理想的な睡眠と食事を患者に提供することを心がけるべきだろう。また、気功のインストラクターを用意して、毎朝、身体を動かせる患者を集めて気功を指導することもよいだろう。これからの医療には、東洋医学と西洋医学の幸福な結婚が求められる。
しかし、最も大切なのは、気を提供する人間の存在である。一流のリゾートホテルでなぜか気が充電できるかというと、何よりもそこでサービスする人間が気をもっており、それを客に与えてくれるからだ。「気くばり」「気働き」「気づかい」などの使い方に見られるように、「気」は「サービス」に通じる。リゾートビジネスのような接客業においては、お客様に・気をつかい、楽しい雰囲・気を与え、・気を休め、・気を許していただけるようなサービスが必要とされる。お客様に向けてプラスの気を発し、陰気だったお客様を陽気にさせるようなサービスマンでなければならないのである。ハートビジネスとしてのすべてのホスピタリティ・サービス業にたずさわる者には気が必要である。気とはハートウェアそのものなのだ。
病院においても、設備などのハードウェア、娯楽などのソフトウェアももちろん大事だが、それ以上に気というハートウェアが求められる。いや、病院ほど、ハートウェアが必要とされる場所はないといってもよい。しかし、病院におけるサービスの提供者、すなわち気の提供者である看護婦の多くはその役割を果たしておらず、したがって多くの病院にはハートウェアが欠けている。いや、看護婦が役割を果たしていないというより、果たすことができないといった方が正しいだろう。看護婦不足のため、今日の病院はあまりにも過酷な職場となっており、彼女たちへの待遇は改善すべき点が山とある。そうなったのも、看護婦になりたがる女性が少ないからである。もっと看護婦の志望者を増やすためにも、彼女たちの賃金を上げ、社会的地位を上げなければならない。当然、国もそのようにバックアップすべきだ。それは現在の社会における最優先課題の一つだと思う。そして、すべての看護婦はプラスの気の発信者とならなければならないのである。彼女たちが疲れた顔をして元気がなかったり、イライラして邪気を発していては、患者の病気は良くなるはずがない。
もともと、病院を意味する「ホスピタル」の語源は、ホテルと同じく、ラテン語の「ホスペス」である。そこから、ホスピタリティという英語が発生した。言うまでもなく、ホスピタリティはキリスト教の隣人愛の精神に深く関わっている。病院とはその昔、教会の付属機関であり、病に倒れた人を最大限にもてなすための場所であった。ホテルも疲れ切った旅人をもてなす場所だった。ホスピタルもホテルもともに神の代理として、病人や疲れた旅人のような弱者をいたわり、もてなす場所、隣人愛を実行する場所であったわけだ。ホスピタリティとはハートウェアの別名であり、ハートビジネスのコンセプトでもある。看護婦たちに心からの笑顔が戻ったとき、病院はホスピタリティという魂を取り戻すのだ。
そして、最後は「死」についてである。
日本においては二〇世紀末から、脳死問題をはじめ、安楽死、尊厳死と、人間の死をめぐる論議が目立つ。今日ほど死に対して社会的に大きな関心が払われている時代はない。いつの世も人間の死生観は、その社会の文化の核をなしてきた。忍び寄る超高齢化社会の足音は、「生」の繁栄を謳歌してきた戦後の日本社会全体が「死」と正面から向き合わねばならない時代の訪れを告げている。その時代のはじまりが脳死、安楽死、尊厳死の問題だろう。しかしこれらの問題はいずれも、人間をモノと見なし、死を操作の対象ととらえている点で共通している。現代の医療テクノロジーの背景には、臓器移植に代表されるように人間を操作可能なモノと見なす生命観があるわけだが、そうした生命観は患者の側も共有している。たとえば現代の安楽死は、自らの命や身体は自分の意志で左右できる道具であるかのような価値観に根ざしている。このような道具的生命観は、きわめて工業社会的な生命観である。そこには霊魂の問題が決定的に欠けているのだ。
現代の文明そのものも、その存在原理を全体的に問われているといえる。近代の産業文明は、生命すら人為的操作の対象にしてしまった。そこで切り捨てられてきたのは、人間が自然の一部であるというエコロジカルな感覚であり、人間が宇宙の一部であるというコスモロジカルな感覚である。多くの人々が孤独な死を迎えている今日、動植物などの生命はもちろん、死者たちをも含めた大きな深いエコロジー、いわば「魂のエコロジー」の中なかで生と死を考えていかなければならない。
そして私は、葬祭業というハートビジネスに、失われた魂のエコロジーを回復する役割が与えられていると思う。われわれの日常生活の中に、死のイメージが強く入り込んでくるのは、葬儀や墓参りのときである。もちろん毎日のように死と向き合う医者などは別にして、われわれの多くは葬儀や墓において死に触れるのである。この意味で、葬儀や墓とは死者と生者がコミュニケーションするメディアであると同時に、生者における死のイメージをコントロールする仕掛けにもなりうるのだ。しかし、依然として日本の葬式は「悲しみ」の演出に終始しており、墓は不吉な悪霊たちのすみか住処である。要するに、どちらも陰気で暗いのだ。これでは死のイメージがポジティブになるはずがない。
葬儀について考えた場合、たしかに「悲しみ」の演出があってもいいだろう。死は決して不幸な出来事ではないが、悲しい出来事ではある。しかしその悲しみとは、実は死そのものの悲しみではなく、愛する者と別れる悲しみなのである。これは卒業式や送別会などにおけるセンチメンタリズムと同じだ。それらは学友や職場の仲間たちとの別れであり、同時に新しい世界への出発でもある。まさに、葬儀とは人生の卒業式であり送別会なのである。別れの悲しみを悲しみそのものと錯覚してはならない。今後の葬儀は別れの悲しみとともに、新しい世界への出発としての幸福な死を演出していくべきである。悲しみと涙だけの葬儀では、死者も浮かばれないし、生き残った者もつらいではないか。
また、墓については、すべては遺体や遺骨を土の下に埋めたことに問題が集約される。私は、人間の肉体が土に還ることは、エコロジーの視点から見ても正しいと思う。しかし、問題は生き残った人間の方にある。死者が地中に埋められたことによって、生者が、人間は死んだら地下へ行くという「地下へのまなざし」をもってしまったのである。「地下へのまなざし」は当然、地獄を連想させる。いくら宗教家が霊魂だけは天上へ昇るのだと口で言ったとしても、遺体を暗くて冷たい地中に埋めるインパクトの方が強くて、打ち消されてしまうのだ。その証拠に熱心なキリスト教徒でさえ、屍体がよみがえって生者の血を吸うというヴァンパイヤ吸血鬼伝説を信じていた。死後の世界のイメージが地獄と結びつくと、死の恐怖が生まれる。日本の新興宗教などの教団のなかには、「人は死ぬと、地獄に堕ちる」などと言って、それをなるべく避けるために信者から浄財と称して金をせしめるものもある。これは悪質な脅迫産業であり、人間の心にマイナスのエネルギーを与える、最もハートビジネスに反するものである。ハートビジネスは人々に天国のイメージを与え、死の恐怖から解放させるものでなくてはならない。そのためには、人々の「地下へのまなざし」を捨てさせ、「天上へのまなざし」を持たせることが必要である。そして二一世紀の墓こそは、人々が「天上へのまなざし」をもつための仕掛けとならねばならないのだ。その「天上へのまなざし」を容易に実現するために、天空に浮かぶ月の存在がクローズアップされる。月は古来より、さまざまな民族にとって死後の世界の象徴であり、輪廻転生の中継基地であり、かつロマン主義の代名詞とされてきた。
以上のような考えから、私は地球人類の墓標としての「月面聖塔」、そこへ地上から霊魂を送る儀式となる「月への送魂」を二一世紀における葬のモデルとして構想したのである。これらの構想は、その発表後、日本国内はもとより、キリスト教文化圏を含む海外のマスコミにも多く取り上げられ、さまざまな国や宗教に属する方々からも賛同をいただき、若輩ながらタブーに挑んだ私を大いに勇気づけてくれた。そして、二〇〇四年に「月への送魂」はついに実行された。
葬儀や墓が変われば、死のイメージが変わる。死のイメージが変われば、死生観が変わる。そして、死生観が変われば、失われた魂のエコロジーがよみがえり、この世に心の理想郷としてのハートピアが誕生するきっかけになるのではないだろうか。死のポジティブ・デザインは、人類にとって最大のテーマの一つなのである。
だいたい、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言い合うが、これはおかしいと私は思う。死なない人間はおらず、私たちは「死」を未来として生きている存在だからだ。もし死が不幸な出来事だとしたら、死ぬための存在である私たちの人生そのものも、不幸だということになる。これでは最初から「不幸」という結末の見えている負けいくさ戦に参加するのと同じであり、人が死んで「不幸があった」などと馬鹿なことを言っているあいだは、日本人の幸福などはじめからありえないのである。
「死」が不幸の親玉だから、それに近づく過程に他ならない「老い」も不幸とされ、当然ながら「病い」も不幸となる。ハートフル・ソサエティにおいては、老病死をトータルに「幸福化」するデザインが求められるのだ。
「生老病死」のトータルなポジティブ・デザインを考えた場合、やはり月が最大の鍵になる。現在、月面の開発がさまざまな形で計画されているが、地球ではどうしても治らず苦しめられた病気が、月面に来ると嘘のように治ってしまうケースがいろいろと考えられると言われている。その代表例が、筋肉、関節、骨などの病気だ。地球上では、車椅子の生活を強いられたり、寝たきりになってしまうこともある。しかし、重力が地球の六分の一である月では、体重も六分の一になり、松葉杖や車椅子なしで歩くことができるかもしれないのである。地球上では放っておけば悪くなる一方の関節炎やリューマチは、月面ではみるみるうちに快癒していく可能性もある。循環器系や呼吸器系の病気の治療にも月面は最適の場所だ。動脈硬化など心臓にプレッシャーがかかると危ないような病気には、低重力は大きな効果を示すに違いない。月面基地や月面ホテルなどの建造物内は温度と湿度が一定に保たれるから、喘息などの呼吸疾患を持つ人にもハンディキャップはなくなる。月で立つことは、地球で寝ているよりも疲れないのである。地球では電車の席が空くと、みんな争って座りたがるが、これは重力のなせるわざだ。月面では、二十四時間連続立ったままでも、それほど疲れない。いわゆる老人性痴呆症は身体が不自由になるところからはじまるというのが定説だが、その意味で月面は、老人が肉体的に快適に過ごすには格好の場所なのである。そのような老人たちがいったん月に住んだら、地球は帰りたくないほど辛いところだと思うかもしれない。
月は死者たちにとっての天国であるだけではなく、生者にとっても「老い」や「病」の苦悩を取り除いてくれる楽園となりうるのである。こうなると「生老病死」の苦悩の正体とは重力ではないかとさえ思えてくるが、低重力の月は、まさに巨大な「癒し」の場となるのだ。もともと月は地球の潮の干満を通じて、人間誕生と死をコントロールしている。二一世紀の「生老病死」は、月を中心にしてデザインされていくことだろう。